第7話――「病舎と寝室のあいだ」
サントドミンゴの港が見えてくると、白い城壁と赤い屋根が、夕暮れの光の中に浮かび上がった。
小舟が岸に着き、アルバロ・デ・モリーナは石畳に足を下ろした。坂の上には、兄の屋敷の明かりが見える。
(あの方に、どんな顔で申し上げるべきか)
インディオの死者は減りつつある。砂糖の数字も、落ちてはいない。ラス・カサスの報告も、すでに兄のところへ届いているはずだった。
◇ ◇ ◇
広間に入ると、フアン・デ・モリーナが立ち上がった。
「アルバロ。無事に戻ったな」
「ただいま戻りました、兄上」
抱きしめられながら、アルバロは小さく息を吐いた。
「インディオの病はどうなった」
「病舎を作り、水と寝床を分けました。働かせ方も少し改めました。その結果、ここ数か月で死者は目に見えて減っております」
「ラス・カサス殿の報告にも、お前の名があった」
フアンは、机の上の書簡に目をやった。
「『インディオの死を減らした例』としてな。あの司祭にそう書かせるとは大したものだ」
「司祭殿は厳しい方ですが、公平でもありますから」
アルバロは肩をすくめた。
「わたしの過ちも、改めたことも、そのまま書いてくださいました」
その会話を、卓の向こうでイサベルが聞いていた。
彼女は静かに杯を置き、二人を見た。
「インディオを酷く扱っている、と噂で聞きました」
イサベルの声には、とげはなかった。
「でも同じ人たちが、『病人の小屋を建てた』『水を分けた』とも言います。どちらが本当なのか、ずっと気になっていました」
「どちらも、嘘ではありません」
アルバロは、まっすぐにイサベルを見た。
「わたしはインディオを酷く働かせました。そのせいで病が広がったところもあります」
イサベルの指が、卓の端でわずかに動いた。
「でも、そこで初めて数を数えました。何人倒れ、何人が戻ってこなかったのか。だから、やり方を変えました。今は、去年より多くの人が生き残っています」
フアンがうなずいた。
「アルバロは、自分のしたことから逃げてはいない。それがありがたい」
イサベルは、弟の顔を見つめた。
以前はただの「無茶をする弟」だと思っていた。その弟が、今は自分の罪と数字を抱えたまま、こちらを見返している。
「……少し、見方が変わりましたわ」
彼女は、それだけ言った。
◇ ◇ ◇
その夜、おさまったはずの咳がぶり返し、子どもが熱を出した。
寝室では、乳母と侍女が慌ただしく立ち働いている。湯気と油の匂いが、布団の上にたちこめていた。
イサベルは、寝台の縁に座り、子どもの額に手を当てていた。
そこへ、戸口に影が立った。
「お義姉さま」
アルバロだった。
「廊下まで声が聞こえましたので。お加減は」
「少し熱があるだけです。お医者さまも呼びました」
イサベルは振り向かずに答えた。
「ここには、わたくしと乳母と、この子しかいません」
「それなら、まだ良かったです」
アルバロは、そっと部屋に入った。
「谷の病舎では、ひとつの小屋に十数人を寝かせていました。熱のある人も、斑点が出た人も、同じ空気を吸っていたのです」
彼は、寝台の反対側に回り込み、子どもの顔を見下ろした。
「だから病が止まりませんでした。窓を開けて、人を分けて、水を替えて……それだけで、少しずつ死ぬ人が減りました」
「ここでも、同じようにしたほうがいいのかしら」
「はい」
アルバロは、迷わずうなずいた。
「今夜は、この部屋に他の者を入れないでください。水はこまめに替えて、明日、布団を日に当てさせてください。それだけでも違います」
「そんなに簡単なことで、本当に変わるのですね」
「全部ではありません。でも、何も変えないより、ずっといいです」
イサベルは、子どもの髪を撫でながら、弟の横顔を見た。
