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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第5章――「湖の鎖、石の秤」

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第26話(後編)――「波の闇、命の小舟」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


―――――――――――――――――

 (1520年9月28日午前7時。グリハルバ川河口ポトンチャン砦)

―――――――――――――――――


 アルバロと貴婦人マリア・デ・クエリャル〈27〉、カタリナ・スアレス・マルカイダ〈23〉の奇妙な関係は、しばらく続いた。アルバロ軍の船団は1520年9月21日の午後、センポアラ沖を離れ、タバスコ川〈グリハルバ川〉河口のポトンチャンへ向かった。


 一方でアルバロは、2人の貴婦人と連れ立ち、陸路を選んだ。馬の背に揺られるほうがよいと、2人が揃って言い出したからだ。船のほうが早いことは、彼女たちも分かっている。それでも船室の湿気と揺れ、胃の底から持ち上がってくる吐き気に、もううんざりしていた。陸なら、風は顔に当たり、脚は伸ばせる。何より、アルバロがそばにいる。彼女たちはその一点を、遠慮なく旅程の中心に据えた。


 海岸沿いの道は白い砂と固い土がまだらに混じり、馬の蹄が乾いた音を立てた。陽は強く、鎧の留め金はすぐ熱を持ったが、海からの風が汗の膜を薄く剥がしていく。潮の匂いの奥に、干した魚と煙の匂いが刺さり、遠くではマングローブの湿った泥の匂いが、時折まとわりついた。馬の首筋は汗で黒く光り、鼻先からは白い息ではなく、熱い息が短く噴き出した。貴婦人たちの革手袋はすぐ湿り、指先だけが塩でざらついた。


 昼のあいだ、2人は子どものように気分を変えた。浜へ馬を寄せ、外套を脱がせ、薄い布の下着姿で海へ入る。波がふくらはぎを叩き、砂が足裏へ潜る。肩まで沈めれば汗が引き、耳の奥の熱が引いていく。濡れた髪を絞るたび、水滴が日差しに砕けた。アルバロは護衛を少し離して立たせ、視線を遮る位置だけを選び、あとは黙って見ていた。2人が望む「快適」は、こういう形で差し出されるのだと、彼はもう学んでいた。


 夕方になると、道の匂いが変わった。焚き火の煙、煮込みの湯気、唐辛子を炙る焦げ、すり潰したトウモロコシの甘い粉の匂いが、村の手前から流れてくる。族長や有力者の家では、戸口に敷かれたマットが新しく、壺の水は冷たく保たれていた。コパルの香が淡く焚かれ、虫の羽音を押し返すように室内へ漂った。器には焼いた川魚、豆の煮込み、かぼちゃの種、蜂蜜のかかった果実が並び、濃いカカオの飲み物は、木の泡立て器で泡を立てたあと、辛味のある香りを残して喉へ落ちた。


 2人の貴婦人は、その歓待を遠慮なく受け取った。濡れた靴を脱がせ、扇で風を送らせ、皿の順番を替えさせる。言葉が通じなくても、指先の合図と、笑って見せる顔で事足りた。贈り物の綿布や羽根飾りを手に取ると、肌触りを確かめ、気に入れば当然のように頷いた。周囲の者たちが息を止めて見守る緊張すら、彼女たちには快い背景音に過ぎない。アルバロはそれを咎めず、村の側には代価と約束を、貴婦人には満足を、それぞれ別の形で渡した。


 夜はさらに静かだった。外では波が低く砕け、遠くで太鼓が1つだけ鳴ることがある。寝所には蚊帳が吊られ、布の目の向こうで灯火が揺れた。貴婦人たちの髪油の香りとコパルの残り香が混じり、汗と塩の匂いの上に薄く重なる。昼間は誰の前でも節度を保ち、腕を取るにしても儀礼の範囲で止める。だが人が引き、見張りの足音が遠のくと、視線と指先だけで合図が交わされる。3人の間にあるものは、すでに秘密の形を持っていた。それでも彼らは、その秘密を秘密のまま運ぶために、翌朝になれば何事もなかった顔で馬へ乗った。


 旅は続き、潮の匂いに川の匂いが混じり始める。淡い腐葉土とぬめる泥、濁った水の重さが風に乗るころ、ポトンチャンの河口は遠くない。海上では帆が先に着く。陸では笑い声が先に着く。その差を知りながら、アルバロは今日も2人の「要求」を受け入れ、馬の歩みに合わせて距離と沈黙の数を整えていた。


 ◇ ◇ ◇


 ポトンチャンを発ってから、3人は船に移った。陸路の砂と人目を避けるより、海のほうが都合がよかった。甲板に出れば潮が肌を乾かし、船倉に降りれば松脂とピッチの甘い匂いが喉に残る。縄は湿って重く、帆布は夜露を吸って、触れ合うたび布の擦れる音を立てた。波は船腹を叩き、板の継ぎ目から、かすかな軋みが昼も夜も止まらなかった。


