第29話(前編)――「糖蜜の風、縄の名」
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(1520年12月10日。コスメル島砦)
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総員4万のアルバロ軍は1520年12月10日未明、コスメル島の砦を発した。艦船は50隻。ボートとカヌーは船腹に縛り付けられ、夜明け前の浜には濡れた綱の匂いと松脂の焦げが重なった。兵の内訳はスペイン兵約1,200人、黒人兵300人、湖盆地側の同盟軍約3万3,500人。これにコスメル島同盟軍5,000人が加わり、隊長にはアルバロの妻サク・ニクテ〈21〉が任命された。大砲50門〈攻城砲30・野戦転用20〉、小型砲200門〈山砲・随伴砲150、仮設砦向け50〉、火縄銃3,000挺、弩10,000挺。馬は500頭で、甲板の上でも鼻息が白く立ち、蹄鉄が板を叩く音が規則正しく続いた。
船団が沖へ出ると、海は黒く、風は冷たかった。帆布が張るたびに低い唸りが生まれ、櫂の水音がそれに重なった。火薬樽は毛布で包まれ、火縄は油布で巻かれた。湿り気は命取りだ。見張りは交代制で、合図の笛が短く鳴る。甲板では干し肉の塩気が舌に残り、喉の奥にはピッチの甘い煙が刺さった。
グレート・ケイマンでは補給が滞りなく進んだ。珊瑚砂は白く、靴底がざり、と鳴った。水樽が満たされ、乾いた薪が積まれる。塩漬け肉と乾パンが配られ、兵は火のそばで手を伸ばした。夜、潮が引くと磯の匂いが強まり、遠くで波が砕ける音だけが続いた。ここで体力を戻し、次の海へ向けて緊張を締め直した。
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キューバ島のサンチャゴ近海に入ると、風に湿った甘さが混じった。陸からは砂糖黍の青い匂いと、糖蜜を煮詰めた焦げが漂った。夜明け、船団は湾へ並び、錨が落ちる音が水面を叩いた。合図とともにボートが滑り出し、櫂が揃って海を割る。水飛沫が頬に当たり、唇が塩でざらついた。
上陸の瞬間、音が増えた。鎧の金具が鳴り、馬のいななきが短く走り、弩の弦がきしむ。だが守る側の気配は薄かった。旧総督の指揮も、コルテスの名もない。スペイン兵は戦列を組む前に崩れ、市街の奥へ散った。戸を叩き閉める音、荷を投げ出す音、子どもの泣き声が続く。鐘楼の鐘は鳴ったが、鳴り方が揺れていた。銃声は散発しても長く続かず、火薬の匂いだけが風に残った。
アルバロは砲を無駄に撃たせなかった。弾薬は戦果ではなく秩序のために使う。小型砲は湾岸と要所へ回し、火縄銃は威嚇ではなく封鎖の線に並べた。大砲は港と官舎の周辺を押さえ、逃げ道を閉じるために据えた。馬は追撃の先頭ではなく、伝令と牽引、散開した敵を囲むために出した。命令は短いが、手順は細かい。捕らえる対象はスペイン人で、男女を問わない。先住民と黒人奴隷は原則保護する。略奪は禁じ、倉と井戸を優先して確保する。
広場に縄が張られ、捕虜を寄せる枠が作られた。通訳が掲示の文言を読み上げる。「スペイン人は拘束する。先住民と黒人は保護する。報復は禁止。水と医療を優先。倉と井戸に触れるな」。兵の足音が石畳を埋め、縄の擦れる音がその間を冷たく走った。
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役所の奥で、会計官フアン・デ・ロサーノは帳簿を抱えたまま膝をついた。墨の匂いが鼻を刺し、紙の角が手のひらに食い込む。彼は声を絞り出した。フアンは「私は王の金を扱っているだけだ」と言った。返事はなく、手首に縄が回る。彼は言葉を変えた。フアンは「これは反乱だ。神の秩序に逆らうのか」と叫んだ。叫びは広場の熱に吸われた。兵が印章の箱を運び出し、書記が机上の鍵束を拾い上げる。フアンの脳裏に浮かんだのはセビリアの石造りの回廊と、初任地へ旅立つ前に母が握らせた小さな十字架だった。胸元のそれは汗で濡れ、冷たく重かった。
砂糖黍農場の主ドン・ガスパル・モンテーロは、帽子を握ったまま広場の端に立った。靴の裏に糖蜜の粘りが残り、歩くたびに離れがたい音がした。ガスパルは「土地は私の汗で作った」と言った。畑を広げ、圧搾機を入れ、船に積ませた。その誇りは、縄の一本で簡単に剥がれた。妻のドニャ・ベアトリスが泣きながら駆け寄り、ベアトリスは「銀の匙だけでも」と言いかけた。黒い肌の兵が目を上げた瞬間、ベアトリスは言葉を飲み込んだ。怒りではなく、冷えた仕事の目だった。
