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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第5章――「湖の鎖、石の秤」

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第24話(前編)――「塩の夜、港の話」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


―――――――――――――――――

 (1520年9月6日夜。センポアラ族長の家)

―――――――――――――――――


 族長の家は、石の都の屋敷とは別の生き物だ。屋根は乾いた草と椰子の葉で厚く編まれ、梁の隙間から夜気がゆっくり呼吸している。入口の土は昼の熱をまだ抱き、裸足で踏めばぬるい。奥では松明が脂を落とし、甘い樹脂の香が煙になって天井へ溜まっていた。外からは波の砕ける鈍い音が届き、潮の匂いがときどき風に混じって室内へ入ってくる。ここは森の中ではない。海が近い町だ。センポアラは、海から吹く風と塩の匂いのする港町だと、彼はすでに聞いていた。


 膳は低く、円く、皿が幾つも並ぶ。焼いた魚の皮がぱちぱちと裂け、香草と油の匂いが立つ。煮豆は塩が強く、舌に残るざらつきが、海の町の食だと教える。蒸したとうもろこしは甘い湯気を上げ、喉の奥まで温かい。族長は笑いながら器を差し出し、濃いカカオの杯を勧めた。苦味の奥に、炒った香がある。アルバロは礼を返し、杯を受け、ひと口だけ含んだ。粘りが舌を押し返し、香が鼻の奥へ残った。


 宴の途中、族長が視線で合図すると、若い妾が静かに現れた。飾りの羽根が揺れ、肌には香油の匂いが薄く漂う。差し出されたものの意味は明白で、拒めば相手の顔を潰す。しかしアルバロは、杯を置き、言葉を選んだ。短く、穏やかに、感謝を先に置く。ここで欲を受け取れば、町の善意を借りに変えてしまう。今夜、彼が呼びたい名は別にあった。


 「今夜は、シトラリ〈20〉を」


 族長の眉がわずかに動き、次いで笑みが戻る。妾は伏し目のまま退き、代わりに、足音が近づく気配がした。土を踏む音は軽いが、迷いの重さが混じっている。


 シトラリが入ってきた。灯りに照らされると、瞳の奥が暗く光った。彼女は派手に飾らない。けれど、首筋や指先の動きに、都で身についた慎重さが残っている。寝所の前まで来て一礼し、顔を上げた瞬間、潮風がまた吹き込んだ。髪が頬に触れ、塩の匂いが近くなる。


 「ここが、あなたの町か」


 アルバロが言うと、シトラリは一瞬だけ口を結んだ。懐かしさが先に来るのか、痛みが先に来るのか、どちらとも決めない顔だ。やがて彼女は、拙いスペイン語ではなく、慣れた現地語で口を開いた。アルバロはそれを、そのまま受け取れる。


 「海が近いのでございます。朝は白い霧が出ます。潮が引きますと、浜に黒い藻が残ります。子どもの頃は、それを踏みますと滑って転びました。港には魚と塩が集まります。綿布も来ますし、山の方々が降りてきて、石の刃や翡翠を持って来ます。夕方になりますと、鳥がいっせいに鳴いて、匂いが変わります。昼の油と煙が薄れて、海の匂いだけが強くなります」


 語りは、景色を連れてくる。彼女の言葉の端で、波が砕け、木の葉が擦れ、土壁がゆっくり冷えていく。アルバロは寝台の端に座り、彼女を隣に呼んだ。敷かれた木綿の布はざらつき、肩に触れると意外に温かい。シトラリの指先が布の端をつまみ、無意識に撫でた。町の布の触感を思い出しているのかもしれない。


 「山の都の方々は、海をご存じありません。こちらは海があるのに、息が詰まります。貢ぎ物の数を言われますと、港の音が止まります」


 シトラリがそこまで言ったところで、アルバロが現地語で一語だけ返した。港の男たちが、潮が止まって水が重くなる刻を呼ぶ名だ。発音は、漁師の口と同じだった。


 「……ツァカン」


 シトラリの目がわずかに動く。驚きでも誇りでもなく、確認だ。彼が本当にこの町の息を知っているかどうかを、喉の奥で確かめるような間が落ちた。アルバロはそれ以上を言わず、ただ頷いた。距離が縮んだのは腕ではない。言葉の節で、彼女の中の警戒が1枚だけ薄くなった。


