第21話――「境の丘の火」
(1520年8月19日。チョルーラ出立前夜)
チョルーラの夜空は澄んでいた。星はきれいだが、地面の匂いが重い。石畳の隙間に残った血と灰が、昼の熱で温まり、夜になってまた鼻へ戻ってくる。松明の脂が焦げる匂いも混じり、遠い神殿の影が黒く沈んで見えた。
アルバロは地図を広げ、指で道をなぞった。チョルーラからトラスカラまでは遠くない。だが近い道ほど危ない。待ち伏せがしやすいからだ。敵は人数で勝ち、土地もよく知っている。隠れる場所も、逃げる場所も、選び放題だ。
アルバロが襲撃を読む理由は3つあった。1つ目は静かすぎることだ。交易の使いが来ない。市場も閉じたまま。道ばたの小屋まで戸を閉めている。人が急に消える時は、病か、戦の前だ。
2つ目は見張りの気配だ。丘の上に人影が出ては消える。松林の切れ目で、槍や飾りが一瞬だけ光る。客を迎えるなら隠れない。隠れるのは、襲う準備をしている時だ。
3つ目は捕え方だ。捕えた偵察兵の腕に縄の跡が残っていたが、深く食い込んでいなかった。殺すための縛りではない。生かして連れて帰るための縛りだ。荷を奪うより、指揮官を生け捕りにして祭壇へ運びたい。そういう手つきだった。
アルバロは荷駄を見て、口の中で小さく舌打ちした。荷が重い。進みが遅くなる。列が長くなる。列が伸びれば、途中を切られて終わる。だから列を崩さず、切らせない形で進むしかない。
そばにはナステル(32歳)とリトランカ(20歳)がいた。2人は通訳であり、妾でもあった。昼は言葉を訳し、夜は交代でアルバロの身の回りを世話する。湯を運び、外套の泥を落とし、寝具を整え、夜伽にも応じる。兵が荒れて言葉が乱れる時は、余計な言い方を削って相手に通す役もする。
今夜はナステルの番だった。地図の端がめくれないよう押さえ、蝋燭の火が揺れないよう風よけを置いた。リトランカは少し離れて、火縄が湿っていないか、荷の結び目が緩んでいないかを見て回っている。若い目は暗い場所ほどよく利いた。
アルバロは2人に言った。
「明日から、捕えた者の話は全部拾え。嘘でもいい。嘘の癖が分かれば、次が読める」
ナステルは黙って頷いた。リトランカは火の粉を見つめた。煙が細く流れ、鼻に入る。今夜は誰も、よく眠れそうにない顔をしていた。
◇ ◇ ◇
(1日目 夜明け、チョルーラ発)
まだ暗さが残るうちに隊は動いた。空の色が薄い青から灰へ変わる時刻だ。草には露が残り、踏むたび冷たさが靴へ伝わる。トウモロコシ畑の葉がこすれ、乾いた音を立てた。遠くにイスタシワトルとポポカテペトルが見える。山が黙って立っているだけで、背中が固くなる。
アルバロは先頭を無理に急がせなかった。騎馬隊を左右へ出し、偵察兵は交代しながら前へ走らせる。列の間隔は詰め、ばらけないようにする。火縄銃は濡れると役に立たない。大砲は泥にはまると動かない。だから固い道を選び、沢やぬかるみを避けて回った。近道より、安全な道を取る。
昼前、谷の入口に小さな集落があった。家の戸は閉じたまま。犬も鳴かない。煙も上がらない。生きているのは土の匂いだけだった。井戸の縁には新しい足跡があり、土が掘り返されている。水を使えなくした跡だ。通る者の喉を先に殺すやり方だと分かる。
その時、偵察兵が若い男を引きずって来た。男は綿鎧の下で胸を速く上下させ、目が落ち着かない。乾いた舌で唇を舐めた。リトランカが男の言葉を拾い、ナステルが短く整えて伝える。
「境の丘に人が集まっている。槍が多い。石を投げる者も多い。若い者が多い。太鼓が鳴っている」
アルバロは男の目を見て、さらに聞いた。
「誰が決めた」
男は一瞬黙り、喉を鳴らして言った。
「戦頭ヤオテクートリだ。族長テカトル・シコメコアトルは迷っている。だが若い者が押している。おまえを連れ帰れば名が上がる」