教会の司祭フランシスコ神父は、香炉の煙が残る身廊から引き出された。香の甘い匂いの下に、汗と火薬の匂いが割り込む。神父は「ここは聖域だ」と言い、祭服の裾を握り直した。兵は跪かなかった。神父の目に映ったのは、十字架ではなく、祭壇脇でうつむく修道女たちの指先だった。祈りが口を出そうとするたび、縄の擦れる音がそれを押し戻す。神父は声を落とした。神父は「娘たちに手を出すな」とだけ言った。返事はなかったが、兵が一歩分だけ距離を取った。その一歩が、神父には屈辱よりも現実に見えた。
港の倉の前では、商人風の男が両手を上げて叫んだ。男は「これは積み荷だ。王の税を払っている」と言った。麻袋の口から砂糖がこぼれ、甘い粉が湿った石畳に貼りつく。別の男は、役所の札を見せながら声を尖らせた。男は「私は官吏だ。命令を書ける」と言った。だが書ける者から縄に繋がれた。紙は武器にならず、名札は盾にならなかった。
捕虜の列の中で、若いスペイン兵が泣き声を上げた。兵は「母上に知らせてくれ」と叫んだ。年老いた書記は声を震わせた。書記は「私は字しか書けぬ」と繰り返した。農場の監督は「これは誤解だ」と言い、最後には「金なら出す」と言った。女たちは肩を寄せ、指輪の跡の残る指を握りしめた。誰かが気を失って崩れると、別の誰かがそれを支えた。泣き声は高く、怒鳴り声は低く、縄の擦れる音が間を裂いた。
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広場の外れ、家々の影で、先住民の男アタバルが息を吐いた。首に残る縄の痕を押さえ、解かれた手首を見つめる。アタバルは笑ったが、笑い声は短かった。アタバルは「今日は自由だ」と言い、次に「でも明日は誰の言葉が支配する」と続けた。妻は泣きながら頷き、幼い子は状況がわからず、広場の縄を指差して不思議そうにした。喜びは確かにあったが、同じだけの不安が喉の奥に乾いた砂のように残った。
黒人奴隷の青年マテウスは、農場の倉の前で立ち尽くしていた。鎖は外され、手首の白い擦れが露になった。マテウスは「もう叩かれないのか」と言い、周囲を見回した。誰も叩かなかった。だが代わりに、命令を聞く順番が変わっただけだと、彼はすぐに気づいた。新しい兵が指で示す。水桶を運べ、怪我人を集めろ、火を起こせ。マテウスは頷いた。働くことは慣れている。だがマテウスは小さな声を出した。マテウスは「解放って、どこへ行けばいい」と付け足した。答えはまだなかった。
それでも、路地の空気は変わった。鞭の音が消え、怒鳴り声の向きが変わった。先住民の女たちは戸口から顔を出し、黒人たちは互いの手首を見せ合った。誰かが笑い、誰かが泣いた。だが誰も、明日の取り分や働き口を知らない。水と食の線が、どこへ引かれるのかがまだ見えない。解放の喜びと、将来への怖さが同じ皿に乗っていた。
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この日、サク・ニクテ〈21〉の権限は現場の空気そのものになった。コスメル島同盟軍5,000名の隊長として、彼女は広場の端に立ち、手を上げ下げするだけで列を整えた。命令の声は大きくない。だが通る。彼女が一度目を向ければ、兵は余計な怒鳴りをやめ、捕虜の縄の締め具合を改め、倒れた者に水を当てた。恐怖を増やさないための手順が、彼女の足元から広がっていった。
その背後で、マリア・デ・クエリャル〈27〉とカタリナ・スアレス・マルカイダ〈23〉は黙っていた。2人はサク・ニクテをからかわなくなった。視線を合わせるときに笑わず、命令を聞くときに口を挟まない。必要なときは水袋を差し出し、衣を整え、余計な火種を作らない。恐れが理由だった。隊長という肩書は飾りではない。生死に触れる現場の権限だと、捕虜の列を見て理解したからだ。
さらに別の恐怖が、2人の胸を冷やした。捕虜の中には身なりの良い女がいる。泣き腫らした目でも背筋だけは折れない女がいる。もしアルバロが、その中から気に入った者を妻に迎えると言い出したらどうなる。自分たちは顧みられなくなるかもしれない。その想像は、香の煙より長く残った。
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アルバロはサンチャゴに1万を残し、残りの3万で島全体の制圧に移った。港は封鎖され、街道は押さえられた。山野へ逃げたスペイン人は散り散りに見つけ出され、次々と拘束された。茂みを踏む音、枝を払う音、遠くで鳴く鳥の声。その間に、犬の吠え声が短く割り込む。捕縛の手は速く、必要以上に荒れない。縄の結び目が締まり、捕虜の肩が落ちる。
サンチャゴの街には、糖蜜の甘い匂いと焦げた匂いが残ったまま、新しい秩序の足音が増えていった。泣き叫ぶ声も、解放に沸く声も、どちらも同じ広場に落ちた。アルバロはその混ざり合いを放置しなかった。水を配り、医療を当て、井戸と倉を押さえ、報復を止めた。支配者が消えたのではない。支配の手触りが変わっただけだと、誰もが肌で理解し始めていた。




