第1話(前編)――「鍋の湯気、出帆の笑い」
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(1521年4月1日。キューバ島サンチャゴ城塞)
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1521年4月。サンチャゴ城塞の石壁は夜の湿りを抱えたまま冷えていて、朝の乾いた風が潮の匂いを細く引き延ばしていた。港へ目をやると、樽が石畳を転がって鈍い音を立て、干し肉の脂と松脂の匂いが混じって鼻に残った。火薬樽は濡れを嫌うので油布の下へ押し込まれ、見張りが「触るなよ。もし触って濡らしたら、お前が全部乾かすことになるぞ。俺は知らんからな」と笑いながら釘を打っていた。
ディエゴ〈28〉が中庭へ出ると、列はすでに整っていたが、顔は揃っても気分までは揃っていなかった。そこで彼は、わざと肩をすくめ、声を張って言った。
「そんな顔をするな。海は広いが、俺たちの胃袋も同じくらい広いんだ。腹を満たして、笑っていれば、波のほうが先に疲れて引く。だから、渡っていけばいい」
前列の兵が「胃袋は広いですが、財布が薄いです」と返すと、後ろから「薄いのは髪だろう。財布はまだ増やせるが、髪は増えないぞ」と飛んで、列のあちこちで笑いが起きた。
ディエゴはその笑いを聞きながら、港のほうへ顎を振った。
「軍団は総員4万で、艦は100隻だ。大砲50門〈攻城砲30・野戦転用20〉は艦尾の滑車に吊ってあるし、小型砲200門〈山砲・随伴砲150、仮設砦向け50〉も船腹に振り分けた。火縄銃3,000挺と弩10,000挺は、濡らしたら泣き言が始まるから、そこだけは気をつけろ。泣きたくなったら、敵に泣かせてやればいいし、俺たちは笑っていればいい」
「泣くのは提督だけで十分です。海を見ただけで顔が曇りますから」
「それでいい。だからお前たちは、泣く代わりに歌え。歌っている間は、胸の中の水も少しは引くし、足元も軽くなる」
誰かが「それは嘘でしょう」と言い、別の誰かが「嘘でもいいから、今は笑っておけ。笑っていれば腹が減るし、腹が減れば鍋がうまい」と返した。
桟橋には馬が500頭も詰められていて、甲板でも鼻息が白く立ち、蹄鉄が板を叩く音が規則正しく続いた。馬の汗と干し草の匂いが濃いので、若い兵が鼻を押さえたが、すぐ隣の古参が肘でつついた。
「我慢しろ。こいつらが引くのは荷じゃないし、最後はお前の尻まで引っ張って連れていくんだ。ありがたく嗅いでおけ」
「俺の尻は軽いですよ。引かれなくても歩けます」
「軽いなら飛んでいけと言いたいところだが、飛べないなら鍋を食って力をつけろ。胃袋が先にへたると、足が勝手に止まる」
笑いがまたひとつ増えた。
女たちは、その笑いを途切れさせないように動いていた。マテアが大鍋を火にかけると、豆と塩漬け肉の匂いが中庭へ広がり、玉ねぎの甘さが潮気を押し返した。ヤグアリが潰した香草を落とすと青い匂いが湯気に混じり、グアリオナが柑橘を搾ると酸の香りが鼻の奥まで通った。
テレサは乾パンを砕いて煮汁を吸わせ、腹持ちを作りながら、鍋の縁を軽く叩いて声をかけた。
「列を崩さないで、順に受け取りなさい。先に来た者ほど、よく噛んで食べるんだよ。海で腹を壊したら、星を見上げて泣くはめになるし、泣いたところで誰も替わってはくれない」
「星を見て泣くのは恋のときだけにしたいんです。どうせなら美人の肩を借りて泣きたい!」
「だったら恋をする前に、まず手を洗いな。恋にも礼儀があるし、不潔な男は海より先に女に捨てられる」
周りがどっと笑い、鍋の前が一気に祭りの輪になった。
イサベルは帳面を膝に置き、兵の口数と樽の数を照合しながらも、顔だけは上げていた。羽根ペンの先が紙をこすり、墨の匂いが薄く漂う。ディエゴが近づくと、彼女はわざと眉を上げた。