連れ帰る。殺すのではない。生け捕りにして祭壇へ運ぶつもりだ。アルバロはここで確信した。トラスカラは襲ってくる。しかも境で正面から、数で押し、指揮官だけを抜こうとする。
夕方、野営地を決める時も迷いはなかった。水場に近いと夜襲されやすい。高すぎると寒さで馬が弱る。結局、ゆるい斜面の途中に張り、見張りを外向きに立てて輪を作った。夜は冷えた。薪は甘い匂いを出した。だが遠くから太鼓の音が聞こえた。腹に響き、眠りを削った。
夜半、寝所に入ったのはナステルだ。無言で湯を置き、アルバロの手から地図を受け取り、折り目を整えて袋に戻した。明け方には入れ替わりでリトランカが来て、外套の泥を落とし、火縄を乾いた布で包み直した。交代は決まりごとだ。決まりごとが崩れる夜が、いちばん危ない。
◇ ◇ ◇
(2日目 境の丘)
朝、息が白かった。舌は乾くのに頬は冷える。草を踏むと霜が散り、靴底がきゅっと鳴る。前の丘の上に羽根飾りが点々と揺れていた。よく見ると、点ではない。見張りが並んでいる。
アルバロは列を止め、大砲を先に出した。砲身は冷たく、触れた指が一瞬しびれる。火薬袋を開けると、火薬の強い匂いが鼻を刺した。火縄の赤い火が小さく揺れ、兵たちの喉が無意識に鳴った。
敵は昼前に現れた。丘の向こうから、どっと流れ出てくる。畑の畝を越え、谷を埋めた。叫び声は多いが、まとまりがある。太鼓が一定のリズムを刻み、笛が合図を送っている。前は盾と槍。後ろは矢と投石。さらに後ろに、縄を持った者も混じっていた。最初から生け捕りを考えている。
矢が降り、盾に当たって乾いた音がした。石が飛び、頭上を裂いた。土が跳ね、口の中がじゃりっとした。アルバロは動かない。敵がぎゅっと詰まる瞬間だけを待った。
合図は短い。大砲が鳴った。空気が破れたような音で、耳が痛む。白い煙が広がり、苦い匂いが口の中に張りつく。石弾が敵の真ん中をえぐり、土と血と羽根が一緒に舞った。叫びが上がったが、すぐに乱れへ変わる。太鼓がずれ、笛が途切れ、足が止まった。
そこへ火縄銃が続いた。乾いた破裂音が続き、人が倒れる。倒れた者が邪魔になり、後ろの者が押し、押された者が崩れる。崩れたところへ騎馬隊が回り込む。蹄が石を叩き、馬の汗の匂いが熱く立つ。犬が低く唸り、次に牙が布へ食い込む鈍い音がした。
やがて敵は散った。負けたから散ったというより、怖さに耐えきれず散った逃げ方だ。丘へ、畑へ、松林へ、ばらばらに走る。追撃は短く切り、深追いはしない。深追いすれば、別の待ち伏せに食われる。アルバロはそこまで読んでいた。
戦が終わると、捕えた者が引き戻された。縄がこすれる音が、やけに大きい。引き据えられたのは族長テカトル・シコメコアトル、戦頭ヤオテクートリ、槍隊長トレロトル、神官オセロツィンだった。男たちの目は乾き、口元に土が貼りつき、肩が重く沈んでいる。
その後ろから女と子が連れて来られた。正妻ショチトル(30歳)。髪がほどけ、頬に灰の筋がついている。第二夫人アヤウィトル(19歳)。若いが目は強い。族長の姉で家の決まり事を握っていたチマリ(44歳)。泣かない代わりに息が浅い。側室マリナル(24歳)と、産後の匂いを残す側室イトツィ(18歳)もいる。
子どもは4人だ。長男コスカメトル(12歳)は歯を食いしばり、妹のテイウィ(7歳)の手を握っている。幼子ミツトン(3歳)は母の腰布に顔を押しつけ、乳児シウ(1歳)は泣き疲れて声がかすれていた。怖いというより、冷たさと息苦しさで泣いている声だった。
女たちはアルバロの前に据えられた瞬間、膝が落ちた。石が冷たく、布の上からでも分かる。肩が震える。ショチトルが最初に額を地面につけた。髪が土に触れ、土の匂いが一気に上がる。
「お願いです。殺さないで。子を、子だけは殺さないで」
