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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第5章――「湖の鎖、石の秤」

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第25話(前編)――「白旗の輪、潮煙の甲板」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


―――――――――――――――――

 (1520年9月14日朝。センポアラ沖)

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 センポアラの港は、朝の冷えがまだ石に残っていた。潮の匂いに干し魚の生臭さが混じり、船底のタールが甘く焦げた匂いを立てる。砂浜では見張りが交代し、矢束は布で覆われ、火縄と火薬壺は手の届く位置へ寄せられていた。父とルイスは港の奥の小屋へ移し、入口には黒人兵が2人、無言で立っている。海からの風は湿り、唇に塩が残った。


 タバスコ河口のポトンチャンから来たプトゥン人の使いは、濡れた髪を額に貼りつけたまま浜へ駆け込み、息を切らして告げた。

「スペインの船が沖を通り、西へ向かっている」

 言葉の終わりは波に削られた。アルバロは短くうなずき、合図の貝を鳴らさせた。乾いた高音が港の空気を割り、兵の手が一斉に動いた。


 沖合には50隻が散っていた。帆は落とし気味で、船体の影を海の色に沈めている。各船に大砲2門。砲口の縁は油で光り、点火孔の周りは布で守られていた。砲丸は丸く削った石弾が山になり、鉄弾は木箱の中で冷たく重い。縄は締め直され、火縄の先は指先で確かめられる。手袋越しにも火薬の粉がざらりと分かった。


 昼前、水平線の上に白い帆が浮いた。風は相手に有利らしく、帆が膨らみ、船腹が軽く波を切って近づく。遠目には旅の船団に見えるが、距離が詰まるほど、アルバロの船が描く輪が狭まっていった。


 合図旗が上がった直後、最初の砲声が腹まで届いた。胸の奥が一瞬しびれ、白い煙が甲板を這う。硫黄と焦げ布の匂いが喉を刺した。石弾が海へ突き刺さるたび水柱が立ち、塩の飛沫が顔を叩く。鉄弾は音が違う。短い唸りが耳を打ち、次の瞬間、敵船の舷側が裂けて木片が散った。飛び散った破片が水面に落ちる音が、遅れてぱらぱら続いた。


 スペイン船団は遅れて気づいた。帆を回し、舵を切り、隊形を崩して逃げようとするが、どの方向にも砲口が向いていた。集中砲火でロープが切れ、帆が垂れ、マストが軋む。甲板の上の人影は転び、叫び声は風でちぎれて波に飲まれた。5隻は沈みかけ、船腹が傾いて海水が荷室へ流れ込み、積荷がごとごと鳴った。水を吸った木材の匂いが、煙に混じって重くなる。


 やがて、白い布が上がった。旗竿の先で弱々しく揺れ、煙の中で汚れて見える。砲声が止むと、耳の奥に残った鈍い響きが目立った。海面には砲煙が薄く引きちぎられ、油と火薬の匂いだけが残っていた。


 アルバロは旗艦の舳先から敵船へ移った。揺れは小さいが、足裏に伝わる木の震えが違う。乗り込んだ瞬間、鼻を打ったのは血と汗と吐瀉の匂いだった。濡れた帆布は酸っぱく、床板は湿って靴底が滑る。通路に押し込まれた人々は声を出さずに肩で息をし、帽子、割れた陶器、濡れた羊皮紙が散っていた。踏めば紙が靴に貼りつく。


 武器を捨てろと通訳が叫ぶ前に、すでに手は上がっていた。震える指先が空を向き、膝が甲板に当たって鈍い音を立てる。幹部は中央へ集められ、顔を上げられない者と、意地で視線を逸らさない者が混じっていた。


 まず前へ押し出されたのは、55歳のディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルだった。上着の金具は煤でくすんでいるのに、目だけが乾いていて瞬きが少ない。脇に、外套を握りしめた27歳の妻マリア・デ・クエリャルが立たされている。口元は固く結ばれ、胸の上下が早い。


 提督の側には、47歳のパンフィロ・デ・ナルバエスがいた。頬の傷が乾ききらず、塩で白くなっている。隣に36歳のフアン・デ・グリハルバが立たされ、肩で息をしながらも、甲板の端と海の距離を何度も確かめるように視線を動かした。


 列の端に、別の一団がいた。34歳のエルナン・コルテスだ。縛り縄の跡を気にするように手首を一度だけねじり、すぐ動きを止めた。背後に、髪を乱しながらも姿勢を崩さない23歳の妻カタリナ・スアレス・マルカイダがいる。彼女は視線を落とし、濡れた板の上で靴先だけを何度も置き直していた。


 捕虜は幹部だけではなかった。甲板の隅には女が数人、腰を落としたまま動けずにいて、兵に促されて立ち上がるたび、濡れた布が肌に貼りつく音がした。若い従者が十字を切り、隣の男は唇を噛んで血をにじませた。海は静かに見えても、船体の下では波が腹を叩き続け、板の継ぎ目からしぶきが上がった。


 アルバロは通訳の声を一度止めさせ、マリアの手首の縄を見た。濡れた麻が皮膚に食い込み、赤い筋が走っている。彼は目線だけで合図し、縄の下へ布切れを噛ませた。女の息が一度だけ整い、顎がわずかに上がった。


 アルバロは一人ずつ見て、短く命じた。縛れ。同伴の女は離すな。港へ戻る。命令は淡々としていたが、火薬の粉が靴に貼りつき、舌に苦い味が残る。遠くのセンポアラの浜では見張りの槍先が光り、捕縛の列が動き出すと鎖の音が潮騒に混ざった。波の音が、さっきより少し重く聞こえた。

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