第28話(前編)――「白い花の名、血の砂」
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(1520年10月2日〜10月16日。ポトンチャン砦発、コスメル島)
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1520年10月2日。アルバロ〈26〉の船団は、グリハルバ川河口のポトンチャン砦を離れた。カンペチェ湾のチャンポトンは沖から見えたが、寄らずに進んだ。
舳先はユカタン半島の外海へ向いた。潮は沖へ引き、湿った熱が帆布の内側にこもった。甲板にはピッチの甘い匂いと、濡れた縄の獣じみた匂いが混じった。帆柱のきしみは一定の間隔で腹に響き、樽の転がる音が船底から遅れて返ってきた。
海は日ごとに顔を変えた。晴れた日は、光が波の背で砕け、青が白へ細かくほどけた。日焼けした木の甲板は熱をため、裸足で歩けば足裏がじりりと痛んだ。夜になると熱はすっと退き、代わりに塩の冷たさが皮膚の上に残った。遠くで魚が跳ねる音がして、闇の底から潮が息を吐くように寄せては引いた。
航海の途中、マヤの小舟が近づく日があった。櫂が水を切る乾いた音が先に届き、やがて褐色の腕と、籠に詰めた塩、蜂蜜、乾かした魚、貝殻の飾りが見えた。船団側は布、針、刃物、小さな鏡を出し、手渡しのたびに指が触れた。蜂蜜は花の匂いが濃く、舌に残る甘さが離れにくかった。塩漬けの魚は身が締まり、噛むほどに潮と煙の味が出た。
大嵐にも出くわした。空が急に暗くなり、風が帆を横から叩いた。雨が針のように飛び、縄は水を吸って重くなり、甲板は滑って足が取られた。雷鳴が近いと耳の奥が先に震え、遅れて船体がどんと鳴った。樽の転がる音、命令の怒鳴り声、吐瀉の匂い、濡れた革の匂いが一緒になった。それでも帆は守られ、舵は折れなかった。夜明けには雲が裂け、湿った木の湯気が甲板から立ち上がった。
嵐が去った翌朝、兵は火縄を干した。濡れた火薬袋が開かれ、乾いた硝石の匂いが潮に混じった。火縄銃の銃口が布で拭かれ、金具が短く鳴った。海の明るさの下でも、次に向かう戦いの気配だけは消えなかった。
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船の中で、3人は不思議なほど穏やかに暮らした。個室の扉を閉めれば外の風と怒号は遠のき、代わりに布の擦れる音と、杯が卓に触れる小さな音が残った。
マリア・デ・クエリャル〈27〉はワインを注ぐ手つきが丁寧だった。香りを確かめるように一度だけ揺らし、黙って差し出した。
カタリナ・スアレス・マルカイダ〈23〉は陽気だった。甲板に出れば風を先に掴み、髪を押さえながら笑った。
食卓は海に合わせて変わった。焼いた貝の香ばしさ、海老の甘い匂い、魚の皮が弾ける音。積んできた上等のワインは喉を滑り、舌の奥に木樽の渋みが残った。地酒は荒く、胸の内側を熱くした。
塩気の強い干し肉をかじり、柑橘の酸で口を切り替えると、潮の匂いがふっと薄くなる。夜には歌が出た。最初は小さく、次に手拍子が乗り、足音が甲板の板を叩いた。星の明るい晩は、波の黒さが余計に深く見え、踊る影が帆柱に揺れた。
ただ、2人の妻がアルバロを巡って熱を帯びる瞬間は絶えなかった。視線が先に尖り、言葉が少しだけ早くなる。指先が杯の縁を叩き、椅子の脚がわずかに鳴る。
アルバロはそれを見て、ある夜、扉の前で言い渡した。
「争いを仕掛けた方は、夜伽には一切呼ばない。覚悟して喧嘩せよ」
