第2話(前編)――「黒い輪の旗、戻る売り声」
―――――――――――――――――
(1521年4月4日 朝。ジャマイカ東岸)
―――――――――――――――――
1521年4月4日、夜明けのジャマイカ東岸は、湿った草いきれと潮の匂いが重なっていた。波打ち際の白い泡が暗い珊瑚の影をなぞっては引き、見張りの男が砂を踏む音だけが先に耳へ入った。船腹の綱は夜露を吸って冷たく、松脂を塗った縄の甘い匂いが、乾いた風に削られて細く伸びた。
ディエゴ軍は、沖へ出る段取りを崩さずに進めた。甲板では樽が転がらぬよう楔が打たれ、火薬は油布の下へ押し込まれた。濡れた革の匂い、干し肉の脂、馬の汗が混ざり、鼻の奥が少しだけ重くなる。水樽の栓を確かめる音が続き、誰かが「サントドミンゴに着いたら、まず水だ」と言って笑った。喉の渇きが先に話題になるのは、海へ出る朝の癖だった。
帆が風をつかむと、陸の匂いが少しずつ薄くなった。東へ伸びる海面は鈍い青で、太陽が上がるにつれて白い反射が増えていく。船底を叩く波の音は一定で、時おり横風が帆布を鳴らし、塩が唇に残った。
ディエゴは舳先で、水平線の色を見ていた。イスパニョーラ島は初めてではない。若いころ、王旗の下で赴任し、石灰の白い壁を守り、港の帳簿に目を通し、暑さに苛立つ役人の声も聞いた。あのころの港には、剣の柄の金具の匂いがあった。今、潮は同じでも、そこに立つ者の目つきが違うはずだった。
ジャマイカの山影が後ろへ沈むころ、先頭の見張りが北東の空を指した。雲の切れ目の下に、島の輪郭が薄く現れた。イスパニョーラ島だった。
正午を回ってサントドミンゴの港が見え始めると、空気の匂いが変わった。川の水が混じるためか塩気が丸くなり、岸からは煙と煮炊きの匂いが運ばれてきた。石造りの建物が陽に白く、屋根の赤土が熱を返して揺れた。桟橋では荷役の掛け声が重なり、木箱がぶつかる乾いた音が波音を押し返した。
港の門に掲げられていたのは、王の紋章ではなかった。無地に近い布に、黒い輪の印が縫い取られている。風に煽られ、布の端がぱちんと鳴った。兵の誰かが「これが今の印か」と小声で言い、すぐ黙った。目立つ言葉を避ける癖が、もう軍の中に染みていた。
サントドミンゴ砦へ近づくと、門の前に人の列が見えた。先住民の部隊5,000名は槍の穂先を陽に光らせ、足元の砂を踏み固めていた。布や革の擦れる音が風に乗り、汗と木の匂いがまとまって押し寄せた。列の中央に立っていたのが、サク・ニクテ〈22〉だった。腹は衣の上からでも分かるほど丸く、歩くたびに重みが遅れてついてくる。その顔は疲れているはずなのに、目だけが明るかった。
ディエゴが桟橋へ降りると、サク・ニクテは先に一歩出て、ためらいなく彼の腕を取った。掌は温かく、指先に粉と塩のざらつきが残っていた。
「遅かったな」
「風が遊んだ。だが、来た」
短い言葉の間に、互いの息の匂いが混じった。サク・ニクテは腹に手を当て、笑うように言った。
「妊娠5か月だ。今は蹴る。夜に蹴る。あなたの声を聞くと、もっと蹴る」
周りの兵が、気まずさを笑いに変えるように咳をして視線を逸らした。ディエゴは彼女の腹へ手を置き、布越しの張りと熱を確かめた。海の塩を落とし切れない掌が、そのまま新しい命の輪郭に触れた。