「将軍、あなたの部下は、銃より口のほうが多いみたいですね。しかも朝から、よく回ります」
「回るほうがいい。口が回れば腹も回るし、腹が回れば足が止まらない。止まらなければ、敵のほうが先に息切れする」
「理屈は立派ですけど、帳面はもっと立派にしたいです。あなたの理屈みたいに」
「お前の字はもう十分に立派だ。セビリアの教会の柱みたいにまっすぐで、見ていると気が落ち着く。そういうところが好きだから、俺はつい覗きたくなる」
イサベルは一瞬だけ口角を上げ、すぐに平然とペンを走らせたが、耳の縁が少し赤くなった。
テレサは風見と雲を見ながら、帆を上げる時刻をずらさせていた。潮が変わる直前の凪を読んでいる。ディエゴが「女将殿、今日も俺の首をつないでくれるのか」と声をかけると、彼女は肩をすくめた。
「首は自分でつないでください。私がつなぐのは帆と胃袋で、あなたの首まで面倒を見る余裕はありません」
「胃袋をつないでくれるなら十分だ。お前が笑ってくれると、こっちの肺まで広がる気がして、潮の匂いも少し軽くなる」
「口が上手いですね。そんなことを言っても、風は買収できませんよ」
「風は買収できないが、お前の機嫌は守れる。だから言うんだ。お前の顔が好きだから、言葉が勝手に増えるだけだ」
テレサは「はいはい」と言いながらも、目線を逸らすのが少し遅れた。
グアリオナは浅瀬の色の違いを指さし、舵手へ短い言葉で指示を飛ばしていたが、ディエゴが通ると、彼女は唇を尖らせた。
「昨日の褒め言葉が足りない。あなたは働けと言うのに、褒めるのを忘れる」
「足りないのは俺の褒め言葉か。それとも、お前の欲のほうか。どっちだ」
「どっちも。だから、早く言って」
ディエゴは笑って、彼女の髪を指で梳いた。
「お前の目は本当にいい。海の青より先に浅瀬を見つけるから、船腹が生きる。お前が指を出した瞬間、舵手の手が迷わない。だから今夜も頼むし、明日も頼むし、明後日も頼む」
グアリオナは満足したように顎を上げ、「じゃあ今夜は柑橘を多めにしてやる」と言って去った。
ヤグアリは上陸地の水場の噂を拾い、葉の匂いが残る包みを兵站係へ渡していた。ディエゴが「その包みは何だ」と聞くと、彼女は指で軽く鼻を叩いた。
「匂いを嗅げば分かる。蚊が嫌う草だし、火の近くに置くと効き目が増す。あなたも嫌う?」
「俺が嫌うのは蚊だけだ。お前の匂いまで嫌っていたら、航海が長すぎて、先に俺が折れる」
「だったら、明日も生きて帰ってきて。あなたが帰ってこないと、草を使う相手が減る」
声が柔らかかったので、周りの兵が「将軍、約束ですよ。約束を破ったら鍋抜きです」と囃した。ディエゴは手を振って「うるさい。聞こえているし、鍋抜きは勘弁だ」と返しながら、笑っていた。
マテアは釜の火を一定にし、船出の朝に腹を冷やさない粥を作っていた。生姜と塩の匂いが焦げた縄の匂いを押し返す。ディエゴが鍋を覗くと、マテアは匙で軽く彼の額を叩いた。
「覗くなら食べなさい。覗くだけの男は嫌いだし、働き口だけ増やす男も嫌いだよ」
「だったら食う。お前の料理はいつも勝ちだし、俺は負ける気がしない」
「勝つのは口じゃない。腹だよ。腹が勝てば、足も勝手に前へ出る」
「その腹を作ったのはお前だ。だから俺はお前の手が好きだし、笑い方も好きだ。火の前に立っている顔も、寝不足の顔も、どっちも似合う」
マテアは鼻で笑って「甘い」と言ったが、その甘さは豆の鍋の味ではなかった。
こうして、出航前の中庭は仕事場でありながら、祭りの縁のようになっていった。誰かが鍋の蓋を太鼓にして叩き、誰かが節を外して歌い、さらに別の誰かが「それなら俺が正しい節を教える」と言いながらまた外して、笑いが膨らんだ。ディエゴは止めるどころか、むしろ煽った。