彼の言う「病舎」と、この狭い寝室が重なった。谷で熱にうなされるインディオの子どもたちと、自分の子が、心の中で並んで横たわる。
「ラス・カサス様に糾弾されたとき、どんなお気持ちでしたの」
思わず、問いがこぼれた。
「ありがたいと思いました」
アルバロは、静かに答えた。
「告発されて初めて、自分がどれだけ人を壊しているか、数字ではっきり見えましたから。あの方が書いてくださらなかったら、わたしは今も棒だけ振っていたと思います」
イサベルは黙り込んだ。
弟は、自分の罪も、司祭への感謝も、同じ声で語っている。それが奇妙で、そして少し眩しかった。
◇ ◇ ◇
夜更け、子どもの熱は、ようやく少し下がった。
乳母にあとを任せて、イサベルは回廊に出た。庭から、湿った風が吹き込んでくる。
柱の陰から、誰かが歩み出た。
「お義姉さま」
アルバロだった。
「さきほどは、えらそうに口を出してしまいました。お気に障っていたら、おゆるしください」
「いいえ。あなたに言われなければ、寝具を干そうなど思いもしませんでした」
イサベルは、小さく笑った。
「インディオを虐げている、と噂で聞いたときは、正直、怖くなりました。夫の弟が、遠いところで何をしているのか分からなくて」
「怖がらせてしまったなら、すみません」
アルバロは、素直に頭を下げた。
「でも今は、少し違って見えます」
イサベルは、言葉を選んだ。
「罪を隠さず、そのうえで病舎を作って、水や便所の場所まで考える人だと分かったから」
「そう言っていただけるのは、うれしいです」
アルバロの声が、少しだけ柔らかくなった。
「わたしは善人ではありません。でも、お義姉さまの前で恥ずかしくないやり方で悪党でありたいとは、いつも思っています」
「変なことを言うのね」
イサベルは、くすりと笑った。
笑いながら、自分の胸が高鳴っているのを自覚していた。
「あなたは……ずっと、こんなふうに考えていたの」
「お義姉さまのことですか」
アルバロは、一歩近づいた。
「わたしはいつも、お義姉さまにだけは、良く見られたいと思っていました。子どものころから、ずっとです」
イサベルは、視線をそらせなくなった。
「アルバロ」
呼び捨てになっていることに、自分で驚いた。
「弟だと思っていました。でも、今は……」
「弟として見てくださるだけでも、うれしいです」
アルバロは、笑いながらも、目だけは真剣だった。
「それでももし、少しだけ違うふうにも見てくださるなら……」
言葉が途切れた。
彼の手が、そっとイサベルの頬に触れた。指先が震えているのを、彼女は感じた。
「お義姉さま。これ以上はやめろとおっしゃるなら、今、そう言ってください」
イサベルは、しばらく黙っていた。
夫の顔。子どもの寝顔。谷の病舎。ラス・カサスの黒い法衣。
いろいろなものが頭をよぎったが、唇から出た言葉は、別のものだった。
「……そんな顔で言われたら、止められません」
アルバロの喉が、小さく鳴った。
彼は、ゆっくりと顔を近づけた。
唇が触れた瞬間、イサベルの指が彼の袖をつかんだ。自分でも驚くほど、強く。
短い、けれど逃げないキスだった。
離れたあと、夜風が二人の間を通り抜けた。
「これは、罪ですね」
イサベルが、先に口を開いた。
「たぶんそうです」
アルバロは、苦笑した。
「でも、その裁きは神さまに任せます。わたしたちはただ、覚えておけばいいと思います。インディオの数と同じように」
「なにを覚えておくの」
「きょう、お義姉さまの子どもの熱が少し下がったことと……」
彼は、少しだけ視線を落とした。
「ここで、あなたの唇の温かさを知ってしまったことです」
イサベルは、思わず笑い、それから慌てて口元を押さえた。
笑いながら、自分がもう後戻りできない場所に足を踏み入れたことだけは、はっきりと分かっていた。




