第28話(後編)――「仮砦の夜、ケイマンの名」
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(1520年10月16日~12月1日。コスメル島仮砦)
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10月16日の朝、浅瀬の水は透けていた。白い砂の上を波の泡が細く往復し、椰子の葉が擦れ合う音が、遠い帆柱のきしみより先に耳へ入った。上陸した兵は、濡れた革靴のまま砂を踏み、きゅっと鳴る音に顔を見合わせた。
仮砦づくりは、その日のうちに始まった。杭を打つ木槌の乾いた音が一日中続き、切り出した木の青い匂いに、松脂を溶かしたピッチの甘い煙が混じった。土を掘れば湿った匂いが上がり、汗が首筋を伝った。アルバロ〈26〉は作業の輪に入らず、浜から少し高い場所に机を出し、地図と帳面を並べた。海の明るさの中で、黒いインクだけがやけに濃く見えた。
サク・ニクテ〈21〉の首筋の傷は、昼の光で見ると生々しかった。縫い目の周りが硬く盛り上がり、触れれば熱が残っている。アルバロは「治療だ」と言い、薬草を潰した苦い匂いの軟膏を指に取り、傷の縁をゆっくりなぞった。サク・ニクテは息を詰め、次に肩の力を落とした。彼女の肌は潮で冷えていたが、指が触れたところから少しずつ温んだ。
その夜から、アルバロはサク・ニクテの寝室に入り浸った。戸を閉めると、外の掛け声と木槌の音が遠のき、代わりに波の音と虫の声が残る。サク・ニクテは覚えたてのスペイン語を口の中で転がし、言葉が崩れるたびに笑ってごまかした。アルバロは笑わず、ゆっくり言い直し、彼女の舌の動きを確かめるように頷いた。
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マリア・デ・クエリャル〈27〉は、最初は何も言わなかった。食卓では笑みを崩さず、杯を丁寧に回した。ただ、サク・ニクテが水を汲みに立つと、布の裾がわずかに引っかかる位置に椅子をずらした。
カタリナ・スアレス・マルカイダ〈23〉は、もっと露骨だった。サク・ニクテの発音をわざと真似し、兵の前で笑った。笑い声が立つと、サク・ニクテの指が一度だけ震え、木椀の縁が小さく鳴った。
島見物に出たのは、砦の形が整い、見張り台に火が灯るようになってからだ。昼の海は青が浅く、珊瑚の影が白い砂に落ちていた。足を入れると水は冷たく、膝の裏がぞくりとした。
サク・ニクテは先に進み、波の切れ目を見て「ここ、あぶない」と片言で言った。アルバロが目を向けると、見えにくい流れが珊瑚の裂け目へ吸い込まれている。彼女は手で水面を撫で、流れの向きを示した。
アルバロは言った。「海の道を、誰に教わった」
サク・ニクテは胸に手を当て、次に海へ指を向けた。「父。舟。魚。風」言葉が足りない分、身振りが多くなる。彼女の指先が濡れた空気を切り、風の向きを描いた。
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夜、寝室で灯りを絞ると、潮の匂いが濃くなった。サク・ニクテは枕元で、砦の外の暗い海を指して言った。「風、いつも、こっちから」東を示す身振りだ。「海も、こっちから、こっちへ」今度は西へ流す。アルバロは黙って聞き、帳面に線を引いた。
10月の終わり、雨が来た。雲が低く垂れ、椰子の葉が重く鳴った。砦の溝はすぐに水を抱え、土の匂いが強くなった。湿った火縄は臭く、火薬袋の口を開ければ硝石の乾いた匂いがむしろ救いだった。
アルバロはその雨の夜、サク・ニクテの髪を梳きながら言った。「12月まで、ここにいる。海が荒れる」
サク・ニクテは頷き、少し間を置いて言った。「12月、あたたかい。風、まし」それから、指を折って島の名を探した。最後に、知っている言葉を拾って言った。「ケイマン」発音が揺れた。
アルバロが聞き返すと、彼女は小さく舌を出してから、真面目な顔で続けた。「キューバの下。ジャマイカの横。大きい島。水、ある。嵐、逃げる」
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11月に入ると、争いははっきり形を取った。ある昼、サク・ニクテが首の薬を塗ったあとの布を洗っていると、マリアが近づき、布を指先で摘んだ。香草の苦い匂いが立つ。
マリアは微笑んだまま言った。「それは、あなたの仕事ではないわ。汚れるでしょう」
サク・ニクテは意味の半分しか取れず、顔だけで謝った。そこへカタリナが来て、水桶の縁を軽く蹴った。水が跳ね、サク・ニクテの胸元を濡らした。
