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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第5章――「湖の鎖、石の秤」

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第25話(後編)――「湯気の卓、ほどける棘」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


―――――――――――――――――

 (1520年9月14日正午。センポアラ砦)

―――――――――――――――――


 砦の中庭には、海の匂いと火薬の匂いがまだ半分ずつ残っていた。焼けた縄の甘い焦げ、濡れた木の酸っぱい匂い、潮で硬くなった布の匂いが、昼の熱に押されてゆっくり立ち上がる。石畳の隙間には朝のしぶきが残り、踏むと靴底がきゅっと鳴った。


 捕虜の区画から女が2人だけ連れ出された。縄はほどかれているが、手首には麻の跡が赤い筋になって残っている。マリア・デ・クエリャル〈27〉と、カタリナ・スアレス・マルカイダ〈23〉だ。2人は歩幅を小さくし、周囲の視線を避けるように顎を引いた。鎧の擦れる音が、息づかいよりも大きく聞こえた。


 アルバロは中庭の陰に立っていた。胸当ては外し、白いシャツの袖を肘までまくっている。陽を受けた前腕は太く、指の節には砂と火薬の粉が薄く残っていた。彼は2人を見て言った。

「昼の食事を作ってほしい。ここで」


 2人の目が同時に上がった。命乞いの言葉が喉までせり上がり、そこで止まる。マリアが先にうなずき、カタリナも遅れてうなずいた。声を絞るように、カタリナが答えた。

「作ります」


 炊事小屋は砦の隅にあり、石のかまどが3つ並んでいた。薪の匂いが強く、鍋は黒く煤けている。桶には豆、乾燥肉、玉ねぎ、唐辛子、塩、見慣れない香草が少し。小麦粉も油も十分ではない。カタリナは棚を見て、顔を一瞬だけ曇らせた。


 マリアは深く息を吸い、手を動かし始めた。玉ねぎを刻む刃が、まな板を小刻みに打つ。白い汁が飛び、目が熱くなる。彼女は袖で拭い、泣いていると見られないよう顔を横へ向けた。


 カタリナは鍋に水を張り、豆を洗った。指の間から砂が落ちる。乾燥肉を指で裂くと、塩の匂いが立ち、舌の奥に海の味が戻った。彼女は小声で言った。

「キューバの味じゃなくて、スペインの味に寄せたいわ」

「寄せよう。あるもので」

 マリアも小さく返した。


 2人は、今あるものから故郷の形を作ろうとした。豆を煮て、玉ねぎを炒め、香草を刻む。唐辛子はほんの少しに抑え、辛さが先に立たないよう加減する。油が足りないぶん、肉の脂を丁寧に出す。湯気が上がると、塩と脂と玉ねぎが混ざった匂いが小屋いっぱいに広がり、胃が反射で動いた。


 アルバロは戸口に立ち、距離を詰めすぎずに見ていた。護衛は2人、槍を床へ立てている。石畳に穂先が触れ、かすかに擦れる音がした。アルバロは鍋の匂いを吸い、にこりと笑った。

