第8話――「メキシコを呼ぶ手紙」
サントドミンゴの港に、キューバからの小さな帆船が入ってきたのは、朝のミサが終わるころであった。
フアン・デ・モリーナは執務室で書類に目を通していた。扉が叩かれ、家令が封蝋付きの書簡を捧げ持って入ってくる。
「キューバ総督、ディエゴ・ベラスケス殿からでございます」
フアンは眉を上げた。封蝋には、見慣れた紋章が刻まれている。
「こっちへ」
手紙を受け取り、目を走らせる。アルバロは窓辺に立ち、港の帆柱を眺めていたが、兄の表情の変化に気づいて振り向いた。
「何か、面白い話ですか」
「面白いというか、厄介というかだな」
フアンは手紙を机に置き、アルバロを手招きした。
「メキシコの話だ」
「メキシコ」
アルバロは、その言葉を口の中で転がした。
新大陸のさらに向こう、海岸線の先に都市と黄金があるという噂は、すでにサントドミンゴでも囁かれていた。だが、それはまだ遠い霧の向こうの話でしかなかった。
「キューバで2度の遠征が行われたのは知っているな」
「噂くらいは。大河と石の都市を見つけたとか」
「ベラスケス殿は、第3次の遠征を出すつもりらしい。その隊長に、エルナン・コルテスという男を選んだ。だが、どうにも信用しきれぬところがある、と」
フアンは、書簡の1節を指で叩いた。
「『モリーナ殿の弟君の働きぶりは、サントドミンゴでも耳にしている。インディオの扱いにおける才覚、勘定の確かさ、その両方を頼りたい』……そう書いてある」
「つまり、わたしをキューバへ呼びたいと」
「そういうことだ。お前の目でコルテスを見て、遠征を任せてよい男かどうか確かめてくれ、ともある」
アルバロは、窓の外に視線を戻した。港に停まる船の帆が、朝日を受けて白く光っている。
「黄金と都市の話は、耳障りの良いものだからな」
「耳障りが良すぎるところが、ベラスケス殿の不安の種なのであろう」
フアンはため息をついた。
「お前はどうする」
「決まっています」
アルバロは、口元に笑みを浮かべた。
「新しい盤を見たい。兄上とベラスケス殿が、その盤にわたしを置きたがっているのなら、ありがたく乗るだけです」
そのとき、扉の外から軽いノックの音がした。
「入ってもよろしいかしら」
イサベルが顔をのぞかせた。朝の光を受けて、白いヴェールが柔らかく揺れている。
「キューバの話をしている」とフアンが言うと、彼女は静かに室内に入ってきた。
「また、あの島へ行くのね」
「どうして分かるのです、お義姉さま」
アルバロが笑ってみせると、イサベルは少しだけ目を細めた。
「顔に書いてあるから。港の船を見るときのあなたの顔は、いつも同じだもの」
「困りましたね。わたしは、もっと冷静な男だと思っていたのですが」
冗談めかして言いながらも、アルバロは真面目な声に戻した。
「キューバ総督に呼ばれました。メキシコ遠征のことで、意見を聞きたいそうです」
「危ない話ではないの」
「危なくない海など、この世にありますか」
アルバロは肩をすくめた。
「でも、兄上も一緒です。わたし1人で好き勝手にやるよりは安全ですよ」
フアンが、苦笑いを漏らした。
「そう言われると、安心していいのか不安になるな」
「わたくしもお供してよろしいでしょうか」
イサベルの言葉に、2人は同時に彼女を見た。
「キューバの方が、今の季節は熱病が少ないと聞きました。この子どもたちの具合も変わりやすいでしょう。兄上を支えるなら、わたくしもそばにいた方がよいと思います」
フアンは少し考え、それからうなずいた。
「短い旅にはなるはずだ。屋敷と子どもたちのことは、従者を増やして守らせよう。それでよいな、アルバロ」
「もちろんです。頼りにしています、お義姉さま」
イサベルは、わずかに視線を伏せた。
「あなたが無茶をしないなら、安心して支えられます」