カタリナは言った。「水浴びが好きなのね。島の娘は」
サク・ニクテの頬が硬くなり、目が下を向いた。言い返す言葉がない。代わりに、唇が震えた。
兵が伝令で呼びに走り、ほどなく足音が近づいた。砂を踏む音が速い。アルバロは桶の前で止まり、濡れたサク・ニクテを一目見て、次に2人の妻を見た。
アルバロは言った。「やめろ。次に手を出したら、俺が止める」
マリアは杯を扱う時と同じ顔で言った。「冗談よ。彼女が怯えているだけ」
カタリナは肩をすくめた。「何もしていないわ」
アルバロは視線を動かさず、声だけを落とした。「ここは砦だ。遊び場ではない。俺の前で、俺の妻を貶めるな」
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その夜、サク・ニクテが寝室へ戻る途中、通路の暗がりで肩を押された。壁の木が背中に当たり、樹皮のざらつきが皮膚に刺さった。耳元でスペイン語が早口に落ち、意味は掴めなくても悪意だけは分かった。
サク・ニクテは逃げようとしたが、足元に滑るものを入れられ、珊瑚混じりの砂に膝が当たった。湿った土の匂いが鼻に入った。
刃が光ったのは、その次だ。黒曜石ではない。小刀の金具の光だ。サク・ニクテは声を上げきれず、喉が詰まった。
そこへアルバロが踏み込んだ。腕が先に伸び、刃を持つ手首を掴んだ。関節がきしみ、相手が痛みで息を漏らした。暗がりから出てきたのはカタリナだった。マリアは少し後ろに立ち、顔は見えないが、息遣いだけが近かった。
アルバロは言った。「刃物を抜くなら、俺に向けろ。彼女に向けるな」
カタリナは声を尖らせた。「あなたはあの娘に溺れている。私たちは何なの」
アルバロは一歩も退かなかった。「俺は溺れていない。守っている。俺が妻にした女だ。踏みにじるなら、俺が先に止める」
言い終えると、アルバロは小刀を取り上げ、砂へ投げた。金属が鈍く鳴った。その音で見張りが駆け寄ってきた。火が灯り、顔が露わになった。マリアは笑みを作ろうとして失敗し、口角だけが固まった。カタリナは目を逸らした。
サク・ニクテは立ち上がろうとして膝が震え、アルバロが腰を支えた。彼の手は熱く、潮と汗の匂いが混じっていた。
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その夜、サク・ニクテは泣かなかった。代わりに、アルバロの手を握り続けた。掌の皮膚が硬く、傷の縁が少しざらつく。
彼女は途切れ途切れに言った。「わたし、弱い。ことば、ない。でも、学ぶ」それから、頬を寄せて、覚えたての言い方で言った。「あなた、守る。わたし、うれしい」
アルバロは言った。「お前は弱くない。怖いのに立っていた。俺はそれが好きだ」
11月の後半、砦の周りは落ち着いた。マリアとカタリナは表向きは従い、食卓でも余計なことを言わなくなった。だが視線は消えない。杯を置く音が少しだけ強くなる時がある。布を畳む指が妙に速い時がある。
アルバロはそれを見て、サク・ニクテの部屋へ入った。治療という名目はとうに不要だったが、戸は毎夜閉まった。外の見張りの足音が砂を踏み、波の音が間を埋めた。
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月のない晩、海は黒く沈み、遠くで波が岩を叩く音だけが聞こえた。サク・ニクテは裸足で床を歩き、窓の隙間から入る風を頬で確かめた。
アルバロの帳面の上に手を置き、指で線を引いた。「ここ、ケイマン。ここ、サンチャゴ」それから、風向きを示す矢印を描き、首を傾けた。「いそがない。12月、行く。いい」
アルバロは頷いた。机の上には、船の水樽の数、干し肉の残り、火縄の乾き具合、兵の交代表が並んでいた。紙の匂い、インクの匂い、ピッチの匂いが一つの部屋で混じる。静かな夜ほど、決めたことが重く残った。
11月の終わり、サク・ニクテのスペイン語は、短い命令なら通るようになった。水、刃物、火、来て、待って。砦の浜で子どもに笑いかけ、貝殻の飾りを結び直す手つきは残っている。だが彼女は島の言葉を口に出す回数を減らし、必要な時だけ、スペイン語で先に声を出した。
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12月1日へ向けて、船は整えられ、兵は乾いた火縄を束ねた。海はまだ気まぐれで、雲が裂ければ日差しが刺す。
サク・ニクテは椰子の影の下で、アルバロの耳元に囁いた。「風、味方。ケイマン、休む。サンチャゴ、取る」言葉は拙いのに、意志だけは揺れなかった。
アルバロは声を漏らして笑い、彼女の額に口づけしてから、帳面を閉じた。




