第22話(後編)――「高原の昼」
(1520年8月30日午前11時。トラスカラ族長(処刑済み)の家)
馬の背に乗せられた瞬間、イトツィは息を飲んだ。前に座る自分の腹へ、後ろからアルバロの腕が回る。革の手袋の匂いと、金具の冷たさが一緒に鼻へ入った。手は強いのに締めつけない。落とさないために置かれているだけだと分かる触れ方だった。
戸口を出る前に、イトツィは振り返りそうになった。家の中には赤子がいる。置いていく不安が喉へ引っかかった。胸の張りが少し痛み、乳の匂いが自分の胸元に残っているのが分かる。けれど、今さら戻ることもできない。イトツィは唇を噛み、視線を前へ戻した。
家を出ると空気が変わった。真夏の陽は強いのに湿り気が少ない。喉がひりつくほど乾いていて、息を吸うたび胸の奥が軽くなる。標高の高さが肌で分かった。風が頬を撫でると汗が一気に冷えて、背中の布が薄く感じた。
馬は草の匂いを踏んで進む。蹄が土を打つ音が規則正しく、鞍の革がきしむ。遠くで鳥が鳴き、また途切れる。陽に焼けた草原は黄緑の光を返し、ところどころに低い花が点のように咲いていた。イトツィは自分の髪が風でほどけていくのを感じ、指で押さえたが追いつかなかった。
アルバロが背後から短く言った。
「寒いか」
イトツィが首を振るより早く、肩に外套が掛かった。羊毛の匂いと、火の煙の匂いがして、なぜか安心が混じった。外套の端が頬に触れ、柔らかい毛が皮膚に引っかかる。捕虜の縄とはまるで違う。あまりにも違うから、胸のどこかが痛んだ。
放牧場は家から少し離れていた。開けた草地の向こうに、低い丘が丸く続き、遠くの山の輪郭が白く霞んでいる。牛と馬が散らばり、尻尾で虫を払っていた。動物の体温の匂いが風に混じり、草の青さの匂いと重なった。
アルバロは馬を止め、イトツィを先に下ろした。地面に足がついた瞬間、草の柔らかさが足裏へ返ってくる。石の床の冷たさとは別の冷たさだ。生きた冷え方だった。
「ここなら、見られにくい」
そう言ってアルバロは周りを見た。見張りがいないわけではない。だが距離がある。槍先が視界に入らないだけで、心の息が少しだけ深くなる。イトツィはそれを恥ずかしく思い、目を伏せた。
◇ ◇ ◇
昼食の用意は、すでにできていた。敷物が草の上に広げられ、包みが2つ置かれている。開いた瞬間、イトツィは思わず目を見開いた。
白いパンの匂いがする。とうもろこしの香りではない。甘い粉の匂いが鼻の奥へ入って、次に油の匂い、肉の匂いが重なる。香草と塩の匂いまで混じって、鼻が忙しくなった。
「向こうの食い方だ。珍しいだろう」
アルバロはそう言って、半分に切ったものを差し出した。白いパンに、揚げた肉を挟んである。肉の周りは薄い衣で、指に油が少しつく。イトツィはおそるおそる噛んだ。
音がした。さく、と小さく。次に、熱い肉汁が舌に広がり、塩気がじんと来る。パンはふわりと潰れ、甘みが残る。豆の土の匂いとも違う。口の中に、今まで知らなかった満ち方ができた。
イトツィの目に勝手に水が溜まった。喉が熱くなり、息が詰まる。恥ずかしいのに止まらない。涙が頬へ落ち、草の上に小さな点を作った。
アルバロは笑わなかった。指で拭うでもない。彼は身を寄せ、イトツィの頬の涙を唇でそっと拾った。息が触れるだけで皮膚が熱くなる。唇が触れたところが、いつまでも残る気がした。
「泣くほどか」
問いかけは軽いのに、声は乱暴ではない。イトツィは言葉が出ず、ただ頷いた。涙がまた出た。自分が子どもみたいで腹立たしいのに、止められない。
もう一つの包みから、木の器が出た。中には、泡の立った濃い飲み物が入っていた。カカオの匂いが立ち、そこに蜂蜜の甘さと、ほんの少しの辛い香りが重なる。湯気が頬へ当たり、鼻の奥がじんとする。
「カカオだ。甘くしてある」
