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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第5章――「湖の鎖、石の秤」

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第20話――「雨の峠、母子の車」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


(1520年8月16日午前10時。アヨツィンコ)


 アヨツィンコの土は湿っていた。湖の匂いが鼻の奥に残り、陽は高いのに影だけが冷える。吐く息が薄く白くほどけ、馬の鼻先からも同じ白がひゅうと漏れた。


 隊が動き出すと、まず音が立った。革紐がきしみ、木箱がぶつかり、ロバの蹄がぬかるみを噛む。荷駄が重すぎるのだ。鉄の部品、乾いた粉、塩、布、贈り物の器、槍の束。背負い籠も樽も、水を吸った木みたいに鈍く重い。


 アルバロは列の脇を歩き、崩れそうな荷の結び目を指先で弾いて確かめた。甘い結びはその場でほどかせ、結び直させる。怒鳴らない。遅れの損が大きいと、皆が分かっている。


 彼のそばには女が2人いた。ナステル(32歳)とリトランカ(20歳)だ。2人とも言葉ができ、日々の世話もできる。水と食い物の手配、火の順番、薬草の束の管理、寝具の乾かし方。列の前後で起きる小さな揉め事は、声を荒げずに言葉でほどいていく。夜は交互にアルバロの天幕へ入る決まりで、今日はどちらが夜番かを、2人は視線だけで確かめ合っていた。


 隊の中ほどに、黒い肌の女兵がいた。ルシアだ。奴隷兵の隊長で、槍の持ち方も列の締め方も、男たちより冷静だった。腹は大きく張っているのに歩幅を崩さず、目だけで部下を追っていた。


 南東へ進み、アメカメーカへ向かう。峠が待っている。空が近づく道だ。


 昼過ぎ、雲が山から流れ落ちてきた。最初は薄い霧だったのに、すぐ雨へ変わる。水は土を削り、石を浮かせ、道を別の生き物みたいに暴れさせた。濡れた草が踏まれて青い匂いを吐き、泥が靴底にまとわりつく。


 先頭から短い悲鳴が上がった。ロバが足を取られ、横倒しに滑ったのだ。積み荷の木箱が転げ、ぬかるみを跳ね、泥水が顔へ飛ぶ。箱の角が男の脛を削り、赤が雨に薄まって流れた。


 アルバロは列を止め、裂いた布で傷口を締めた。


 「歩けるか」


 男は歯を鳴らしながら頷いた。


 「なら列の内側へ入れ。落ちた箱は捨てるな。重いなら中身を分けろ」


 リトランカが器を押さえ、雨水を避けながら薬草を潰した。ナステルは周囲に言葉を走らせ、混乱しそうな担ぎ手を落ち着かせた。雨の中で声を張ると喉が冷え、咳が出る。だから短く、要点だけで動かす。


 夕方、アメカメーカの近くで野営にした。火は煙を上げるだけで燃え方が鈍い。湿った薪がじゅっと鳴り、酸っぱい匂いを吐く。濡れた革の匂いと汗の塩気が混じり、皆の肩が重く沈んだ。


 ◇ ◇ ◇


(1520年8月17日。峠道)


 夜が明けても雨は止まない。むしろ冷えていた。上へ行くほど風が細くなり、胸が浅くなる。唇が割れ、舌が乾くのに、頬は雨で濡れたままだ。


 道は崩れ、斜面は粘土になった。踏めば沈み、引けば抜けない。荷駄の紐が肩に食い込み、骨の上が焼けるように痛む。馬は鼻息を荒くし、ロバは腹を鳴らした。


 午前が過ぎた頃、ルシアが突然立ち止まった。槍の柄に手をつき、唇を噛む。次の瞬間、短い息が喉で折れた。雨に濡れた額から汗が混じって流れ、目だけが鋭く前を見たままだった。


 アルバロは列を切った。


 「荷を下ろせ。布を張れ。火は小さくでいい」


 濡れた布が張られ、炭が起こされる。煙は雨の匂いに負けて重く漂い、目がしみた。ナステルが女たちを集め、手を動かさせる。リトランカは湯の温度を確かめ、布を絞り、清い水を確保した。