砦の中へ入ると、まず目についたのは、剣の気配が薄いことだった。門番は槍を持っているが、腰の剣は飾りに近い。通りの角には見張りが立つが、肩の力が違う。押さえつける姿勢ではなく、目を配って合図を回す姿勢だった。石壁の廊下には干した衣の匂いと炊事の湯気が溜まり、香草を煮た匂いが漂っていた。
サク・ニクテは、ディエゴをいきなり私室へ連れて行かなかった。まず城内の奥にある小部屋へ案内し、扉を閉め、卓に帳面を置いた。紙の端は汗で波打ち、黒いインクの線がいくつも走っている。
「島を押さえた日からのこと、全部書かせた。嘘はすぐ分かる。数字が先に崩れるからだ」
サク・ニクテはそう言って、窓の外を顎で示した。遠い中庭に石の井戸が見える。そこへ水桶を運ぶ列があった。列の先頭は黒人の男で、背に白い傷が何本も走っている。だが首に鉄輪はない。腰にぶら下げているのは短い縄と、木札だった。
「解放した。鎖は外した。だが腹は満たさないと戻る。逃げる。盗む。だから先に仕事を作った」
島の事情は、そういう現実の順番で語られた。サク・ニクテが上陸した時、サントドミンゴの支配者階級は、砦の鍵と倉の鍵を握ったまま、民の労働を囲っていた。エンコミエンダと呼ばれる仕組みで、先住民を畑と鉱山へ縛りつけ、黒人奴隷を砂糖の圧搾に回していた。サク・ニクテはまず倉を押さえ、次に帳面を押さえた。石造りの役所へ踏み込み、書記の手から羽根ペンを取り上げ、名前と数字を吐かせた。
「スペイン人を皆殺しにはしない。そうすると船が止まる。薬も止まる。司祭の説教も止まる。町が壊れて、こっちが困る」
サク・ニクテは淡々と言った。だが、その淡々の中に、譲らぬ線があった。
「代わりに、首を選んだ。鞭の腕を誇る者。女と子を商品にする者。逃げた者の耳を切る者。そういうのは残さない」
ディエゴは黙って聞いた。サク・ニクテは裁きを感情で語らない。必要な処置として冷たく置き、その冷たさが周囲の歯止めになっていた。
元のスペイン人支配者階級の多くは、3つに分かれた。
第一は、誓いを立てた者だった。王への忠誠を捨てるのではなく、この島で生き延びる誓いを、目の前の現実へ差し替えた者たちだ。武器は没収され、土地の取り分は縮み、労働の強制は禁止されたが、商売は続けられた。靴職人、鍛冶、航海士、医者、書記。そういう技能は島の骨だった。夕方、靴職人の店先で、裸足だった黒人の若者が新しい革紐を結び直した。革は固いが、結び目を締める指は迷わなかった。店の奥では、店主が黙って針を動かし続けていた。
第二は、逃げた者だった。夜に船を出し、プエルト・リコへ、あるいは小さな島へ渡った。サク・ニクテは、逃がす者は逃がした。全員を檻に入れるより、道を一本残したほうが町が荒れない。ただし倉の銀と火薬を持ち出そうとした船は、港の外で止めた。暗い海に小舟が滑り、櫂の音が消えかけたところで、沖の見張り舟が灯りを一つだけ見せた。押収された樽からは、潮に濡れた銀貨の匂いがした。兵が木槌で蓋を叩き、乾いた音が港に響いた。
第三は、抵抗した者だった。彼らは砦の内側、かつて彼ら自身が罰を与えるために使っていた石室に入れられた。窓のない部屋は湿り、息が壁に戻ってくる。食事は与えられるが、鍵は戻らない。サク・ニクテは彼らを殺さない。殺せば殉教者の噂が立つ。だから生きたまま価値を奪い、名前だけを残す。司祭には面会を許し、外への手紙は検めた上で一通だけ出した。司祭が石室へ入ると、戸が閉まる音が鈍く響き、廊下の空気が一瞬だけ冷えた。言葉で火をつけさせないための手順だった。
