第22話(前編)――「石臼の音」
(1520年8月30日早朝。トラスカラ族長(処刑済み)の家)
夜明け前の家は冷えた。石の床が足の裏から熱を奪い、息を吐くたび、口の中が乾いた。外では鶏が1度だけ鳴き、すぐ黙った。山の朝は早いのに、光はまだ薄い。
台所の火だけが、生き物みたいに赤く瞬いていた。薪がはぜる音が小さく続き、煙が梁にからんで、焦げた木の匂いが髪に移る。粉にしたトウモロコシの甘い匂い、豆を煮る湯気の匂い、乾いた唐辛子のつんとした匂いが、ひとつの部屋でぶつかっていた。
正妻ショチトル(30歳)は、石臼の前で背を丸め、すり石を動かしていた。ごり、ごり、と鈍い音が規則正しく響く。第二夫人アヤウィトル(19歳)は水を汲み、甕の口から冷たい匂いのする水を鍋へ落としている。チマリ(44歳)は火のそばに座り、鍋の縁の泡を木の匙で取って、味を確かめた。マリナル(24歳)は布を裂いて皿を拭き、あちこちの器の欠けを指でなぞって、使う順番を決めている。
イトツィ(18歳)は、その輪から少し外にいた。産後の身体はまだ重く、腰を曲げたまま同じ姿勢でいると、腹の奥がじわりと痛んだ。乳の匂いが自分の胸元に残っているのが分かる。火の熱が頬を温めるのに、背中は寒い。
イトツィの役目は違っていた。夜は呼ばれない。アルバロはそう決めた。だから朝は、提督の部屋へ湯を運ぶ。外套の泥を落とす。手を洗う水を替える。寝台の布を整える。夜伽ではない世話だけを、黙って続ける。
戸口には見張りが立っていた。鉄の小物がかすかに鳴り、革の匂いが風に乗って入ってくる。槍先は静かに床へ向けられている。怒鳴り声はない。だから余計に怖い。
◇ ◇ ◇
朝食の支度は、いつも同じ形で進む。粉が練られ、薄くのばされ、熱い石の上で膨らむ。焼ける匂いが立ち、表面に茶色い斑が浮く。豆の鍋はとろみを増し、湯気が舌を湿らせる。
その中で、今日の4人は妙に軽かった。口数が多いわけではない。だが手が止まらず、目がよく動き、互いに短い合図だけで作業が回る。笑い声まで混じる。火の明るさが彼女たちの頬を照らし、疲れが一瞬消えたみたいに見えた。
イトツィは、湯を汲むために甕へ近づいた時、つい聞いてしまった。
「……昨夜も、呼ばれたのか」
声は小さくした。見張りに聞かれたくない気持ちが先に立った。
ショチトルは、すり石の動きを止めないまま、口元だけで笑った。アヤウィトルは水を注ぎながら、肩をすくめるように笑った。マリナルは器を拭く手を少し速めて、咳払いで誤魔化した。チマリは鍋の泡を取ったまま、視線だけでイトツィを諫めた。
誰も答えない。答えないまま、笑っている。
それだけで、イトツィには分かった。満足しているのだ。怖さや悔しさを押し殺すための笑いではない。朝の顔が、軽い。
胸の奥に、熱いものが小さく走った。怒りとも、嫉妬とも、違う。自分でも名がつけられない、嫌な熱だ。
◇ ◇ ◇
テカトル・シコメコアトルの顔が浮かぶ。処刑の日の、乾いた土の匂いまで一緒に浮かぶ。
族長は多くの妻や側室を持っていたが、イトツィだけを呼んだ。年の差があり、頻度は多くない。だが呼ばれる夜はいつも同じだった。火が落ち、家が静まった頃に、侍女が布を持って来る。族長は声を荒げず、指で合図して、イトツィを自分のそばへ寄せる。
その時の族長の手は、温かかった。強い手なのに、掴まない。押さえつけない。額に触れて、髪を撫でて、何かを言う。言葉の意味は半分しか分からなくても、悪い言葉ではないと分かる言い方だった。
もう、その手はない。
火のそばで笑う4人を見ると、その不在がいっそう重くなる。自分だけが取り残された気がする。
イトツィは甕の水を器に注ぎ、手が震えないよう、指先に力を入れた。水面が小さく揺れ、冷たい匂いが立った。
◇ ◇ ◇
提督の部屋へ湯を運ぶ時、廊下はさらに冷えた。壁に残る夜の湿り気が、頬に触れる。自分の足音だけが小さく返る。
戸の前で立ち止まると、中から声がした。
「入れ」
短い声だ。だが刺すようではない。
イトツィが湯を置くと、アルバロはすぐに気づいた。彼は目を上げ、イトツィの手元と顔を見比べる。見張りのような目ではない。人の癖を拾う目だ。
「今日は湯が熱いな。俺の顔が、若返ってしまう」
意味は分かる。言い方が少し変だ。わざとだと分かる。
イトツィは、堪えたのに笑ってしまった。喉がきゅっと鳴り、笑いが漏れる。恥ずかしくて口を押さえると、アルバロは肩を揺らして笑った。
「笑った。よし。今朝の戦は勝った」
また変な言い方だ。だが、笑いの形が分かる。彼は自分を怖がらせたいのではなく、朝の硬さを溶かしたいのだ。
イトツィの胸の中で、昨日までの恐怖が少しだけほどける。ほどけた隙間に、別の感情が入り込む。入ってきた瞬間に、それが何か分かってしまう。分かってしまうから、慌てて押し戻そうとする。
押し戻しても、残る。
アルバロは湯で手を洗いながら、また軽い冗談を言った。言葉は上手い。発音は完璧ではないのに、間違える場所がいやらしくない。聞き手を笑わせるための間違いだ。
イトツィは、笑いながら心が冷えるのを感じた。
この男を嫌いになれないかもしれない。そう思ってしまった自分が怖い。
外では、朝の光が少しずつ増えていく。台所から焼けたトウモロコシの匂いが流れてきた。火の匂いに混じって、その匂いが妙に甘く感じられた。




