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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第5章――「湖の鎖、石の秤」

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第23話(前編)――「乾いた高地、最初の影」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


 (1520年9月1日。トラスカラ→ソコトラ)


 朝の空気は乾いている。息は軽いが、鼻の奥が少し痛む。標高の冷えが石壁に残り、吐く息が薄く白い。鞍の革は夜露で硬く、指で押すと小さく鳴いた。


 隊列が動き出すと、蹄が砂利を噛み、荷駄の鈴が遠くで揺れた。ラバの鼻息は短く、汗の匂いはまだ薄い。


 アルバロは馬上で列を見渡し、命じた。


 「斥候を前へ出せ。左右にも小隊を張れ。荷駄は中央に寄せる。遅れる者を出すな。置き去りが出た瞬間、そこが敵の狙いどころになる」


 ショチトルは隊の端で、水袋の口を布で拭いた。拭き方が几帳面で、布の端が真っすぐそろう。水袋を結ぶ紐も、きつすぎず緩すぎず、同じ力で締める。


 アヤウィトルは早い。鍋を抱えても歩調が乱れず、目だけで周りの兵の喉の乾きを数える。立ち止まらずに塩の袋を確かめ、足りないと見れば黙って誰かの腰から小袋を引き取る。奪うのではなく、交換の仕草で済ませる。


 チマリは女と子の数を先に数え、足りない毛布を黙って引き寄せる。誰が寒がりかを覚えていて、毛布の厚さを配り替える。声を荒らげないのに、周りが従う。


 マリナルは火の扱いが上手い。湿った薪でも芯を見つけ、煙を少なくして火を立てる。火種を守る手つきが、宝を守るみたいに慎重だ。


 イトツィは産後の身体を隠すように腰布を締め直し、笑う練習みたいな顔で周りを安心させた。歩幅を小さくしても列の速度から落ちない位置を選び、誰かの背中が濡れていれば布をそっと差し出す。


 女たちは皆、アルバロに忠誠を誓っている。忠誠は言葉だけで終わらず、指先の仕事に落ちる。湯の量、塩の匙、火の近さ、布の畳み方。列の中で起きる小さな不満が、顔に出る前に消える。消し方が、それぞれ違うだけだ。


 昼、ソコトラへ向かう道の途中で、最初の影が動いた。岩場の上、松の陰から石が落ちてくる。狙いは人ではない。荷駄の足だ。


 「止まるな」


 アルバロの声が乾いた空気を割る。


 弩兵が上を向き、短い矢が木の葉を裂く音がする。続けて火縄銃の破裂音が1度、山に跳ね返って、耳の奥に残った。


 影は岩の陰へ引いた。連中の狙いは勝利ではなく、荷駄を止めさせて列を乱し、遅れた獲物だけを奪って逃げることだった。こちらが慌てて足を止め、上を見上げ、叫び声と混乱で隊形がほどける。その瞬間に石や矢を増やし、奪えるだけ奪って森へ消える。そういう段取りで動いていた。


 だが火縄銃の破裂音が1発、山に跳ね返った。音は大きさだけで襲う。ここに鉄と火がある、撃ち返す準備が最初から整っている、合図ひとつで次が続く。そう悟らせる。


 その直後、左右に張った小隊が動いた。左は尾根の鞍部へ走って出口を塞ぎ、右は谷へ回り込んで退き道の幅を奪う。逃げ足の速い者ほど、狭い口へ吸い込まれる。そこで矢が落ち、石を抱えた腕が止まった。


 反射的に肩がすくみ、仲間の声が聞こえなくなり、次の投石の間合いも狂う。計算していたのは『こちらが鈍る時間』だったのに、あの音で逆に自分たちの手足が止まった。だから影は一瞬で散った。


 追撃はしない。追えば列が伸びる。列が伸びれば、次の影が刺す。アルバロはそこを揺らがせない。


 ◇ ◇ ◇


 夕刻、野営。焚き火の匂いに、焦げたトウモロコシの甘さが混じる。湯が沸く音は小さく、釜の縁に泡が薄く張る。女たちは湯を回し、塩を惜しまず入れる。汗の戻り方が変わるからだ。


 カカオ飲料は小さな器で回った。泡の苦みが舌に張りつき、喉の奥が締まる。甘くはないのに、飲むと気持ちが静かになる。


 アルバロは器を受け取るたび、女の名を呼んだ。短く、同じ調子でだ。誰かだけを長く見ない。誰かだけを冷たくしない。公平は情けではなく、隊列を揺らさないための技術だ。


 夜、アルバロの天幕へ最初に入ったのはショチトルだった。誰も何も言わない。ただ、外の闇でアヤウィトルの爪が、腰布の端をきゅっとつまんでほどくのが見えた。火花は声にならない。


 マリナルは火を落とす前に、香油の栓を確かめた。匂いを強くしない。だが、残り香が髪に一筋残るくらいに留める。チマリは笑わないまま、他の女が冷えない位置へ毛布を押し込んだ。イトツィは遠い闇を見ないように、器を洗う水の音を聞いていた。


 5人とも、呼ばれる夜を望んでいる。望みは同じでも、手段が違う。


―――――――――――――――――

 (1520年9月2日。ソコトラ→ハラーパ方面の坂道)