2人は返事をしなかった。だが、その晩から、アルバロの前では席の譲り方が変わった。杯が回る順が整い、笑みの角度だけが揃った。
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およそ2週間ののち、コスメル島の浅瀬が見えた。水は驚くほど澄み、白い砂の上に珊瑚の影が落ちた。岸には椰子が並び、濃い緑が風にざわめいた。上陸の瞬間、陸の匂いが鼻に入った。湿った土、割れた葉、甘い花粉。3人はしばらく言葉を失い、波打ち際で濡れた靴のまま立ち尽くした。海の青と島の緑が互いを押し返すように鮮やかで、その場にいるだけで旅の疲れが一度ほどけた。
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(1520年10月16日午前7時。コスメル島)
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潮が引きかけた浅瀬は夜の冷えをまだ抱えていた。白い砂は水を含んで黒み、踏むときゅっと鳴った。波は膝ほどの高さで静かに砕け、泡の線だけが往復していた。椰子の葉が擦れ合う音が、帆のきしみより先に耳へ入ってきた。
見張りが指を伸ばした先に、小舟が3隻、朝靄の端から現れた。櫂が水面を叩く乾いた音、船首で鳴らされた法螺貝の低い響き。島の男たちは薄い綿布をまとい、赤土の線が頬や肩に引かれていた。槍と呼ぶには細い棒、石の刃、籠。武器より、運ぶ手つきのほうが目立った。
アルバロ〈26〉は甲板の兵に手を上げた。火縄銃の銃口が下がり、弓弦が緩む。剣が鞘へ戻る音が重なった。相手が怯えれば浜の空気はすぐに尖る。スペインとの戦いが控えている以上、ここで血を流す理由はない。アルバロは舳先へ出て、両手を広げ、胸に拳を当てて名を告げた。言葉は通じなくても、声の高さと間で意志は伝わる。
マリア・デ・クエリャル〈27〉とカタリナ・スアレス・マルカイダ〈23〉も前へ並んだ。2人は互いの視線を一度だけ合わせ、次に浜へ笑みを向けた。マリアは持参の薄布を丁寧に畳み、贈り物の形に整えた。カタリナは小さな鈴のついた飾りを指に掛け、音がきつくならぬよう掌で包んだ。
小舟が寄ると、先頭の男が砂へ降り、膝をついた。手のひらを上にして差し出したのは香の樹脂だった。白い塊は熱を帯びていないのに匂いだけ強い。砕けた欠片を火へ落とすと、甘い煙がすっと立ち、潮の匂いに混じった。続いて籠が開かれ、カカオ豆の乾いた香り、蜂蜜の重い甘さ、干し魚の燻り、綿布の柔らかな白が並んだ。
男の背後から、族長が姿を見せた。族長〈28〉だ。日焼けした頬が強ばり、視線だけが落ち着かない。贈り物の列を見てから、アルバロの船を見上げる。帆布、鉄、樽、道具。族長は、自分の差し出す物がみすぼらしく見えているのを自分で分かってしまったようだった。唇を噛み、胸に触れてから深く頭を下げた。
アルバロは受け取りを兵に任せず、自分の手で一つずつ受け取った。掌に乗せると、カカオ豆は小石のように冷たく硬い。蜂蜜は指に絡み、舐めれば花の味が濃く、喉へ落ちるまで甘さが離れなかった。干し魚は噛むと潮が弾け、煙の匂いが鼻へ戻った。アルバロは頷き、布、針、刃物、小さな鏡を並べさせた。鏡が朝日を跳ね返すと、島の子どもが一瞬息を止め、次の瞬間、笑い声が弾けた。
マリアは綿布を相手の女たちの前で広げ、触り心地を示した。指先が滑ると、女たちは布の縁をつまみ、頬へ当て、短く声を上げた。カタリナは鈴を鳴らし、子どもの足元で小さく踊って見せた。甲板の緊張がほどけ、兵の肩も下がった。潮の匂いの中で、人の声が丸くなるのが分かった。
