第1話(後編)――「山影の緑、投錨の歌」
―――――――――――――――――
(1521年4月2日 午後3時ごろ。ジャマイカ沖)
―――――――――――――――――
午後3時すぎ、見張りの声が上がった。甲板の上の空気は熱く、帆布から立つ乾いた匂いに、縄の松脂と馬の汗が重なっていた。舳先の先、海の青の上に、黒い山の輪郭が浮いた。雲の影が山腹をゆっくり横切り、岸に近いところだけ水の色が浅く変わっている。あれがジャマイカだと誰もが分かった。
兵の列が自然にほどけ、肩の力が抜けた。誰かが「山が見えた。あれは鍋の湯気よりありがたい」と言うと、隣が「湯気は腹の中に入るが、山は船を止めてくれる」と返した。甲板の板が鳴り、笑いが潮風に散った。
ディエゴ〈28〉は舷側へ寄り、目を細めて山影を見た。塩が唇に残り、舌先が少しざらつく。船団は100隻で、波間に並ぶ帆が白く光っていた。後ろのほうでは、荷馬を落ち着かせる声が続き、蹄鉄が板を叩く音が一定に響いている。
「よし。ここで水と木を取る。今日のうちに、島の口を押さえる」
短く言ったが、甲板の空気は軽かった。緊張がないわけではない。だが、怖さより先に手が動いている。
テレサが風を見て、指を上げた。
「今の風なら、日が落ちる前に沖へ錨を打てます。ただ、暗くなってから入江へ入るのは避けたほうがいいです。浅瀬がまだ読めません」
「分かった。日没前後に沖待ちにする。入りは明日の朝にする」
イサベルは帳面を閉じ、墨の匂いがついた指で髪を押さえた。
「上陸の口を押さえるなら、捕虜と荷の扱いを先に決めてください。混ざると、明日の水が濁ります」
「先に決める。逃げる奴は追う。だが、降りる奴は拾う」
グアリオナが舷側から海面を覗き、白い泡の筋を指さした。
「向こうに流れがあります。浅い。舟を出すなら、あそこを避けて」
ヤグアリは麻袋から草を取り出し、鼻先へ持ってきた。
「蚊が多い島だよ。上陸したら火のそばにこれを置く。刺されて掻くと、傷が増えて仕事が増える」
マテアは鍋の火を絶やさず、塩気の強い湯気を甲板へ上げていた。
「戦う前に食べさせるよ。腹が空いたまま怒ると、手元が荒くなる。荒い手は、味方にも当たる」
ディエゴは笑って頷いた。
「その通りだ。今日は俺の兵に、余計な傷を作らせない」
兵が近寄り、「将軍、島の酒はありますか」と言うと、別の兵が先に叱った。
「先に水だ。酒は水が落ち着いてからだ。酒で喉を洗う奴は、海で死ぬ」
ディエゴは手を振った。
「水が取れたら、薄い酒なら許す。薄いほうが長く笑える」
甲板の笑いがまた増えた。
◇ ◇ ◇
島影が大きくなるにつれ、別の匂いが混じってきた。湿った土の匂いと、青い葉の匂いだった。海の匂いが薄くなったわけではない。だが、鼻の奥で、陸の匂いが確かに勝ち始める。
見張りがまた声を上げた。
「帆だ。入り江の奥、帆がある」
入り江の口に、スペイン船が数隻、低い位置に固まっていた。帆を畳み、岸へ寄せている。岸には柵と小さな見張り台が見え、煙が細く上がっていた。規模は小さいが、逃げ道になる場所を押さえている。
ディエゴはすぐに判断した。
「合図太鼓。先行の速い艦を出せ。入り江の口を塞ぐ。岸の柵は砲で崩すが、撃ちすぎるな。欲しいのは死人ではなく、手だ」
太鼓が鳴った。合図の音は乾いていて、波音の上に乗った。小型砲が滑車で前へ出され、火皿へ火が落ちる匂いが鼻を刺す。硝煙の臭さはすぐに風に流れ、代わりに熱だけが頬に残る。
第一撃は、柵の上を狙った。砲声が腹に響き、海面が一瞬だけ震えた。木片が飛び、煙が広がる。敵の船が慌てて帆を上げようとしたが、間に合わない。入り江の口へ回り込んだ先行艦が、逃げる角度を消した。
敵兵の声が、岸から細く届いた。怒鳴り声の中に、恐れが混じっている。