―――――――――――――――――


 朝は霧が出た。湿り気が髪にまとわりつき、鎧の金具に冷たい水滴が生まれる。昨日まで乾いていた世界が、急に肌へ寄ってくる。


 霧は音を食う。馬の息づかいが近く、革の擦れがやけに大きい。湿った土は足を取る。列が乱れやすい朝だ。


 女たちは霧の中で互いを見失わないよう、声を小さく交わす。ショチトルの声は丸い。アヤウィトルの声は鋭い。チマリの声は短い。マリナルの声は笑いを混ぜる。イトツィは一拍遅れてから、誰かの真似をするように同じ調子で返す。


 昼前、襲撃が来た。今度は矢だ。草むらから、低い角度で飛んでくる。狙いが分かる。馬の腹、荷駄の首、人のふくらはぎ。


 「前へ。追うな。囲え」


 アルバロは追撃を切り、包囲だけを作らせた。逃げ道を1つ残す。残せば敵はそこへ走る。そこに火縄銃を待たせてある。


 銃声が霧を裂き、矢が止まった。森が静かになる静けさが、逆に怖い。


 捕えられた3人が引きずられてきた。若い。目が燃えている。言葉より先に唾を吐いた。


 アルバロは馬上から降りない。視線だけで順番を決める。


 「反乱は終わりだ。ここで終わらせる」


 通訳が意味を運ぶ前に、兵の手が動く。短い叫びが2つ、すぐ消える。血の匂いが霧に混じって湿り、鼻の奥へ重く残った。


 残った1人の膝が崩れ、土の匂いに顔を埋めた。


 「恭順を誓え。誓うなら生きろ」


 その男は泣き声を飲み込み、頷いた。アルバロは水を投げ与え、縄をほどかせた。『恭順』は見せる必要がある。斬るのも見せるが、赦すのも見せる。


 夕刻、村から食い物が出た。蒸したタマルの湯気が甘く、唐辛子の香りが鼻の奥へ刺さる。アルバロは供出の量を増やさせない。代わりに布と塩を渡す。恐怖だけで支配すると、次の坂でまた刺されるのを知っている。


 夜。天幕の外で、マリナルが香油を少しだけ髪に塗った。甘い匂いが火の煙に混じり、アヤウィトルが気づいて目だけで笑った。笑い方が、刃の形をしていた。


 この夜、アルバロはアヤウィトルを呼んだ。呼ぶ前に、ショチトルの手に短く触れた。『明日』の約束を口にしないまま、指先だけで残す。


 呼ばれない夜は、呼ばれた夜より長い。


―――――――――――――――――

 (1520年9月3日。霧の森→ハラーパ外れ)

―――――――――――――――――


 朝、鳥の声が近い。湿った森は音を抱え込み、槍の穂先が葉に触れるたび、しっとりした擦れ音がする。


 イトツィは胸元を押さえてから、何もなかった顔を作った。乳の匂いが自分に残っているのを、彼女だけが知っている。置いてきた赤子の顔が、霧の中で何度も浮かぶ。それでも彼女は隊の水袋の残りを確認し、女たちに分ける役を引き受けた。生き残りたいからだ。生き残るなら、役に立つしかない。


 昼、ハラーパの外れで、別の『抵抗』が来た。槍も矢もない。石と棒だけだ。背後には女と子がいる。男たちは、勇気ではなく絶望で前へ出ている。


 アルバロは顔をしかめない。むしろ笑ってみせる。


 「降ろせ。殺す必要があるのは、引き金を引くやつだけだ」


 騎馬隊が前に出て、蹄の音を見せつける。土が跳ね、馬の汗の匂いが熱く立つ。人は匂いで負けを悟る。


 男たちは棒を落とした。泣き声が出る前に、チマリが女と子を前へ導き、膝をつかせた。政治の匂いがする動きだ。


 だが、ひとりだけが違った。群れの隙間から飛び出し、黒い刃を握って突っ込んできた。石の刃だ。狙いは馬ではなくアルバロの膝。


 アルバロは身を捻らない。右手が上がるだけだ。兵の槍が、その男の胸を止めた。短い息が漏れ、刃が土へ落ちる。


 「これが反乱だ」


 アルバロは言い切り、男の遺体を道の脇へ転がさせた。逃げてきた者には刃を振らせない。刃を振った者は生かさない。線引きが曖昧だと、次の夜が腐る。


 夕刻、ハラーパ近くの水は冷たい。手を入れると指先が痺れるほどだ。アヤウィトルがその水で布を濡らし、アルバロの首筋を拭いた。拭きながら、ちらりとショチトルを見る。


 ショチトルは笑って返す。だが笑いは口だけで、目は笑っていない。


 夜。アルバロは順番を崩さない。呼ぶ相手を変えても、扱いを変えない。だから女たちの火花は、消えないまま形だけ整う。整った火花は、余計に熱い。


 この夜、アルバロはマリナルを呼んだ。彼女は入る前に火の番の位置を直し、灰を均し、煙が天幕へ流れない角度を作った。自分の匂いが、男の匂いより先に残るのを嫌ったからだ。

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