「いい匂いだ。手際がいい」


 マリアの肩が一瞬だけ固くなった。包丁の動きがわずかに遅れ、次の刻みで取り戻す。アルバロの声には荒さがなく、言葉が丁寧に落ちてくる。彼は続けた。

「それに、お前たちは美しい。肌が透けるほど白い。久しぶりに見る色だ」


 カタリナは眉をひそめ、反射で返した。

「肌の色に感激するなんて、あなたも変わってる」

 アルバロは笑った。

「ここでは砂も煙も肌に残る。だからだ」


 マリアは包丁を置かずに言った。

「お願いです。夫を……夫を助けてください」

 言葉が途中で詰まり、喉が鳴った。鍋の湯気が目にしみるふりをして、彼女は顔を伏せた。


 アルバロはすぐ答えなかった。代わりに、マリアの手首を見た。麻の跡が赤く盛り上がっている。彼は護衛へ目を向け、布切れを持ってこさせた。布を彼女の前へ置く。

「巻け。熱い鍋に触る前に」


 マリアは驚いた顔のまま布を受け取った。触れた布は乾いていて、汗の匂いがしない。彼女は一度だけ息を整え、布を手首へ巻いた。顔を上げる。

「あなたは、もっと乱暴な人だと思ってた」

「乱暴は後でいくらでもできる。今は腹を満たす」

 アルバロはそう言って、同じ調子でうなずいた。


 鍋が煮立ち、泡が縁を叩く。カタリナが木杓子で混ぜると、豆が底から持ち上がり、香草が湯気に乗って広がる。マリアは乾燥肉を薄く切り、炙って皿に並べた。脂が落ち、火がぱちっと鳴る。焦げの匂いが一瞬だけ強くなり、鼻の奥をくすぐった。


 昼食は中庭の陰に置いた粗い木の卓で出された。豆の煮込みはとろみがつき、玉ねぎの甘みが立っている。肉は塩気が強いが、脂が口の中でほどける。カタリナが最後に香草を散らし、色を整えた。マリアは木皿を拭き、湯気で曇った指先を何度も擦った。


 アルバロは一口食べ、うなずいた。

「いい。懐かしい味だ。腹が落ち着く」

 マリアは恐る恐る言った。

「戦場の食事じゃありません。でも……私たちにできることは、これしか」

「十分だ」

 アルバロは首を振った。

「火を怖がらずに扱った。刃も鍋も。強い手だ」


 カタリナは半歩だけ姿勢をほどき、卓の端へ指を置いた。

「あなた、どんな言葉で育ったの。礼儀みたいに聞こえるのに、どこか違う」

「拾って生きてきた。礼儀は使いどころがある」

 アルバロはそう言い、椀を置く音を小さくした。


 マリアがもう一度、言葉を押し出した。

「夫は助かりますか」

 アルバロは硬い乾物を折り、噛んだ。噛む音が短く響く。

「助かるかどうかは、夫が何を差し出すかで決まる。だが、お前たちに恥をかかせるつもりはない」


 マリアの肩が、さっきより低く落ちた。息が長く吐けるようになり、布を巻いた手首を一度だけ撫でる。カタリナは鼻で短く笑った。

「泣き叫ぶ必要がないなんて、意外と分かってる」

「お前たちも分かってる。だから手が先に動いた」


 昼が進むにつれ、砦の外の音が遠のいた。鎖の擦れる音も、槍が石畳を打つ音も、日差しに薄まっていく。卓の上には湯気が残り、豆の匂いが衣へ染みた。マリアは一度だけアルバロの顔をまじまじ見た。若い。肩幅が広く、目が明るい。目つきが、相手を追い詰める角度を取らない。


 カタリナが口を尖らせて言った。

「そんなに褒めるなら、次は砂糖も出して。甘いものがないと、あなたの言葉だけが甘くて胸焼けする」

 マリアが思わず笑い、すぐ口を押さえた。笑った自分に驚いている。


 アルバロは楽しそうに目を細めた。

「胸焼けは困るな。褒め方を控えろと言うのか」

「控えられるなら、最初からしてるでしょう」

 カタリナは肩をすくめた。


 マリアの視線が、ほんの少しだけ逃げなくなった。カタリナの声にも、刺のある硬さが減る。捕虜であることは変わらない。それでも、昼の匂いが恐怖の匂いを押し返し、若くたくましい男の態度が、刃の代わりに場を整えていった。


 マリアは布を巻いた手首をそっと撫で、言った。

「あなたが私たちを道具みたいに扱わないのなら。私たちも、あなたを怪物みたいには扱わない」

 アルバロはうなずいた。

「それでいい。まずは昼を終える。次は話をする」


 食器を下げるころ、2人の目から最初の濁りが薄くなっていた。湯気の向こうで、アルバロの影が少しやわらかく見えた。


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