イトツィは器を両手で受け取った。口をつけると、まず泡が唇に触れ、次に苦みが来て、遅れて甘みがほどける。喉の奥に香りが残り、胸の奥が温まる。いつも飲む味に似ているのに、少し違う。甘さが、胸の底の固さをゆるめる甘さだった。
イトツィは泣き顔のまま笑ってしまった。笑ってしまう自分がさらに恥ずかしくて、両手で頬を隠した。
アルバロはその手を外させるようなことはしない。ただ横に座り、草の上に肘をついて空を見上げた。雲は薄く、光が白い。風が吹くたび、草が波みたいに揺れ、遠くの牛が低く鳴いた。
その穏やかさが、逆に怖かった。昨日までの恐怖が、まだ胸の底にある。なのに今、口の中には白いパンと肉の味が残り、カカオの香りが鼻に残っている。その不釣り合いが、イトツィの心を揺らした。
◇ ◇ ◇
アルバロは草の上に仰向けになり、片腕を伸ばした。
「寝ろ。ここは風がいい」
イトツィは戸惑った。命令の形に聞こえるのに、拒んでも何も起きない気配がある。彼は見張りの顔をしていない。試すような目でもない。今はただ、昼の空気を吸っている。
イトツィはゆっくり横になった。草が背中に当たり、柔らかい茎が衣の下で折れる。土の匂いが近くなり、陽に温められた青さが鼻へ入った。アルバロの腕が首の下に来る。腕は硬い。だが温かい。心臓の音が一定で、妙に落ち着いた。
目を閉じると、風の音が耳の中を掃除していく。喉の乾きが薄まり、まぶたが重くなった。ウトウトするつもりはなかったのに、意識がすべっていった。
次に目を開けた時、空の色が少し変わっていた。光が柔らかくなり、草の影が伸びている。アルバロがこちらを見て、にこやかに笑っていた。
その笑顔で、イトツィの胸が跳ねた。怖いから跳ねたのではない。別の理由だと分かってしまう。分かってしまった瞬間、逃げたくなる。だが体が動かない。
イトツィは唇を開いた。何か言うつもりだった。言葉が出なかった。代わりに手が勝手に動いた。アルバロの胸の布を掴み、引き寄せる。自分からだと気づいた瞬間、顔が熱くなった。
「……はしたない」
小さく漏れた声は風に消えそうだった。
アルバロは止めた。すぐには触れない。目を見て、息を合わせるように言った。
「嫌なら、やめる」
その一言が、イトツィの背中の力を抜いた。嫌ではない。怖いのは自分の気持ちだ。だからイトツィは首を振った。自分でも驚くほど、はっきりと。
アルバロの手が、ようやく肩に触れた。外套の端が風に揺れ、草の匂いが強くなる。唇が重なると最初は柔らかく、次は深くなった。イトツィは目を閉じ、身体の力を抜いた。草の冷たさと相手の体温が同時に来て、頭が白くなる。
その先の時間は、声にできない。風と草と、自分の鼓動だけが覚えている。
◇ ◇ ◇
終わったあと、空が遠かった。雲が流れ、鳥が鳴き、牛がまた低く鳴く。世界は何も変わっていないのに、イトツィの中だけが変わっている。
アルバロは衣を整え、イトツィの髪を指で梳いた。乱れを直す動きが丁寧で、かえって胸が詰まった。
「イトツィのことが気に入った」
言い方は簡単だ。だから怖い。イトツィは息を止めた。
「俺の妾となり、日常の世話をせよ。無理はさせない。嫌なことは言え。言えば止める」
その最後の一言で、イトツィの喉がほどけた。怖さが消えたわけではない。だが押しつぶされる怖さではなくなった。
イトツィは大きく頷いた。頷いた勢いのまま、アルバロへ身を寄せた。自分から腕を回し、力強く抱きしめる。革の匂い、汗の匂い、外套の煙の匂いが胸いっぱいに入ってきた。
アルバロは抱き返し、背中を一度だけ強く撫でた。叩くのではない。生きていることを確かめるみたいな撫で方だ。
草原の風は乾いて、気持ちがよかった。イトツィはその風の中で、自分がどこへ向かうのか分からないまま、分からないからこそ、もう一度だけ目を閉じた。