「その調子だ。喉を使っておけ。海に出たら腕を使うことになるし、両方使える奴が最後まで立っていられる。だから今のうちに、笑い方も覚えておけ」
兵が「将軍はどっちも使う」と言うと、後ろから「いや、将軍は口が先で、腕はあとから付いてくる」と返り、また笑いが起きた。
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ジャマイカへ向かう海は、島影が消えると急に広くなった。波が船腹を叩く音が一定になり、帆柱の軋みが夜通し続き、湿った風が頬をなでた。唇に塩が残っても、甲板の空気は暗くならなかった。灯火を最小限にして合図旗と太鼓で距離を保つのは変わらないが、太鼓は合図の合間に妙な節へ変わり、兵がそれに合わせて踊りだした。転びそうになれば隣が掴み、「海へ落ちたら魚に口説かれるぞ。そうなったら面倒は見ないし、魚の恋人にされても知らんからな」と言って笑わせた。
夜、ディエゴが船室へ戻ると、女たちが先に湯を作っていた。テレサが湯の温度を見て、ヤグアリが香草を浮かべ、マテアが果実を切り、グアリオナが水を冷やす場所を見つけ、イサベルは帳面を閉じたまま椅子にもたれていた。ディエゴは鎧の紐をほどきながら、まず言葉で労った。
「よくやった。お前たちがいるから、兵は腹が減っても文句を言わないし、俺も寝不足でも顔が崩れない。俺の運は、どうやら女たちのほうに付いている」
「将軍は顔が上がるんじゃなくて、口角が上がるのよ。そうやってすぐ調子に乗るから」
テレサが言うと、ディエゴは即座に返した。
「口角が上がるのは、お前が綺麗だからだ。見た瞬間に言葉が出るのは、病気みたいなものだと思ってくれ」
テレサは「また始まった」と言いながらも、湯の桶を置く手が少し丁寧になった。
イサベルが小さく咳払いをすると、ディエゴは彼女へ向き直った。
「お前は顔を上げると怖い。目が強いし、逃げ道を塞ぐみたいに真っすぐ見てくる。だが、その強さが俺は好きだ。海の上で迷いそうになっても、お前の字が真っすぐだと、俺の頭もまっすぐに戻る」
イサベルは「大げさです」と言ったが、帳面を抱く腕が少し緩んだ。
グアリオナが「私はどうなの」と聞くので、ディエゴは笑って答えた。
「お前は海の娘だ。足が軽いし、目が早い。夜の波を見ても怖がらない顔が綺麗で、その顔を見ていると、こっちまで強くなる。だから、俺はちゃんと礼を言うし、ちゃんと抱きしめる」
グアリオナは「褒めすぎ」と言いながら、勝ち誇ったように顎を上げた。
ヤグアリは黙っていたが、ディエゴがその手を取った。
「お前の手は優しい。薬草の匂いがして、その匂いがあると明日も生きる気がする。俺はそういう匂いに弱い」
ヤグアリは目を伏せ、「だったら生きて」と、きちんとした声で言った。
マテアが「私は褒めないの」と言うので、ディエゴは肩をすくめた。
「お前は褒めたら増長するし、増長したら俺の分の果実まで取るだろう」
「増長しても鍋は焦がさないよ。焦がすのはあなたの部下の頭だ」
「それが一番だ。お前の笑い声は腹に入る。俺はそれで立てるし、明日も歩ける」
マテアは匙を振って「はいはい」と言い、果実をひと切れ彼の口へ押し込んだ。
その夜は命令より冗談が先に出た。誰が太鼓の節を外したかで揉めたかと思えば、最後には全員が「自分も外していた」と認めて笑い、湯が冷めるまで無駄口が続いた。疲れが消えることはないが、笑いが入ると薄くなるし、薄くなれば明日が少し楽になる。ディエゴは最後にだけ真面目に言った。
「明日は働く。その代わり今夜は、笑って寝る。お前たちは俺の運だし、運は雑に扱うと逃げるから、俺は丁寧に抱えていく」
女たちは笑いながらも、それぞれの仕草で受け取った。灯りが落ち、波の音と遠い見張りの足だけが残ったが、部屋の中は冷えなかった。