 ルシアは声を上げない。歯を食いしばり、息だけを刻む。痛みの波が来るたび、指が土を掴み、爪に泥が入った。部下の男たちは視線を落とし、雨の向こうへ背を向けた。隊長の顔を見られないのだ。


 やがて、細い泣き声が布の中から漏れた。雨の音に負けそうなほど小さいのに、その瞬間、火の前の空気が一度で変わった。生まれた子は母子ともに元気だと、女たちが短く告げた。湿った獣皮の匂いの中に、乳の匂いがまじった。


 アルバロは布の陰へ入らない。入口の外で膝をつき、低く言った。


 「よく耐えた。今日から歩かせない」


 彼はすぐに荷車を改めた。重い木箱を2つ別の荷へ振り分け、板を組み、布で覆う。最も足の確かな馬を当て、毛布を2枚、乾いた布を束で載せた。湯を入れる器も付ける。馬車の横には槍持ちを2人つけ、揺れが少ない道を選んで進ませた。


 この停滞で、峠越えは遅れた。さらに下りで担ぎ手の若者が足首をひねり、担架が必要になった。雨が石を磨き、靴底が滑り、誰もが一歩ずつ慎重になった。


 夕方、下りきれず、谷の張り出しで野営にした。火の前でも乾かない。服は重い水袋みたいに垂れ、皮膚に冷えが貼りついた。


 ◇ ◇ ◇


(1520年8月17日深夜。峠の手前の野営)


 アルバロの天幕は低く張られ、入口の布が雨を吸って暗く沈んでいた。中では炭火が赤く鈍り、濡れた革と香油と汗の匂いがこもる。


 今夜はナステルが入った。椀を差し出し、温い飲み物を飲ませてから、外の様子を短く伝える。


 「ルシアは眠った。子もよく飲んでいる。馬車は揺れの少ない方へ回している」


 アルバロは頷いた。炭火の熱が指先へ戻るまで、掌を火にかざす。外では雨が布を叩き続け、遠くで馬が蹄を鳴らした。


 「明日はリトランカだな」


 「ええ。夜明け前に交代する」


 ナステルは濡れた外套を外し、火に近いところへ掛けた。指先が冷えているのに手つきは乱れない。通訳でも世話役でもある女が、今はただ体温を差し出すだけになる。


 アルバロが手を伸ばすと、ナステルはためらわずに身を寄せた。湿った布が擦れる音が小さく鳴り、香油の匂いが近づく。口づけは短く、息は深くなる。外の冷えが遠のき、天幕の内側だけがゆっくり温まっていく。


 夜の終わりに、ナステルは身支度を整えた。髪を結び直し、火の灰を靴でならす。外で待つリトランカと目を合わせ、言葉を少しだけ交わした。


 「異変があれば起こす」


 「分かった」


 交代は静かだった。


 ◇ ◇ ◇


(1520年8月18日正午。チョルーラ)


 朝、雨が薄れた。雲が裂け、山の影が遠くへ退く。濡れた草が陽を反射し、足元の水滴がきらりと跳ねた。冷えは残るが、空気は軽い。


 谷が開け、畑が広がった。トウモロコシの葉が風で擦れ、乾き始めた土の匂いが戻ってくる。遠くに段々の巨体が見えた。石の台が積み上がり、空の下で動かない山みたいに座っている。チョルーラだ。


 隊列は泥まみれだった。担架は列の内側に守られ、馬車は揺れを抑えてゆっくり進む。布の隙間から、赤子の細い声が一度だけ漏れた。ルシアは毛布の中で横たわり、目だけで周囲を見ていた。隊長の目だ。


 門口の見張りが動く。走る影が見える。遅れた2日分は、弱さにもなるし、見せ方次第で重みにもなる。


 リトランカが一歩前へ出た。雨に濡れて固くなった髪を指で押さえ、声の高さを整える。相手の言葉を受け、こちらの言葉を返し、余計な角を削る。


 アルバロは馬の首を撫で、唇の割れを舌でなぞってから顔を上げた。


 「入るぞ」


 その短い声で列の背が伸びた。荷を捨てず、母子を捨てず、雨の峠を越えてきた列だ。門の向こうに何が待っていようと、足元だけは揺らがなかった。

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