第26話(前編)――「塩と焦げの朝、白い距離」
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(1520年9月21日午前7時。センポアラ砦)
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砦の朝は、海の塩と焦げの匂いで始まった。波が石垣の外で砕け、引く音が低く続く。夜のあいだに乾き切らなかった帆布が中庭の綱に垂れ、触れ合うたびに湿った布が擦れる音を立てた。松脂を溶かしたピッチの甘い匂いが、焼けた縄の焦げと混じり、風向きひとつで鼻の奥を刺した。
アルバロは砦の上段の回廊から中庭を見下ろしていた。兵たちは海戦の後始末を続けている。砲身の煤を拭う布が黒く濡れ、縄の端には塩が白く吹いていた。水桶がいくつも運ばれ、甲板から剥がした血と油が、石畳の溝を細く流れていく。手袋の指先には鉄の冷たさが残り、握り直すたびに金具が乾いた音を返した。
キューバ島へ、という考えは夜明け前から頭の中に居座っていた。マヤとの戦いはまだ先に回せる。今は新大陸の海の口を押さえ、スペインの船をこちらの計算から外すほうが早い。砦の外の海を見れば、その答えは簡単だった。昨日まで敵のものだった波が、今日は何事もなかったように青く光り、遠い水平線のあたりで雲が薄く裂けている。島は、あの向こうにある。
回廊の足音が近づいた。革靴の硬い音ではない。布が軽く鳴る、体温のある歩き方だった。
マリア・デ・クエリャルが先に現れ、その半歩後ろにカタリナ・スアレス・マルカイダが続いた。2人とも夜の騒ぎの残り香を嫌ったのか、香油は薄い。代わりに、洗い立ての麻布の匂いと、髪に残る煙の匂いがした。朝の光が頬に当たり、肌の白さがはっきりと出る。粉をはたいた白ではない。寝不足と潮風で血の気が引き、逆に透けるように見える白だった。
アルバロは視線を逸らさなかった。逸らさないこと自体が礼儀であり、同時に攻めにもなると分かっていた。白さを見て、目の置きどころを変えない。褒め言葉は口にしないまま、長く味わった。2人もその視線を受け止めて、薄く息を整えただけで退かなかった。
「眠れたか」
アルバロは短く訊いた。
「眠れた、と言えば嘘になるわね」
マリアが先に答えた。声は落ち着いているが、語尾がわずかに乾いていた。喉が塩で荒れているのだろう。
「あなたの兵は、夜でも働くのね」
カタリナが言った。皮肉に寄せることもできる調子だが、そうはしなかった。言葉を刃にすれば、自分の居場所が狭くなる。それをこの1週間で学んでいた。
アルバロは回廊の欄干に指を置いた。石は夜の冷えを残し、指先が軽く痺れた。
「働かせているのは私だ」
「海が止まらないなら、人も止まらない」
マリアは息をひとつ吸い、鼻から細く吐いた。潮と焦げの匂いが、その吐息に混じってほどける。カタリナは欄干の向こうへ目を向け、中庭で樽を転がす黒人兵を見た。樽の輪が石に当たる鈍い音が、朝の静けさに残る。
「あなたは、島へ行く気ね」
マリアが言った。断定だった。
アルバロは「なぜ分かる」とは訊かなかった。2人の視線が、砦の外の海へ何度も向いていたからだ。地図がなくても、彼の考えが海に滲むのを、2人は読み取っていた。
「行けば、戻れなくなるかもしれない」
カタリナが言った。言葉は慎重だが、目は逃げない。
「戻れなくなるのは、私ではない」
アルバロはそう言い、2人の顔を順に見た。
「ここに残る連中だ」
マリアの口元がわずかに動いた。笑いになりかけて飲み込んだ動きだった。カタリナは眉を上げ、短い沈黙を置いた。沈黙が同意に見えることを知っている。それでも消さなかった。
その瞬間、3人の間にあるものは言葉よりも匂いと距離だった。回廊は狭く、風は海側から吹き込み、女たちの髪を揺らす。髪が頬に触れる音がして、次にアルバロの外套の縁に軽く当たった。絹ではない。麻の乾いた触感だ。触れたのは偶然でも、偶然のままには置けない感覚が残った。
アルバロは近づかなかった。近づけば、相手が一歩引くことを知っていた。引かせれば、関係は冷える。欲しいのは逃げる背中ではない。逃げずに立っている距離だった。
マリアは視線を落とし、アルバロの手袋を見た。煤が爪の縁に入り、縫い目に塩の白が浮いている。彼女はその汚れを見て、海戦の光景を思い出したのだろう。砲声の腹に響く重さ、船板の軋み、負傷者の鉄臭い息。
