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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第5章――「湖の鎖、石の秤」

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第23話(後編)――「湿り気の噂、潮へ降りる」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


―――――――――――――――――

 (1520年9月4日。ハラーパ→下り坂の始まり)

―――――――――――――――――


 空気が変わる。冷えが薄れ、皮膚に湿り気が貼りつく。虫の羽音が増え、草の匂いが甘くなる。山から海へ、世界が滑っていく。


 この日、襲撃はなかった。その代わり、視線があった。畑の端、木の陰、川向こう。見られている。だが出てこない。


 アルバロは笑って手を振る。敵意ではなく、余裕を見せるためだ。


 昼、村の長が出てきた。贈り物は小さな籠。中身は唐辛子と乾いた魚。海が近い証拠だ。


 アルバロは長の前で、昨日の『誓った男』を呼び出した。手首の縄はもうない。顔の泥も落ちている。


 「帰れ。村へ戻って言え。刃を捨てて膝をつけば、生きる。刃を振れば、死ぬ」


 男は何度も頷き、土を蹴って走り出した。背中が小さくなっていく。その背中が、村々に先に届く。恐怖と同じ速度で。いや、恐怖より速い。恐怖は足を止めるが、逃げる噂は足を使う。


 夜、カカオ飲料の泡がいつもより立つ。マリナルが泡をうまく作ったからだ。ショチトルが気づき、器の持ち方を少しだけ変えて『自分の方が先に渡せる』角度を作る。


 アヤウィトルは、その器の縁に指を添えて、わざと泡をこぼした。


 「すみません」


 声は可愛い。だが目は挑戦だ。


 チマリは何も言わず、こぼれた泡を布で拭き取り、床に染みを残さない。争いの跡も残さない。イトツィは器を取り替え、アルバロの手が濡れないように差し出す。


 女同士の戦は、血が出ない場所で始まる。


 この夜、アルバロはイトツィを呼んだ。呼ぶ前に、彼女の足元の冷えを見て、毛布をもう1枚投げた。イトツィは泣かないで受け取った。泣けば弱みになる。笑えば嘘になる。だから黙って頷いた。


―――――――――――――――――

 (1520年9月5日。低地の道→センポアラ街道)

―――――――――――――――――


 朝、土の匂いが重い。湿った黒土に、腐った葉の甘さが混じる。汗が乾かない。鎧の下がぬるく、気持ちが悪い。


 ここで襲撃が来た。今度は『道』そのものだ。倒木で狭め、脇の茂みから一斉に矢。


 アルバロは最初の矢が飛ぶ前に気づいていた。鳥が黙り、虫の音が急に遠のいた。静かすぎる静けさがあった。


 「火を入れろ」


 火縄銃の音が連なり、茂みの中で悲鳴が跳ねる。次に、騎馬隊が横から回り込み、蹄で地面を叩いて逃げ道を潰す。


 その『潰し方』が早い。左翼は倒木の外側へ走って谷口を押さえ、右翼は逆側の藪を踏み割って退路の幅を奪う。騎馬は斜めに切り込んで逃げる群れを道へ押し戻し、歩兵が槍で受け止める。逃げ足が折れた瞬間に、残りは石も矢も投げ捨てて散る。


 戦は短い。短く終わらせるから、列は崩れない。列が崩れないから、次の襲撃も育たない。


 捕えた者の中に『扇動役』がいた。飾り羽の多い男だ。声が大きく、目が落ち着かず、周りを煽る癖が顔に出ている。


 アルバロは迷わず、その場で処した。刃が入る瞬間、羽が風に散った。色だけが派手で、命は軽い。反乱は見せしめが要る。『反乱を起こす者は皆殺し』という言葉を、血の匂いに変えて残す。


 だが、同じ集団の中で膝をつき、額を土に押しつけた者には、水を与えた。


 「今日からは俺の言葉で生きろ」


 水は喉を潤すだけではない。赦しの味が混じる。赦しを受けた者は、次の村で『赦された話』をする。恐怖は消えず、形を変えて広がる。


 夜、女たちは負傷者の手当てをする。チマリの手は迷いがない。布の裂き方、結び方、火の近づけ方が、家の運営そのものだ。


 ショチトルは水の配分を崩さない。アヤウィトルは痛みで暴れる兵の肩を、笑いながら押さえつける。マリナルは火を弱くし、煙を減らして目を守る。イトツィは傷の洗い水を何度も替え、誰にも言わずに自分の腰の痛みを飲み込んだ。役に立つことが、彼女の命綱だ。


 天幕の外で、ショチトルとアヤウィトルが同時に同じ器へ手を伸ばし、指先が触れた。触れた瞬間だけ、互いの温度が分かる。次の瞬間、2人とも笑って手を引く。


 笑いは明るい。だがその明るさは、刃を隠すための布だ。


―――――――――――――――――

 (1520年9月6日。センポアラ到着)

―――――――――――――――――


 朝、潮の匂いが混じる。まだ海は見えないのに、風が塩を運んでくる。鳥の声が変わり、虫の鳴き方が軽くなる。


 道端の草が濃く、葉が大きい。踏めば水が出る。高原の乾いた世界が、もう遠い。


 センポアラの手前で、使者が来た。白い布を掲げ、籠を捧げ、言葉を低く並べる。


 使者の唇は乾いて割れ、喉が鳴るのを堪えるみたいに何度も唾を飲み込んだ。籠の縁を持つ指が震えて、籠の中の乾いた魚がかすかに擦れる音がする。背後の護衛は2人だけで、槍の穂先を上げたまま、視線だけは森と隊列の数を往復している。逃げる算段を残した目だ。


 アルバロは頷き、兵に合図した。列の緊張を解かせる合図だ。


 「賢いな。生き残り方を知っている」


 その声に、使者の肩がわずかに落ちた。だが安堵が全部ではない。門の向こうで誰がこの籠を用意し、どれだけの量なら通るのかを計っている。通すなら通すで、今度は『見返り』をどう小さく済ませるかを考えている。恐怖は消えず、形を変えて計算に収まる。


 アルバロは笑って、その計算ごと包む。兵の視線が硬いままでも、声だけは明るい。馬上の男が笑うと、周りも笑っていいのだと錯覚する。錯覚は統治の道具になる。


 女たちも笑う。ショチトルが先に笑い、アヤウィトルが負けじと笑い、マリナルが大きく笑い、チマリは口元だけで笑い、イトツィは遅れて笑う。笑いの順番にすら、小さな争いが潜む。


 町に入る直前、アルバロは馬上から女たちを見た。


 「ここから先は、敵も味方も増える。お前たちはよくやっている。俺のそばで、同じ顔をしていろ」


 女たちは頷く。忠誠の頷きだ。


 ただし同時に、それぞれが胸の中で別の計算もしている。今夜、名を呼ばれるのは誰か。名を呼ばれない夜を、どう耐えるか。


 センポアラの湿った風が、焚き火の匂いと、カカオの苦みと、女たちの香油をひとつに混ぜた。甘さは、戦の後にだけ残る。


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