声が割れ、途中で嗚咽が絡んだ。ナステルが短く訳し、リトランカは次の女の声が重ならないよう押さえた。
アヤウィトルは泣かなかった。だが目は濡れている。顔を上げ、アルバロを見て言う。
「夫を殺すなら私も殺せ。でも子は残せ。子は戦っていない」
チマリは視線を落とし、声を低くした。
「人質にするなら、生かせ。食べ物と水を出せ。病気にするな。死ねば、おまえの得も消える」
アルバロが男たちへ目を向けると、男たちの顔色が変わった。族長テカトルは唇を動かすが声が出ない。戦頭ヤオテクートリは歯を見せ、悔しさで首筋が張る。神官オセロツィンは空を見上げ、何かの名を口の中で唱えていた。
ショチトルは子を抱き寄せた。コスカメトルは妹の前に立ち、両腕を広げて壁になろうとする。テイウィは泣き声を噛み殺して鼻を鳴らし、ミツトンは母の腰布に爪を立てた。乳児のシウが小さくしゃくり上げ、唾の匂いが風に混じった。
アルバロは女たちの声を、そのまま情だけで受け取らない。だが無視もしない。ここで皆殺しにすれば怖がらせることはできる。だがその後の話ができなくなる。生かして縛れば、恨みは残る。だが縛りとして使える。
「子は殺さない」
短い言葉が落ちた。ナステルが訳すと、女たちの肩が一斉に揺れた。泣き声が増えた。安心の涙ではない。張りつめていたものが切れて崩れただけだ。
アルバロは続けた。
「おまえたちは人質だ。逃げたら、その分だけ男を切る。従うなら、食い物と水を出す。病気は治させる」
チマリが小さく頷いた。ショチトルは額を地面につけたまま、礼なのか祈りなのか分からない言葉を何度も吐いた。アヤウィトルは唇を噛み、目の端から涙が1筋だけ落ちた。
その場で男たちは処刑された。刃の音は乾き、血の匂いが熱く立った。ショチトルは声を上げた。アヤウィトルは肩を震わせた。チマリは泣かないまま目を閉じた。子どもたちは母の体に押し込まれ、見ないように顔を隠される。それでもコスカメトルだけは、布の隙間から見た。少年の目に入った赤は、たぶん消えない。
処刑が終わると、アルバロは女と子を列の内側へ移させた。縄はきつくない。だが長さはない。見張りは槍先を静かに向け、声を荒げない。静かな槍先のほうが怖いと、誰もが分かるからだ。
夕方、野営地に火の匂いが戻った。女たちは互いの肩を抱き、子を抱え、泣き疲れて黙った。ショチトルは子の背を撫で続ける。アヤウィトルは泣き顔を隠し、目だけを冷たく保つ。チマリは火の外を見て、次に言うべき言葉を頭の中で並べていた。
命乞いで終わる夜ではない。
アルバロは火の輪の外へ女たちを集めさせ、子どもが泣きやむ距離で足を止めた。焚き火の煙が草の上を低く流れ、濡れた革と汗の匂いが風に混じる。女たちの息は浅く、子どもは母の腰布に顔を押しつけたままだ。
「生きたければ、俺の命令に忠実に応えろ。子どもも生かす。だが逃げたら終わりだ」
言葉は短い。だが甘くはない。ナステルがすぐ訳し、リトランカは女たちの声が重ならないよう腕を広げて押さえた。
ショチトル(30歳)は唇を震わせて頷いた。アヤウィトル(19歳)は目をそらさず頷いた。チマリ(44歳)は一度だけ小さく頷き、子どもの数を確かめるように視線を動かした。マリナル(24歳)は喉を鳴らして頷き、イトツィ(18歳)は遅れて頷いた。
アルバロはイトツィを手招きした。周りの兵が半歩だけ前へ出ると、女たちの肩が一斉に固くなる。
「お前は侍女として残す。女と子の世話をしろ。夜伽はしなくていい。食い物と水が足りない時、病気が出た時、隠さずに俺へ伝えろ」
イトツィは膝をつき、額を下げて答えた。声は小さいが、言葉ははっきりしていた。ナステルは訳し終えて息を吐き、リトランカは火の外の暗がりへ目を走らせた。今夜から先は、泣き声よりも沈黙が怖い夜になる。




