第3話(後編)――「赤蝋の型、川口の小舟」
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登場人物〈男性〉
ディエゴ〈28〉(遠征司令官、大尉) アルバロ〈27〉が遠征の際に名乗る仮名である。アルバロは新大陸の皇帝を自認し、新大陸からスペイン人勢力を一掃する意志を持つが、皇帝が前線へ出る体裁は避けるため、現場では「ディエゴ」を名乗って軍を率いる。妻や妾、侍女、兵は真相を知らされておらず、ディエゴを単なる高級将校と受け取っているため、呼称も態度もその前提で統一されている。
登場人物〈女性〉
サク・ニクテ〈22〉(正妻) コスメル島出身の先住民。コスメル島部隊5,000名の隊長。上陸地の井戸と倉を先に押さえ、配給と整列で隊の崩れを防ぐ。妊娠5か月で、腹の子の動きを隠さず前に立つ。
ドニャ・ベアトリス〈30〉(スペイン人) セビリア出身。夫はサンチャゴ大聖堂に属する聖職者で、説教と告解の取りまとめに関わっていた。夫は旧来の権力筋と近く、城塞の内側の噂や名簿の流れにも通じていたが、争いの後に失脚し、姿を消した。ベアトリスは生き残りのためにディエゴへ好意を示し、名と事情を取引にする形で近づく。遠征には侍女として付いてきたが、口と香りで間合いを詰める癖があり、ディエゴは情報源として手元に置いた。
イネス・アルバレス〈26〉(スペイン人) エストレマドゥーラ出身。夫はキューバ東部の砂糖農場の経営者で、圧搾機と倉、労働者の手配まで握っていた。夫は騒乱の夜に殺され、農場は人手と道具だけが残った。イネスは農場の内側を知り、誰が怠け、誰が盗み、誰が働いたかを具体で言える。ディエゴに好意を匂わせ、遠征では侍女として衣類や寝具の手配にも回るが、利で動く言い回しが抜けず、旧勢力との結びつきも疑われている。ディエゴは現場の証言を引き出すためにそばへ置いた。
クララ・デ・アビラ〈20〉(侍女・新任) サントドミンゴの司祭館で同居していた女性。台所だけでなく家計簿と支払いの控えを任され、買い物の値と銅貨の数を間違えない。表に立って働いて稼いだ経験は乏しいが、帳面と鍵の扱いで屋敷を回してきた。
マルタ・ロペス〈19〉(侍女・新任) キューバ島の小教会にいた司祭の家で暮らしていた女性。寝具と衣類を預かり、針仕事で傷みを直してきた。祈祷文と聖歌を覚えており、人前でも声が崩れにくい。読み書きは得意ではないが、手順を守るのがうまい。
レオノール・メンドーサ〈22〉(侍女・新任) イスパニョーラ島の司祭館で客間と寝具を預かっていた女性。割れ物や布の扱いが丁寧で、物の置き場を覚えるのが早い。先住民の女たちの言葉を少し知っており、水場や台所の伝言役に回れる。
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1521年4月22日、夕刻。サントドミンゴ港は出帆前の片づけでざわついていた。樽が石畳を転がり、縄が甲板を引きずられて擦れた音を立てる。砂糖の甘い匂いに、松脂と濡れた帆布の匂いが重なり、潮風がそれを薄く引き延ばした。ディエゴは桟橋の先まで歩き、錨綱の張りと荷の積み方だけを確かめた。夜明けに出れば足りる。そう思えた。
背後で足音が止まった。侍女のマルタ〈19〉だった。手には厨房の籠ではなく、濡れた麻布で包んだ小さな塊を持っている。顔色が冴えず、呼吸が浅い。
「旦那さま。北の桟橋で見たことを、黙っていられません」
「落ち着いて話せ。何を見た」
「砂糖の樽ではありません。持ち上げたときの重さが違いました。樽が軽すぎます。夕方、倉へ入った樽が20本ほどありました。ところが日が落ちてから、別の男が来て、樽の側面に付いている黒い印を塗り直しました。炭を水で溶いたものです。印を同じ形にしてしまえば、見張りは別の樽だと気づきません」
ディエゴは港の暗がりを見た。波止場の灯りが届かない水辺がある。昼間なら誰も気にしない、川口の低い岸だ。
「それで、その樽はどこへ行った」
「港の正面ではなく、川口のマングローブの陰へ運びました。人目を避けるように、2人ずつで静かに転がし、小舟に渡していました。小舟は沖で、もう1つの舟に積み替えていました。舟はカヌーの形で、漕ぐのが速いです。あのままなら、夜のうちに沖の船へ届きます」