ディエゴが歩きながら見た町は、以前と似ていて、違っていた。広場には果実の屋台が出て、切った柑橘の酸い匂いが風に散った。魚の鱗が日に光り、塩をまぶす指が忙しい。だが売り手の中に、以前は顔を上げなかった者たちがいる。黒人の女が布を肩に掛け、値を口にする。先住民の若者が木札を差し出し、倉から受け取る塩の量を確認する。誰も鉄輪を引きずらない。足音が軽い。笑い声が短く混じり、すぐ仕事の声に戻った。
広場の端では、白い肌の男たちが固まって立っていた。服は整っているが、剣がない。顔は硬く、視線だけが刺々しい。サク・ニクテの見張りが2人、少し離れてついている。彼らは旧支配層の家族だった。女と子は家に留め置かれ、男は昼だけ外へ出る許可を得ている。逃亡を防ぐためではない。今の島の空気を見せ、勝てない現実を体に覚えさせるためだった。
その夜、サク・ニクテはディエゴを砦の奥の回廊へ連れて行った。石壁は昼の熱をまだ持ち、触れると温かい。遠くで波が砕け、港の綱がきしむ音が重なる。サク・ニクテはそこで初めて、少しだけ声を落とした。
「あなたがここにいたころ、この島は強かったか」
ディエゴは答えを急がなかった。塩の匂いと石の温度と遠い人声を、いったん胸に入れてから言った。
「強いふりはしていた。だが腹を空かせた者が多すぎた。支える腕を軽んじた町は、長く持たない」
サク・ニクテは頷いた。腹に手を当て、息を整えるようにゆっくり吐いた。
「だから腕を軽んじない。鎖を外して終わりにはしない。明日からも食う」
翌日、ディエゴは信頼する部下を呼び、島の提督に任命した。派手な儀式はない。紙に名を記し、蝋を落とし、印を押す。鍵束が卓に置かれ、金属が触れ合う音が静かに鳴った。新しい提督は、まず倉の巡察から始めた。帳面を確認し、塩と乾パンの在庫を確かめ、港の水甕を増やす指示を出す。戦いの指示より先に、食うための指示が出た。
遠征は5月1日と決め、それまでの間は島で休ませた。休ませると言っても、遊ばせるのではない。船底の貝を削り、帆の縫い目を点検し、弓弦を張り替え、火薬を乾かす。港には削り屑の木の匂いが漂い、鍛冶場からは鉄を打つ音が一定に続いた。夜は火を弱くし、豆を煮た。香草を浮かべると匂いが立ち、湯気が石壁に当たって消えた。兵は久しぶりに地面で眠り、起きたら土の匂いが鼻へ入る。それだけで顔つきが変わった。
サク・ニクテは、腹の重みを理由に後ろへ退かなかった。城壁の上に立つ時間は短くなったが、代わりに人の話を聞く時間を増やした。解放された黒人たちの中から船の扱いがうまい者を選び、港の小舟を任せた。先住民の部隊からは島の奥の道を知る者を選び、見回りの組を作った。誰かに任せるのではなく、ここに生きる者に持たせる。そういう形に変えていった。
夕方、城内の中庭で風が落ちると、波の音だけが残った。サク・ニクテは椅子に腰を下ろし、腹に両手を重ねた。ディエゴはその隣に立ち、遠い港の掛け声を聞いていた。焦げた縄の匂いよりも、煮豆の甘い湯気のほうが強い。島は支配の旗だけが変わったのではない。鉄輪の擦れる音が消え、広場の売り声が増え、港の人声が少しだけ明るくなっていた。
サク・ニクテが城壁の向こうを見て、低く言った。
「次はプエルト・リコだな。潮の形が違う。島の匂いも違う」
ディエゴは頷いた。彼女の腹の丸みを視界の端に置いたまま、海のほうを見た。5月1日までの時間は空白ではない。次の波に備えるための、確かな日々として積み上がっていった。