「あなたは、強い男を集めたい」
マリアが言った。
「武器だけじゃない。頭も、手も」
カタリナは頷かなかった。頷けば、夫への裏切りが形になる。ただ、唇の端をわずかに締めた。締める癖が、彼女の我慢を示した。
アルバロはその我慢が好きだった。媚びて崩れる白さではない。崩れないから白が保たれる。朝の光の下で、肌の薄さが分かる。首筋の脈が淡く透け、耳たぶの縁が小さく赤い。その赤みは戦場の血とは別の、生きている色だった。
「君たちは、忠誠の話をしない」
アルバロは言った。
「王の名も、神の名も、会話の飾りにしない」
マリアは肩をすくめた。仕草は上品だが、投げやりでもあった。
「飾りにするほど、信じていないだけよ」
カタリナは笑わなかった。だが、目がほんの少しだけ柔らかくなる。彼女も同じ場所に立っている。立っているが、それを言葉にするのが怖い。怖さは夫の顔ではなく、自分が自分をどう見るかに向いていた。
中庭から湯気の匂いが上がってきた。厨房が朝の粥を煮始めたのだろう。とうもろこしの甘い匂いに、干し肉の脂の匂いが重なる。マリアの腹が小さく鳴ったのか、彼女は一瞬だけ喉を鳴らして誤魔化した。カタリナは気づかないふりをした。アルバロは気づいたが、指摘しなかった。
3人は生活をともにした1週間で、こういう細部を互いに拾い合うようになっていた。拾いはするが、握りしめない。握りしめれば、関係は別の形になる。
カタリナがふいにアルバロの外套の袖に目を留めた。縫い目のほつれだった。彼女は指を伸ばし、直すように触れかけて止めた。触れれば世話になる。世話は親密の入口になる。入口に立つには、まだ早い。
その躊躇が空気に残った。香油より長く残る。アルバロはそれを見て笑いそうになり、抑えた。笑えば軽くなる。軽くなれば、彼女たちの抵抗も軽くなる。抵抗が軽くなると、彼が欲しい「同じ目線」は崩れる。
「食事を」
アルバロは言った。
「話はそのあとだ。腹が空いていると、判断が荒くなる」
マリアは小さく息を漏らし、肯定とも否定ともつかない表情を作った。カタリナは一拍遅れて頷いた。頷きは小さいが、彼女の中では大きい。
回廊を歩き出すと木の床がきしむ。3人の足音は揃わない。揃わないことが、今の関係をそのまま示していた。マリアが先に進み、カタリナは半歩遅れ、アルバロは後ろに残る。距離があるから、互いの匂いが薄く混じるだけで済む。薄く混じるだけで、意識は乱れる。
食堂の扉の前で朝の光がいったん陰った。陰の中で、マリアの白さはさらに際立ち、カタリナの白さは冷たく見えた。アルバロはその違いを確かめるように視線を置いた。称賛は言葉にしないほうが残る。言葉にすれば、受け取るか拒むかを選ばせる。今は選ばせないほうがいい。
扉が開くと湯気が顔に当たった。塩と焦げの匂いが少し遠のき、代わりに穀物の甘さが鼻を満たす。3人は同じ卓に座った。肘が触れそうで触れない距離だ。木の卓は海風で乾き、掌を置くとざらつく。
アルバロは杯を取り、2人に先に回した。手が触れないように、杯の縁だけを持つ。マリアは受け取ると、指先で縁を1度だけ拭った。布は卓の端に畳まれていたが、手を伸ばす動きが早すぎて、迷いが見えなかった。
カタリナは杯を受け取らず、椀の位置をほんの少しだけずらした。肘が触れない角度へ、椅子の脚が木床を擦って短く鳴る。鳴った音に気づいたのは3人だけだった。
湯気が鼻の先を撫で、とうもろこしの甘さが喉の奥へ落ちる。マリアが椀を口へ運ぶ前に、視線だけでアルバロの手袋の煤を確かめた。カタリナはその視線を追い、何も言わずに自分の椀をさらに半指ぶん外へ寄せた。
アルバロは杯を指先で回し、止めた。回す癖が出るほど考えが熱くなっていると、2人に知られるのが早い。彼は杯を戻し、代わりに卓の木目を親指でなぞった。ざらつきが皮膚に引っかかり、落ち着く。
会話は低くしなかった。小声にすれば、かえって誰かの耳を呼ぶ。普通の声で「食事を」と言い、普通の声で応じる。だが、椀を渡す順番、布の置き方、椅子の角度だけで、互いの境界が静かに決まっていく。
外では波が変わらず砕けている。砦の石は冷たい。卓の上の湯気は確実に熱い。3人はその熱を、口に入れる前にもう1度だけ眺め、同じ速度で飲み込んだ。




