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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第5章――「湖の鎖、石の秤」

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第27話(後編)――「帆の昼、寝台の火花」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


―――――――――――――――――

 (1520年10月2日午前7時。グリハルバ川河口ポトンチャン砦)

―――――――――――――――――


 夜明けの川口は、海と泥の匂いが同じ高さにあった。薄い霧の下で、櫂が水面を割るたび、湿った木の匂いが立つ。船腹には乾ききらないピッチが黒く光り、麻縄は夜露で冷えて指に貼りついた。甲板では樽が転がらないように楔が打たれ、塩漬け肉の樽、乾パンの樽、豆の袋、水桶、油布で包んだ火薬の箱が、順番を決められて積まれていた。金属が触れ合う音は小さく抑えられ、代わりに縄が擦れる鈍い音が続いた。


 アルバロ〈26〉は船尾楼の陰で、最後の積み込みを見届けた。息を吸うと、潮の湿りの奥から炭火の残り香が鼻に入る。砦の朝の匂いを、海へ持っていく匂いだった。


 マリア・デ・クエリャル〈27〉は外套の襟を整え、視線だけで甲板の端から端まで確かめた。白い肌は朝の光で輪郭が柔らかく見えるが、目は落ち着いている。マリアは「水樽が多めにあるのね。これなら、誰の喉も乾かさずに済むわ」と言った。声は穏やかで、しかし言い切りは揺れなかった。


 カタリナ・スアレス・マルカイダ〈23〉は舷側へ寄って風を測った。髪が頬に貼りつき、すぐ剥がれて揺れる。カタリナは「この風なら、チャンポトンの灯を横目に見ながら、止まらずに抜けて行けそうね」と言った。口元に笑みが浮かぶ。休むつもりのない笑みだった。


 出航の号令が掛かり、帆が揚がる。布が空気を抱える音は、乾いた紙を大きく裂くようだった。船がわずかに傾き、足元の板がきしむ。川の匂いが後ろへ引き、代わりに外洋の匂いが前から来た。潮の塩気が濃くなり、波が船腹へ当たる音が、規則正しく腹へ響いた。


 午前のうちは海がまだ穏やかで、船は大きく跳ねない。甲板に立つと、塩の粒が唇に付く。陽が上がるにつれ、ピッチの匂いが熱で立ち、帆柱の金具が時おり高く鳴った。見張りが叫ぶと、声は風に削られて短く届く。


 正午前、船尾楼の食卓に皿が並んだ。木の皿には豆の煮込み、乾いたパン、干した魚、焼いたとうもろこしが置かれ、柑橘の酸が添えられた。器の縁からは、まだ湯気が細く上がっていた。揺れに合わせて燭台の火が小さく揺れ、脂の匂いが一瞬だけ強くなる。


 アルバロは席につくと、地図を横へずらした。皿の匂いが腹を動かし、同時に紙の匂いが頭を冷やす。海は目の前で揺れているのに、机の上の線は揺れない。


 マリアはアルバロの右に座り、杯を静かに満たした。指先は揺れに合わせて微妙に角度を変え、こぼれないように受け止める。マリアは「寄港しないのなら、兵たちも余計な口を利かなくて済むわね。噂も広がりにくいでしょうし」と言った。


 カタリナは左に座り、パンをちぎって差し出した。指がアルバロの手に触れ、わざと一拍だけ長く残る。カタリナは「止まらずに進む船は、それだけで強く見えるものよ。怖がるのは、きっと向こうのほうだわ」と言った。


 マリアは杯から目を上げずに言った。マリアは「強さは、見せ方で決まるのよ。怖がらせたい相手を、こちらが選べるようにね」と言った。柔らかい言葉の並びなのに、芯だけが固い。


 カタリナは笑みを深くした。カタリナは「見せ方なら、私だって負けないわ。笑顔だって、いくらでも使えるもの」と言った。


 アルバロは黙って豆を口に運んだ。塩気と香草が舌に残り、喉が水を欲しがる。彼は2人の言い分をすぐには裁かない。どちらかを勝ちにすれば、もう片方の負けが残る。負けが積み重なると、夜の部屋に余計な刺が立つ。


 午後、陸影が右舷の遠くに出た。ユカタンの低い緑が、線のように伸びる。潮が変わり、海の色がわずかに濁る。鳥が群れ、風に乗って船の上を横切った。遠くで焚き火の煙の匂いがした。土地が近い匂いだ。チャンポトンはその先にあるはずだが、帆は緩められず、船は岸へ寄らない。