ディエゴは舷側へ出て、喉を張った。
「降りろ。荷を残せ。命は残す。俺の前で弓を引くな。引いたら、その瞬間に終わる」
言葉は短いが、船団の数が説得になった。敵の船の甲板で、手が上がった。武器が落ちる音が聞こえ、次に、誰かが海へ向けて帽子を振った。
「降りたぞ」
「早い。あいつら、助かりたいんだ」
味方の兵が笑いながら言い合い、縄を投げた。捕縛というより、引き上げだった。敵の兵は顔色が悪いが、手は動く。恐れはあるが、仕事の仕方は知っている。
「どこの隊だ」
「ベラスケス派です。ここへ逃げてきました」
答えた兵は、唾を飲み込みながらも目を逸らさなかった。ディエゴは頷いた。
「なら、逃げるのは終わりにしろ。俺の列に入れ。給与は出す。勝ち分も出す。条件は1つだ。今夜からは、俺の合図で動け」
敵兵の横で、別の男が膝をつき、声を絞った。
「船をください。島へ逃げた仲間がいます。連れて戻りたい」
「逃げた仲間は、まだ武器を持っているか」
「持っています」
「なら、まず言葉で捨てさせろ。捨てたら拾う。捨てないなら、追う」
そのやり取りの横で、兵の明るい声が飛んだ。
「将軍、拾うのが早い。拾う手が上手い」
別の兵がすぐ返す。
「拾われた側はもっと必死だ。拾われないと、腹が減るからな」
ディエゴは笑いながらも、視線は外さなかった。敵の逃げ足は速い。だが、逃げた先が島の森であるなら、食い物と水が尽きる。そこへ手を伸ばすほうが早い。
◇ ◇ ◇
日が落ちる前、入り江の口は押さえられた。柵は崩れ、見張り台の旗は下ろされた。海の上には硝煙がまだ薄く漂い、焦げた木の匂いが混じっていたが、血の匂いは強くなかった。降りた者が多く、倒れた者が少なかったからだ。
捕虜の扱いはすぐに整えた。イサベルが帳面を開き、名前と出身と持ち物を記した。手元の羽根ペンが紙を擦り、墨の匂いが潮気と混じる。
「嘘を書けば、明日の配給が遅れます。困るのはあなたですから、正直に言ってください」
捕虜が「はい」と言い、思わず敬語になったので、周りの兵が笑った。
テレサは上陸隊の列を整え、声を張った。
「水は先に樽へ入れる。泥の水を飲んだら、戦う前に腹が終わる。火は3つに分ける。1つは湯、1つは煮炊き、1つは煙よけだ」
ヤグアリは草を配り、兵の手首に軽く結んでやった。
「匂いが苦手でも外すな。蚊に刺されるよりましだ」
グアリオナは浅瀬の位置を石で示し、舟の行き先を短い言葉で揃えた。
「そこへ寄るな。そこを切れ。あの白い泡を見たら、舵を1つ入れて」
マテアは上陸直後の鍋を回し、塩と豆と肉の匂いを広げた。湯気が立つと、兵の顔色が戻る。笑い声も戻る。
「戦った後に食べると、手が震える。食べてから戦うと、手が落ち着く。だから先に食べな」
兵が椀を受け取りながら言った。
「将軍はいいですね。女房が5人いて、鍋も5つだ」
マテアが即座に返した。
「鍋は1つだよ。口が5つあるから、足りなく見えるだけだ」
周りがどっと笑い、敵兵の中にも苦笑いが混じった。笑えるなら、吸い込める。ディエゴはそう思った。
日没前後、船団は東岸の沖で投錨した。錨鎖が鳴り、鉄の音が腹に響く。海面は黒くなり、星が少しずつ増える。灯火は最小限にした。暗礁を避けるためでもあり、余計な目印を作らないためでもある。
◇ ◇ ◇
夜、ディエゴが船室へ戻ると、湯の匂いが先に迎えた。草の青い匂いと、柑橘の皮の匂いが混じり、硝煙の臭さが薄れる。
テレサが桶の縁を指で叩いた。
「まず手を洗ってください。今日、あなたは何でも触っています」
ディエゴが笑って手を出すと、ヤグアリが小さな傷を見つけ、指でそっと押さえた。
「このままだと、明日腫れる」
「腫れたら困るか」
「困る。あなたが痛がると、こっちの仕事が増える」