 船内には小さな個室が何部屋もあり、扉を閉めれば外の声は細くなった。マリア・デ・クエリャル〈27〉は、ほとんど毎日、アルバロを呼んだ。香を薄くまとわせた髪が枕にほどけ、指先が鎖骨のあたりでためらいなく熱を探した。カタリナ・スアレス・マルカイダ〈23〉は合間を縫うように、扉の陰から入ってきた。廊下の灯りが背に揺れ、息だけが先に近づく。ふたりは互いの存在を知っていて、知っていることを言葉にしなかった。沈黙のまま、外の波音と、近くの息づかいだけが部屋に残った。


 アルバロは若く、体温が高かった。汗の塩が胸に乾き、指で拭えば皮膚のざらつきが残る。求められるままに応え、やがて相手のほうが先に息を切らして、もうこれ以上は無理だと短く首を振ることもあった。窓の小さな隙間から海の匂いが入り、熱と混じって、寝台の麻布に染みついていった。


 事件は、そんな夜を切るように起きた。甲板の上で靴音が走り、怒鳴り声が帆柱を揺らした。つづいて水が割れる音がした。飛沫の冷たさが風に乗り、扉の隙間からも入り込んだ。


 アルバロが甲板へ出ると、暗い海に2つの影が沈みかけていた。キューバ提督ベラスケスとエルナン・コルテスが、舷側から飛び込んだのだ。兵たちは火縄と弩を構え、狙いを定めようとしていた。火薬の匂いが鼻を刺し、火縄の赤い先が小さく揺れた。


「撃つな」

 アルバロの声は低かったが、はっきり通った。塩気の強い風が言葉をさらおうとしても、命令だけは残った。兵の肩が止まり、引き金に掛かった指がためらいを見せた。海面には、必死に腕を回す水音が続いている。


 アルバロは舷側に手を置き、濡れた木の冷たさを確かめるように一度だけ押した。それから短く指示を出した。小舟を下ろせ。水と乾物を積め。布で包んだ肉も入れろ。樽は口を固く締めろ。


 ロープが擦れる音がして、小舟が波に触れた。桶の水が揺れ、樽の木がこつりと鳴る。兵が櫂を握り、船影を寄せる。アルバロは身を乗り出し、暗い水面へ向けて命じた。

「そこに置け。戻れ」


 小舟は2人の近くに残された。波が食料の包みを濡らしそうになるたび、小舟の縁が上下し、細い縄がきしんだ。ベラスケスとコルテスは、息を吸い込む音がこちらまで届きそうなほど荒く、水を掴んで小舟にしがみついた。アルバロは見届けると、踵を返した。甲板の上に残ったのは、火縄の匂いが消えきらない空気と、波が船腹を叩く鈍い音だった。


 マリア・デ・クエリャル〈27〉とカタリナ・スアレス・マルカイダ〈23〉は、少し離れた暗がりでその一部始終を見ていた。マリアは指先で胸元の布をつかみ、息を呑んだまま動けなかった。カタリナは唇を噛み、潮風で冷えた腕を自分で抱くようにして立っていた。銃声が出なかったことが、かえって耳に残った。誰も撃たなかった。その静けさの中で、アルバロの決断だけが際立った。


 船室へ戻る途中、廊下の灯りが顔を照らした。マリアはアルバロの腕に触れ、まだ海の冷たさが残る衣の湿りを指で確かめた。

「あなたは、殺さなかった」

 言葉は短かったが、声が震えていた。


 カタリナも続いた。

「敵を生かして帰すのは、弱さじゃない。私たちには……そうしないでくれた」

 言い終えると、喉が鳴る音がした。恐れの名残と、別の熱が混じっていた。


 アルバロは2人を見比べ、何も飾らずに言った。

「生きて帰れば、あいつらは俺の名を運ぶ。俺にとっては、それで足りる」


 マリアは一歩近づき、香の薄い髪を揺らして首を垂れた。

「あなたの名に入る。あなたの妻として生きる」


 カタリナも同じように頷いた。目は潤んでいたが、逃げなかった。

「私も。あなたが私たちを抱いたのは、遊びではないとわかった」


 船の外では、夜の波が絶えず鳴っていた。甲板の上を歩く見張りの足音が遠くにあり、帆が風を受ける音が、薄い布のように船体を包んだ。アルバロは2人の肩に手を置いた。掌の温度が布越しに伝わり、マリアは息を吐き、カタリナは瞬きを1つだけして目を伏せた。


 その夜、扉は静かに閉じられた。灯りは低く、海の匂いが隙間から入り、3人の息づかいに混じっていった。

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