「倉の者は止めなかったのか」
「止める口実がありませんでした。男は紙を出して、『総督府の命令だ』と言いました。古い印が押してありました。見張りは字が読めません。紙の文ではなく、赤い蝋だけを見ます。赤い蝋が付いていれば通してしまいます」
マルタは麻布の包みを開いた。赤い蝋の欠片が2つ、指先ほどの大きさで転がった。片方はひび割れ、もう片方には押し跡が残っている。ディエゴの指輪の紋ではない。昔の総督府で使われていた型の跡だった。
「これが、港の端の木杭の根元に落ちていました。樽を小舟に渡すとき、紙を扱って欠けたのだと思います。旦那さま。今夜ここを離れたら、同じやり方で火薬も手紙も銀も人も外へ流れます。港は昼の顔だけではありません。夜に穴が開いています」
ディエゴは短く息を吐いた。潮の匂いの奥に、湿った川泥の匂いが混じってくる。海へ出る前の匂いではなく、逃げ道の匂いだった。
「案内しろ。いまから見る」
◇ ◇ ◇
川口へ向かう道は灯りが少なかった。石畳が途切れると、靴底に泥が吸いついた。マングローブの根が黒く水面を掴み、虫の羽音が耳にまとわりつく。遠くの港はまだ明るいが、ここは別の世界だった。
ディエゴは兵を増やさなかった。動けば気配が漏れる。連れてきたのは、近衛のうち口の固い者だけだった。弩ではなく短い銃を持たせ、火縄は火を入れずに巻いておく。海の上では、光が一番の合図になる。
「小舟を出せ。速いのをだ。櫂の音を立てるな」
岸辺の暗がりで、油を塗った小舟が滑り出た。木の軋みが小さく鳴り、船底が水を押し分ける音が腹に響く。松脂の匂いが鼻に刺さり、濡れた縄が指に冷たい。兵が櫂を入れるたび、水滴が夜気に散って頬へ当たった。
マルタは舟に乗らなかった。岸に伏せ、指で沖の一点を示した。灯りが揺れる。動いている。岸から遠いのに、灯りだけが見える。灯りを隠さないのは、合図をやり取りするためだ。
ディエゴは声を出さず、手で指示した。小舟は真っすぐ追わない。灯りの背後へ回り込む。潮の流れに乗り、櫂の回数を減らす。追う側の音を消すためだ。
沖で、もう1つの影が動いた。カヌーが3艘、黒い線のように並び、樽を載せていた。樽は確かに軽い。運び手が腰を沈めずに、肩だけで持ち替えている。砂糖の樽なら、そうはならない。
ディエゴの小舟が寄せると、カヌーの男が気づいた。水面に小さなさざ波が走り、櫂の動きが乱れた。男が声を上げかけ、すぐに飲み込む。代わりに、荷を捨てる気配が出た。
「捨てるな」
ディエゴが低く言った瞬間、兵が鉤付きの縄を投げた。縄が空気を切り、濡れた音を立ててカヌーの舷へ掛かる。引くと、木がきしみ、男の息が詰まる音が聞こえた。
カヌーの1艘が逃げようとした。櫂が水を叩き、泡が白く立つ。だが小舟は短い距離で追いつく。追いかけるのではなく、横へ出て進路を塞ぐ。暗がりで、櫂の先がぶつかり、木が砕ける乾いた音がした。
男が袋を投げた。重い。水へ落ちた瞬間、鈍い音がして沈んだ。銀貨の袋だと分かった。沈む速さが違う。
「潜って拾え」
先住民の兵が無言で水へ入った。水面が割れ、冷たい飛沫が上がる。戻ってきた手には、濡れた袋があった。袋の口から、銀貨が2枚こぼれ、月の光を一瞬だけ返した。金属の匂いがした。
ディエゴは残りのカヌーをまとめて寄せ、男たちを引きずり上げた。濡れた衣が船底へ貼りつき、泥と汗の匂いが立つ。男の1人は、指先に黒い炭の粉を付けていた。樽の印を塗り直した指だ。
「名前を言え」
男は唇を噛み、黙った。歯の間から息が漏れ、酒の臭いが混じった。
もう1人が口を割った。若い。恐怖で声が裏返っていた。
「俺たちは運んだだけだ。港の役人に言われただけだ。紙があった。赤い蝋が付いていた」
「紙はどこだ」
男は首を振り、震える手で胸元を探った。濡れた革袋が出てきた。中身は紙束だった。文字は濡れて滲んでいるが、赤い蝋の痕は残っている。押し跡は古い紋と同じだった。
ディエゴは紙束を奪い取り、鼻先へ寄せた。墨と革と、古い香油の匂いがした。港の倉で扱う紙の匂いではない。役所の机の匂いだった。