アルバロは、その言葉をごく自然に受け止めたふりをしながら、胸の奥でひっそりと笑った。
◇ ◇ ◇
数日後、キューバのサンティアゴの港には、いくつもの船が並んでいた。船腹には大砲と兵士の影が見える。波止場には槍と盾を抱えた男たちが集まり、先住民の荷役が樽と袋を運び、奴隷商人が値踏みするような目で行き交う者たちを見ていた。
「ずいぶんと賑やかだな」
アルバロが港を見下ろして言うと、案内役の役人が誇らしげに胸を張った。
「第3次遠征隊の準備中でして、殿。エルナン・コルテス殿の号令で、兵も物資も集まっております」
「コルテス殿はどこに」
「あの白い屋敷の向こう側の訓練場におられるはずです。まずは総督邸へ、と依頼されておりますが」
「順番を守りましょう。総督殿を待たせるのは得策ではありません」
石畳の坂道を上りながら、アルバロは目だけで港と船を数えた。帆柱の数、積まれている樽の量、馬の嘶き。金と血の匂いが、まだ海風の中に混じりきらずに漂っている。
総督邸の広間に通されると、ディエゴ・ベラスケスが太い体を椅子から起こした。頬に刻まれた皺は深く、目だけが鋭く光っている。
「モリーナ殿、よく来てくださった」
「お招きに預かり光栄です、ベラスケス殿」
フアンが先に頭を下げ、アルバロもそれにならった。
「弟君の働きは、ラス・カサス殿の報告でも聞き及んでおりますぞ」
総督はアルバロの方に視線を向けた。
「インディオの死を減らし、病舎を作ったと」
「自分のために働いているだけです。死んだ労働力は、砂糖より高くつきますから」
アルバロは、忠実な家臣を装って答えた。
「ですが、司祭殿は公平なお方です。悪いところも、改めたところも、そのまま書いてくださいました」
「そこが気に入った」
ベラスケスは笑った。
「わしは、黄金だけ数えている男を信用せぬ。数えるなら、死んだ者と生きている者、両方を数えるべきだ」
総督は机の上の別の書類を指で叩いた。
「エルナン・コルテスは、有能だ。兵をまとめ、航海もこなす。だが、あやつは黄金と栄誉に目が行きすぎる。王室への5分の1より、自分の取り分を先に考えておるようなところがある」
「それで、わたしを呼ばれたのですね」
「そうだ。わしは、第3次の遠征を失敗させたくない。あやつがメキシコで勝ちすぎて、わしや王のことを忘れてしまうのも困る」
総督は身を乗り出した。
「モリーナ殿。弟君の目で、コルテスを見てほしい。隊長としてふさわしいかどうか。もし危険すぎると判断するなら……」
「代わりに遠征をまとめる者が必要になる」
フアンが静かに言葉を継いだ。
「そのときは、わたしの家の者は、喜んでその役を引き受ける」
アルバロは一歩前に出た。
「ただ、コルテス殿の名誉を踏みにじるやり方は得策ではありません。兵たちの心が乱れますから」
「どうするつもりだ」
「簡単です。メキシコへ向かう剣と盾を、誰が1番うまく扱えるのか。神と人の前で確かめればよい」
アルバロは、さらりと言った。
「コルテス殿と、誰か1人。総督殿と兄上が立会人になってくだされば、誰も文句は言えません」
ベラスケスは目を細めた。
「誰か1人、とは」
「王室への5分の1を忘れずに数える者がよいでしょう」
アルバロは、淡々と自分の胸を指先で叩いた。
「わたしは善人ではありませんが、数字と帳簿については誤魔化しが嫌いでして」
フアンが小さく笑い、総督もつられて笑みを浮かべた。
「面白い。では、そうしよう」
ベラスケスは机を拳で叩いた。
「コルテスを呼べ。明日の朝、城壁の訓練場で、模擬の決闘をさせる。わしとモリーナ殿が見届けると伝えろ」
役人たちが慌ただしく走り出ていった。
アルバロは、その光景を眺めながら、胸の奥でゆっくりと息を吐いた。
盤は、思ったより早く動き始めていた。