イサベルは帳面を横へ置き、灯りを少しだけ落とした。
「今日は、吸収が多かったです。数字が増えるのは良いですが、増え方が急だと、揉め事も増えます」
「揉める前に、笑わせる」
ディエゴが言うと、グアリオナが鼻で笑った。
「笑わせるのは得意でしょう。さっきも甲板で、敵の目の前で笑っていた」
「怖がっている相手ほど、笑いが効く。怒鳴ると固まるが、笑うと息を吸う。息を吸えば、言葉が入る」
マテアが果実を切り、ひとかけを彼の口へ押し込んだ。酸味が舌を刺し、喉が潤う。
「戦いの後は、こういう味が必要だよ。酒より先にこれだ」
ディエゴは頷き、5人の顔を順に見た。湯気の中で、昼間の疲れが少しだけほどけている。誰も気を抜いてはいないが、硬くはない。
テレサが肩をすくめる。
「明日の朝に港へ入ります。今日のところは、沖待ちです」
「分かっている」
ディエゴは鎧の紐を外し、椅子に背を預けた。イサベルが背中へ手を置き、硬い部分を見つけてゆっくり押した。グアリオナが髪をほどき、ヤグアリが指先へ油を取って、彼の手を軽く揉んだ。マテアは湯を足し、湯気を絶やさない。
誰かが冗談を言い、誰かが笑い、短い口論が起きて、すぐに収まった。疲れが消えることはないが、笑いが入ると薄くなる。ディエゴは布の上へ倒れ込み、顔を横へ向けた。
「明日は東へ向かう準備をする。ジャマイカで水と木を満たしたら、イスパニョーラ島で味方と合流する。その後は、プエルト・リコと小アンティルの島並びを押さえる。泊まれる海を増やし、水と木を切らさない」
テレサがすぐに聞き返した。
「先ずプエルト・リコですね。次は小アンティルのどこから行きますか?」
「イスパニョーラを出たら、次はプエルト・リコだ。サンフアンで水と木を揃える。そこからヴァージン諸島をかすめて、小アンティルへ入る。まずドミニカ島、次にマルティニーク、セントルシア、セントビンセント、グレナダだ。港を1つずつ増やして、潮と風を確かめながら進む。焦って暗い内に降りると、浅瀬にやられる。海が先に勝つ」
イサベルが小さく息を吐いた。
「帳面が厚くなりますね」
「厚くしてやる。その代わり、字を乱すな」
ディエゴが言うと、イサベルの口角が少しだけ上がった。
灯りを落とす前、ヤグアリが低い声で言った。
「今日、あなたは戻ってきた。だから今夜は、眠っていい」
ディエゴは頷き、布を引き寄せた。隣で誰かが笑い、誰かが小さく叱り、最後に静かになった。外では波が船腹を叩き、錨鎖がときどき鳴ったが、船室の中は冷えなかった。
◇ ◇ ◇
―――――――――――――――――
(1521年4月3日 朝。ジャマイカ東岸)
―――――――――――――――――
夜が白み、海面の黒が薄れた。朝の風は冷たくはないが、汗を乾かすだけの力があった。潮の匂いに、陸の湿りがまた混じる。鳥の声が近くなり、森の端が見える。
港へ入る前に、舟が出た。浅瀬を読むための舟で、グアリオナが先に乗り、舳先で海面の色を見た。テレサは別の舟で帆の角度を調整し、潮の変わり目を避ける指示を出す。
岸には、昨日降りた敵兵の一部が並び、こちらの列に入る準備をしていた。顔は疲れているが、目は生きている。握りしめていた武器が消え、代わりに水桶を運ぶ手になっている。
ディエゴは舷側から声を投げた。
「今日から、お前たちは俺の兵だ。まず水を運べ。次に木を切れ。それが終わったら、鍋を食え。腹を満たしてから、南へ行く」
返事は揃っていない。だが、動きは揃い始めていた。
船団はゆっくり港へ入り、錨を打ち直した。錨鎖の音が朝の空気に響き、荷が動く音が続いた。港の水は透明ではないが、濁ってはいない。土の匂いが近い。木の匂いも近い。
南へ降りるための足場が、ここで1つ増えた。