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そのとき、族長が合図を送った。小舟の陰から、1人の若い女が進み出た。族長の正妻〈21〉だ。濃い黒髪を一本にまとめ、首には貝殻の飾りが揺れた。目は大きく、まばたきのたびに光が揺れた。唇は乾き、喉が一度だけ鳴った。砂の上で足指が小さく縮み、踏みしめた跡が深く残った。怖れていないわけではない。だが、怖れを見せないように立っていた。
族長は正妻の肩に手を置き、アルバロへ向けて押し出すように差し出した。言葉は分からない。だが仕草が告げていた。贈り物が足りない。その埋め合わせとして最も大切なものを差し出す。族長の喉が上下し、耳たぶの汗が光った。
アルバロは一歩引いた。手のひらを横に振り、首を切るようにして拒んだ。胸に手を当て、背後のマリアとカタリナを指し、さらに自分の指を2本立てた。すでに妻がいる。これ以上は受けられない。そう伝えるための身振りだった。
族長の顔から血が引いた。周囲の男たちがざわめき、女たちの声が小さく重なった。正妻〈21〉の目が見開かれ、次に唇がきゅっと結ばれた。断られたのは族長ではない。断られたのは自分だと理解したのだ。
正妻は一歩下がり、腰の袋から黒い刃を抜いた。黒曜石の刃は朝の光を吸い、濡れたように鈍く光った。腕がためらいなく喉のほうへ上がる。潮の音が急に大きく聞こえた。
アルバロの身体が先に動いた。砂へ飛び降りると、足裏に冷たい水が回り、砂が踵を取った。止めるしかない。彼は手首を掴んだ。刃が揺れ、黒曜石の縁が掌の皮を薄く裂いた。血が一筋、砂へ落ち、白い粒を赤く染めた。
正妻は息を呑み、顔が蒼くなった。握られた手首が震え、刃が砂へ落ちた。崩れそうになり、アルバロは肩を支えた。汗と香の煙と蜂蜜の甘さと潮の匂いが一緒に鼻へ入った。
マリアが浜へ降りて来た。布を広げ、正妻の肩へそっと掛けた。布は海風を遮り、震えを包んだ。カタリナも続き、水袋を差し出した。口元へ当てると、正妻は一度だけ喉を鳴らし、水を飲み込めずにむせた。次の瞬間、涙がこぼれ、頬の赤土の線を細く崩した。
正妻はアルバロの掌を見た。砂に落ちた赤ではなく、彼の皮膚の裂け目から滲む赤だった。視線が一瞬揺れ、貝殻の飾りを握る指が白くなった。
アルバロは族長を見た。族長は歯を食いしばり、地面へ額がつくほど頭を下げていた。拒めば、正妻はもう一度刃を取る。受ければ、手元の2人の妻の間に新しい火が落ちる。砂の上の黒曜石と赤い血が、その場の迷いを削った。
アルバロはゆっくり頷いた。胸に手を当て、次に正妻を指し、最後に自分の肩へ手を置いた。守る、連れて行く。その意味の仕草を重ねた。
正妻の名が告げられた。島の言葉で、白い花を指す名だ。アルバロは聞き取りやすい音に整え、口に出した。
「サク・ニクテ」
サク・ニクテ〈21〉は小さく頷いた。だが頷きは軽くなかった。喉を押さえるように一度唾を飲み込み、砂に落ちた黒曜石から目を離し、アルバロの顔を見上げて息を整えた。
マリアは笑みを崩さず、布の端を整えた。だが指先は一度だけ強く布を摘んだ。カタリナは水袋の口を締め、鈴の飾りを掌の中で鳴らさないよう押さえた。2人とも争いの顔は見せない。見せない代わりに、視線が一度だけ外へ逃げた。
潮がさらに引き、浅瀬の石が顔を出した。椰子の葉が擦れ、香の煙が細く流れた。甘い匂いと血の鉄臭さが同じ風に乗り、3人ではなく4人になった一行の始まりを、静かに刻んだ。