 「男たちは舟を出しても、戻ってくると目が死にます。捕まれば……戻りません」


 その言い方だけで、彼女が何を見てきたかが分かる。彼女の先夫は、センポアラの戦士で、アステカに捕らえられた捕虜のひとりだった。祭りの日、いの一番に生け贄にされ、その儀式をとり仕切り、胸を裂く合図を出したのは神官副長官オメナワだった。炎と血の匂いの中で、彼女の内側に何かが凍りついたまま残った、と周囲は語っていた。


 アルバロは、彼女の言葉が途切れた隙に、手を伸ばして髪を撫でた。塩気が微かに指に移る。彼女は拒まない。ただ、目を閉じない。瞼を閉じれば、別の夜が戻ってくるのだろう。


 「ここに戻って、どう感じる」


 「……匂いが同じでございます。ですから、失ったものが余計に分かります」


 声は小さいが、言い切る。彼女は多くを語らない女だ。事情は彼女の口からではなく、周囲の者たちから少しずつ漏れ聞こえてきた。夫を奪われ、都へ引きずられ、やがてオメナワの妻になり、最後にはアルバロの前に立って彼を告発した。その決断の根にあるのは、怒りの量ではない。向きと深さだと、アルバロは理解している。


 彼女がオメナワを裏切ってまで口を開いた理由を、アルバロはずっと測っていた。復讐だけではない。生き残るための計算だけでもない。彼女は、寝所で聞いたささやきを、胸の奥に残したまま持ち続ける女だ。先王イツコアトルの宮殿のどこかに財宝が眠っている。オメナワが誰に聞かせるともなく漏らした言葉を、彼女は消さなかった。


 「センポアラは、これからどうなる」


 シトラリは松明の火を見た。火は赤い。だが、海の匂いがあるせいで、都の火より生きている。彼女は唇を湿らせ、言った。


 「ここは港でございます。人が集まります。物も集まります。ですから、傷も早く見えます。アルバロさまが生け贄を止めてくださったなら、港の人間がいちばん先に息をします。山の都の話が変わる前に、海の町から変わるはずでございます。たぶん……そう思います」


 その言い方は祈りではない。生活の勘だ。アルバロは頷き、彼女の肩を引き寄せた。肌は冷えていたが、しばらくすると、火の熱と人の熱が布の下で混ざった。外では波が途切れず、遠い犬の声が一度だけ鳴いた。


 今夜、族長が差し出したものを拒んだのは、清廉のためではない。彼はこの町を、彼女の匂いと声で受け取りたかった。潮風の中で、失われた名を呼び直すのではなく、生きている女を呼び、同じ夜を別の形で結び直したかった。


 シトラリは最後まで、目を閉じるのを急がなかった。だが、アルバロの手が背を撫で続けるうち、肩の力がほんの少し抜けた。眠りに落ちる直前、彼女が小さく呟いた。


 「朝になりましたら、港をご案内いたします。潮の引く浜もお見せします。匂いが一番強くなる時刻がございます」


 アルバロは「分かった」とだけ返し、灯りを落とした。闇が来ても、海の匂いは消えない。センポアラの夜は、塩の粒を含んだまま、ふたりの息の間を静かに流れ続けた。


――――――――――――――――――

 脚注:センポアラ(Cempoala/Zempoala)は、メキシコ湾岸の現ベラクルス州(ウールスロ・ガルバン一帯)にあるトトナカ系の大きな都(遺跡)で、アクトパン川から約1km、海岸から約6kmの平野に立地する。後古典期にはメシーカ(アステカ)の勢力下で貢納の集積拠点ともなり、1519年にコルテスが「太った族長」と会見して同盟を結んだことで、対テノチティトラン戦の最初期の重要な足場になった。地名はナワトル語で「20の水の場所」などに由来するとされる。

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