 カタリナは舷側に手を置き、陸を見て言った。カタリナは「寄れる場所があっても寄らずに進む。その姿こそ、征服の形になるのよ」と言った。


 マリアは船尾楼の影から同じ陸を見て、別の言い方をした。マリアは「いったん止まってしまえば、誰かと余計な約束が生まれるわ。今日は、その約束を増やしたくないの」と言った。


 同じ結論を、違う手つきで差し出す。アルバロはその違いが好きでもあり、面倒でもあった。風が強くなると、帆が鳴り、船がもう一段傾いた。舷側に溜まった飛沫が足首を濡らし、塩が布を固くした。


 日が落ちるころ、空気が急に軽くなった。昼の熱が引くと、汗が冷えて背中に張りつく。海は暗く、波の頭だけが白い。甲板では交代の合図が短く響き、兵たちの足音が規則的に巡回した。帆柱のきしみ、索具の擦れ、船底の低い鳴りが、夜の音としてまとまっていく。


 3人の個室は船尾楼の奥にあった。戸を閉めると、外の風が薄まり、代わりに木と布と人の匂いが濃くなる。寝台の麻布は昼の湿りをまだ抱え、触れると冷たい。燭台に火がともり、光が壁の継ぎ目をなぞった。


 マリアは先に外套を脱ぎ、髪をほどいた。動きは早いのに、乱れがない。マリアはアルバロの襟元の汗を布で拭き、低い声で言った。マリアは「昼に揺られたぶんだけ、夜はきちんと落ち着かせて差し上げるわ。あなたの肩が、少し固いもの」と言った。


 カタリナは寝台の端に腰を下ろし、靴を脱ぎ捨てた。若い体温が部屋の空気をすぐ変える。カタリナは「落ち着くのも素敵だけれど、私は……熱を残したまま眠りたいの」と言った。語尾は甘いが、視線はまっすぐだ。


 マリアはカタリナを見た。マリアは「熱は、上手に手綱を取らないとね。船まで焦がしてしまったら困るでしょう」と言った。


 カタリナは笑みを消さずに返した。カタリナは「焦がすなら、敵の港だけで十分よ。ここは、私たちの船だもの」と言った。


 言葉の応酬は、互いの体温の押し合いになっていく。マリアはアルバロの手を取って、自分の側へ引く。指は冷たくないが、迷いがない。カタリナは反対側からアルバロの肩へ腕を回し、耳もとへ息を落とす。香は薄い。汗と塩と、昼に食べた香草の残りが混じるだけだ。寝台がきしみ、板の鳴りが一度だけ大きくなって、また波の音に溶けた。


 2人は同じ男を抱き寄せながら、主導権を渡さない。マリアは声を抑え、指先だけで合図を作る。カタリナは言葉を使い、挑むように呼びかける。アルバロはその間で息を整え、どちらの熱も切らさないように受け止めた。甘さだけで終わらない夜になると、触れ方が鋭くなり、抱き方が強くなる。だが、どちらも最後には同じ場所へ戻る。アルバロを、止まらない男のままにしておくことだ。


 マリアは耳もとで囁いた。マリアは「明日、兵たちの前では、もう少し柔らかい声で命じて。あなたが冷たく見えると、皆の心が離れてしまうわ。よかったら、私の言い方を少し借りて」と言った。頼みの形をしているが、逃げ道は残していない。


 カタリナは反対側から囁いた。カタリナは「明日の甲板では、少し笑って見せて。怖い顔のままだと、皆が身構えてしまうでしょう。あなたの笑い方に、私の笑い方を混ぜて。そうしたら、船の空気が軽くなるわ」と言った。甘い声で、しかし矛先を作る。


 アルバロは短く息を吐き、2人の間でうなずいた。彼は約束を言葉で並べない。ただ、手を伸ばし、背中を抱え、熱が逃げないように押さえた。そうすると2人の呼吸が同じ速さになる。外では波が船腹を叩き、同じ音を何度も繰り返した。


 夜半、いったん灯りが落とされた。暗闇の中で木の匂いが強くなる。帆が風を受け直すと、船が少しだけ向きを変え、寝台のきしみが別の角度で鳴った。マリアは眠りに落ちる前に、アルバロの指を握り直した。カタリナはその手を見て、何も言わずに自分の指を重ねた。言葉を使わない心理戦は、最後まで続いた。


 アルバロは2人の重みを感じながら目を閉じた。潮の音が遠くなり、代わりに帆柱の軋みが近づく。船は止まらない。寄港しないと決めた以上、夜も進むしかない。暗い海の上で、彼の中の誓いもまた、同じ方向へ滑っていった。

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