「これを誰が押した」
男が視線を逸らした。答えない。そこでディエゴは樽へ手を伸ばした。
「樽を開ける」
兵が短刀を入れ、木栓を抜いた。樽の中から砂糖の匂いはしなかった。代わりに、油布の匂いが強く出た。油布を剥ぐと、木箱が現れた。箱の中には紙束、細い火薬包、鉛玉、小さな羅針盤、そして名簿のような書付があった。別の樽からは銀貨の袋が出た。数は多い。動かすと、硬貨が互いに当たって乾いた音を立てた。
ディエゴは顔を上げ、沖の暗い影を見た。カヌーが積み替えようとしていた相手が、まだ近くにいる。
「受け取りの船はどれだ」
男たちは黙った。だが、視線が揃って沖の一点へ流れた。夜目に慣れた者なら分かる。海面に不自然な影がある。帆を畳んだ小型船が、暗礁の外で風待ちをしていた。
「行く」
ディエゴの小舟は進路を変えた。櫂が水を押し、船底が波を切る音が速くなる。風が強くなり、塩気が舌に乗った。遠くの船から、かすかな木の軋みが聞こえる。見張りが気づき始めた音だ。
相手の船は帆を上げようとした。帆布がばたつき、滑車が鳴る。だが夜の短い手際では遅い。ディエゴの小舟が舷へ寄せるほうが早かった。
「火は入れるな。声も上げるな。縄だ」
兵が鉤を投げ、船縁へ掛けた。引くと、縄が張り、木が軋む。ディエゴは舷をつかみ、素早く乗り移った。甲板は濡れて滑る。裸足の足音が逃げる。魚油の臭いと、汗の臭いが混じっている。
見張りの男が短剣を振り上げた。ディエゴは避けず、腕で受けた。革が切れ、ぬるい血が流れる感触があった。すぐに銃口を男の喉元へ押し付けた。火縄はまだ点けていない。だが冷たい鉄だけで十分だった。
「動くな。生きたいなら、手を見せろ」
男の手が上がった。指先が黒い。炭だ。港で樽を触った手だ。
船倉を開けると、匂いで中身が分かった。砂糖の甘さではなく、火薬の乾いた刺激が鼻の奥を刺す。油布の箱が積まれ、布の包みが重なっている。包みの口から、蝋の棒と小さな金属の型が覗いていた。
ディエゴはそれを取って掌で転がした。型は小さいが重い。旧総督府の紋を押すためのものだ。これがあれば、赤い蝋はいくらでも作れる。
「お前が押したのか」
男は笑おうとして失敗した。歯が鳴った。
「違う。俺じゃない。俺は渡すだけだ」
「誰に渡す」
船倉の奥で、もう1人が立ち上がった。港の役人の服ではない。襟元が整い、指に墨が染みている。書記の手だった。目だけが妙に落ち着いている。
「私だ」
男は名乗った。
「ロドリゴ・マルティネスだ。総督府の書記をしていた」
「いまは何だ」
「島の者だ。生き残るために働いている」
「働き口は、これか」
ディエゴは船倉の箱を1つ開けさせた。中から出たのは名簿だった。島の名家、港の親方、司祭館の者、逃げた者の親族。名前が並び、横に金額が書かれている。次の箱には手紙束があった。宛名は島の外だ。プエルト・リコ、セビリア、カナリア。封は赤い蝋で閉じられている。
ロドリゴは視線を逸らさなかった。
「あなたの軍は速い。だが島は広い。あなたが次の島へ行けば、ここは空く。空けば、旧い者が戻る。そのための金と連絡だ」
「戻る先はどこだ。誰を呼ぶ」
ロドリゴは口を結んだ。だが、沈黙は答えだった。呼ぶ相手がいる。島の外に、まだ手が残っている。
ディエゴは船倉の空気を吸い直した。火薬の匂いがはっきりした。これは護身の量ではない。人を殺し、港を焼く量だ。
「縛れ。舵手も縛れ。船は港へ戻す。カヌーの連中も連れて行け」
甲板へ出ると風が冷たかった。汗が一気に冷え、腕の傷が痛んだ。沖の波が礁に当たり、白い泡が闇で砕けている。港の灯りは遠いが、そこへ戻れば夜は長くなる。
ディエゴは小舟へ戻る前に、岸のほうを一度見た。暗がりに人影があった。マルタがまだそこにいた。灯りを持たず、動かず、ただ見ていた。逃げる者の目ではない。確かめる目だった。
ディエゴは船を引かせながら言った。
「出帆は延期だ。港の穴を塞ぐ。まずはここからだ」
そして小舟が岸へ寄ると、マルタにだけ届く声で続けた。
「お前が黙っていたら、あの箱は海の向こうへ消えていた。今夜からお前は、私の近くで働け。褒美は布でも銅貨でもない。私の鍵のそばだ」




