第24話(後編)――「潮の白、合図の火」
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(1520年9月7日朝。センポアラ族長の家)
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夜の熱が草屋根に残り、朝の霧が町へ流れ込んでいた。松明の脂の匂いは消え、湿った土と塩の匂いが鼻に来る。外では鶏が短く鳴き、浜のほうで木槌が乾いた音を打っていた。舟の腹を叩いて水を落としている音だ。
アルバロは寝台の端に腰を掛け、革袋の口を締め直した。眠りは浅い。海の町では、沈黙の奥に波の気配が混じる。都の夜とは質が違う。
布の擦れる音がして、シトラリが起きた。髪をまとめ、飾りを減らしている。目の下に影はあるが、足取りは乱れていない。
「港をご案内いたします」
シトラリはそう言い、戸口の外を見た。霧の白さが草屋根の縁に溜まり、息が冷える。
浜へ出る道は平らだったが、歩くたび足裏に砂が入り、薄い泥が絡んだ。潮が引き切る前の地面は湿って重い匂いを立てる。シトラリが指で示すと、黒い藻が帯になって残っていた。踏めば滑る場所だ。彼女は昔話を繰り返さない。視線と指先で、危ないところだけを外させた。
港には人がいた。縄を操る手、魚を捌く刃、桶を運ぶ肩。声は多いのに、霧のせいで全部が近く聞こえる。舟は小さく、数だけは揃っていた。帆を立てる舟もあるが、遠海を渡る造りではない。
アルバロは舟の腹板の継ぎ目を見た。粗い仕事だ。海は急ぎを許すが、嘘は許さない。
「この舟じゃ、キューバまでは無理だな」
独り言に近い声だった。だがシトラリはすぐ頷いた。
「沖は深いのでございます。風も急に変わります」
浜の端に立つ男が、霧の向こうへ目を凝らしていた。アルバロが近づくと男は一礼し、現地語で短く状況を告げた。潮の息が一度弱まる刻、沖の色、鳥の飛び方。
アルバロは必要なところだけ拾い、現地語で一語返した。
「……ツァカン」
男の眉がわずかに上がった。潮が切り替わる前の、あの一瞬の止まりを指す呼び名だ。よそ者の口からその言葉が出た。それだけで、霧の中の距離が少し縮んだ。
アルバロは浜から町を見返した。倉がある。井戸がある。人が集まり、物が集まり、噂が集まる。スペイン軍が最初に欲しがる足場は、こういう場所だ。ここに椅子を置かせれば、彼らは上陸ではなく居座りに変える。そうなれば戦いは長引く。
「族長に会う」
シトラリが先に歩き、族長の家へ戻った。霧はまだ薄いままだが、家の中には昼の仕事の匂いが入り始めていた。油、香草、焼いた魚の残り香。
族長はすぐに姿を現した。いつもは笑いが先に出る男だが、今朝は目が硬い。港の空気を嗅いでいる顔だ。
「海の町は早いな」
アルバロが言うと、族長は肩をすくめた。
「海は潮が合わねば舟が出せぬ。だが山の都は、昔は舟が出ようが出まいが貢ぎを急がせた。……お前が主になった今も、同じか」
苛立ちの奥に、長い諦めが混じっている。
アルバロは膳の前に座らず、族長の目を外さなかった。
「同じにはしない」
言い切ってから、間を置いた。怒りを抑える間ではない。言葉を軽くしないための間だ。
「潮が合わない日に舟を出せば、荷が傷む。傷んだ荷を都へ運んでも、誰も得をしない。昔の帳面の取り立ては、それを見ない顔をした」
アルバロは机の縁を指先で叩いた。乾いた音が1つだけ鳴る。
「期日は潮で決める。遅れるなら、遅れると先に知らせろ。『ツァカン』の刻に無理はさせない。その代わり、港が息をした分だけ、見張りと倉を固める」
「塩と乾物は、まずこの町の腹に残せ。必要な分は俺が買う。買い値も俺が決める」
族長の顔の硬さが、少しだけほどけた。
「俺が欲しいのは帳面の数字じゃない。沖の色を見て、鳥の飛び方を見て、舟を生かして戻す手だ。ここが倒れれば、海から来る連中は座り込む。だから港の都合を先にする」
◇ ◇ ◇
アルバロは声の調子を変え、用件だけを族長に渡した。
「海から来る連中がいる。島の提督だ。俺がスペインに連絡しないのを口実に、兵を送ってくる」
族長の顔から笑いが落ちた。
「ここへ来るのか」
「来る。来させる前に、ここを固める」
アルバロは指を2本立てた。
「浜に見張りを増やす。昼と夜で交代だ。合図は煙と火にする。町の内側へ入ってから鳴らすな。沖で見えた瞬間に上げろ」
族長が何か言いかけたが、アルバロは止めずに続けた。
「倉と井戸は守るためにあるんじゃない。渡さないためにある。米と塩と乾物は今のうちに分けて、隠し場所を作れ。舟も同じだ。浜に並べて見せるな」
族長の舌が短く鳴った。渋い同意だった。
「都から兵は来ぬのか」
「都は弟のルイスが押さえている。俺は海を折る」
役目を割るだけだ。混ぜれば両方が腐る。
アルバロは手招きで書記を呼んだ。スペイン語が書ける男だ。紙も蝋も十分ではないが、短い命令なら形は何でもいい。紙を折り、布で包み、紐で縛る。封は蝋の代わりに、刻印入りの小さな金具を噛ませる。受け取る側が偽りを見抜ける印になる。
書記が羽根を構えると、アルバロは口で命令を置いた。
「タバスコのガルシア宛。父上へ。センポアラへ来い。船と食糧と矢と油を持て。沿岸を北へ。合流は海に近い川口。黒人奴隷の副長官ルイスも同行。敵が海で形になる前に、ここで折る。以上」
書記が書き終える前に、アルバロはもう1つだけ足した。
「急げ。だが雑に急ぐな。途中で船を壊すな。浜の村で無駄に揉めるな。必要なら金を払え。払うほうが早い」
族長がその言葉に目を細めた。支配の話ではない。体面の話でもない。生き残る話だ。
アルバロは使者を選んだ。足の速い若者ではない。顔を覚えられにくい男だ。波の匂いを知っていて、黙って耐えられる男。族長が1人を指名し、シトラリはその肩の癖を見て頷いた。
「道の途中で捕まるかもしれぬ」
族長が言う。
「捕まる前提で渡す」
アルバロは包みのほかに、小さな木札を渡した。表には刻印、裏には現地語で短い言葉。父ガルシアが読めなくても、副長官ルイスが読めるようにしてある。
「この木札が残っていれば、伝わったと見なす。木札が戻らなければ、俺のほうで別の手を打つ」
言い終えた瞬間、家の外で鳥が騒いだ。霧の下で、海の音が一度だけ強くなる。潮が変わり始めた合図だった。
アルバロは立ち上がり、族長と視線を合わせた。
「お前の町を、島の連中の椅子にさせない」
族長は笑わなかった。だが頷きは深かった。
家を出ると、霧が少し薄くなっていた。浜のほうで男たちが柱を立て始めている。見張り台だ。木の匂いが新しく、削り屑が風に舞う。
シトラリが小さく息を吐いた。
「港の音が止まらなくて済みますでしょうか」
アルバロは答えを急がなかった。保証の言葉は軽い。代わりに、港へ向かう男たちの背を見て言った。
「止めさせない」
霧の向こうで潮が引く音が続いている。海は待たない。だから先に、待つ場所を決める。センポアラが今日から、その場所になる。




