第18話――「イシュタパラパの宴」
(1520年8月10日夕方。イシュタパラパ)
アルバロたちはテノチティトランを出て、約8キロの堤防道を南へ進んだ。湖の上に伸びる道は長く、広かった。左右の水面は夕映えを抱き、風が塩気と藻の匂いを運んでくる。カヌーが水を裂く音が遠くで跳ね、湿った空気が肌にまとわりついた。
堤防の先に、イシュタパラパの都市が現れた。石と白い漆喰の壁が光を返し、家並みのあいだから煙が細く立ち上る。市場のざわめきと、焼いたトウモロコシの甘い香りが、道の終わりからこちらへ流れ込んでくる。
門口で待っていたのは、イシュタパラパの領主たるアシャヤカ〈18〉だった。彼は先代の名を継ぎ、クイトラワクを名乗る。背後には妙齢の美女が40名、花の首飾りと羽飾りを揺らして並んでいた。髪に塗られた香油が熱を帯びた空気に混じり、花弁の甘さと土の匂いが同時に鼻をくすぐった。
ここから湖越しにテノチティトランを仰ぎ見ると、首都の神殿や宮殿が湖水から聳え立って見えた。夕陽を受けた石段は金色にかすみ、遠い鐘のような太鼓の音が、うすい霧に溶けていた。
歴代のイシュタパラパの領主はクイトラワクの名を付けており、アシャヤカは4代目に当たる。3代目のクイトラワクは反乱罪でアルバロが処刑した。アシャヤカは3代目のクイトラワクの息子だ。
◇ ◇ ◇
アルバロたちは宮殿へ案内され、手厚い接待を受けた。テノチティトラン同様、石造りの宮殿は見事だった。日暮れ前の光が高い柱の影を伸ばし、磨かれた床が足音をやわらかく返す。芳香を放つ木材で作られた広い部屋もあれば、壁面を木綿布で覆った部屋や館も見受けられた。布はわずかな風でもさざめき、木の香りと香の煙が絡み合って、胸の奥をくすぐる。
建物に付属する果樹園と庭園も広かった。湖から引かれた水路が縦横無尽に張り巡らされ、カヌーに乗ったまま湖とイシュタパラパを行き来できるようになっていた。水路の水は涼しく澄み、石の縁を撫でる音が絶えず耳に残った。
宮殿の周りには小道があり、花壇があり、水泳用のプールがあった。浮き彫りの彫刻で飾られた散歩道もあり、露台も据え付けられていた。正しく地上の楽園のようだった。甘い花の匂いが濃く、鳥の羽音が近い。だが遠くから美しくそびえ立って見えるピラミッドの階段に、生け贄の血が滴り落ちていることは、見る者の誰もが想像だにできない光景だった。
◇ ◇ ◇
アルバロたちに提供された料理は手が込んでいて、大変美味しかった。
蒸気に包まれたタマル……脚注①は、包みをほどくと湯気が顔に当たり、香辛の匂いがふっと立った。卵入りのできたてのトルティーリャ……脚注②は、薄い生地の縁がまだ熱く、指先にじんわり温度が移った。七面鳥を蒸した料理は肉がほろりと崩れ、ウサギの煮込みは草の香りが残る甘い脂を舌に置いた。果物は目を見はるほどに美しく、切った瞬間に水気が弾けて、甘さが喉を濡らした。豊富な具と一緒に煮込んだ、ひじょうにこくのあるとても辛いスープは、ひと口目で舌が熱くなり、次の瞬間に香りが鼻へ抜けた。
兵隊たちは高価なカカオ飲料をふんだんに飲んだ。アルバロたちがこの昼飲んだものは、カカオが泡だつほどにかきまぜられて、苦味が強かった。それでもうまかった。
ただアルバロと途中まで同行していた第一皇后イサベルが、卵料理とカカオ飲料に改良を加え、アルバロたちの好みに合うようにした。
先住民たちは調理に油を一切用いなかったが、イサベルは彼らにカカオの副産物であるカカオバターを用いて卵を調理した。牛を知らなかった先住民にとって、乳牛から採れる牛乳やチーズ、バターなどの使用には抵抗があったのだが、カカオバターには抵抗がなかった。
イサベルが先住民に教えてからは卵料理が急に増えたそうだ。彼女はまた牛肉や豚肉を用いた料理「ステーキ、とんかつ、生姜焼きなど」も教えた。
カカオについても先住民の作るものは、石臼で挽いたカカオ豆に水と調味料を混ぜたものだった。美味しいが冷たく、やや苦味がある。
イサベルは外皮を取り除いたカカオ豆を、上面が湾曲した熱した石臼「メターテ」の上で擦り潰し、水と蔗糖を入れて熱する。こうして出来た熱い飲料を、モリニーニョと呼ばれる大きな木製の撹拌棒で勢いよくかき混ぜる。
そうして熱くて甘いチョコレート飲料が出来上がり、特にアルバロと同行している側室や妾や女奴隷たちに人気が出た。香りは濃く、湯気は甘く、泡は舌の上で軽く弾けた。
◇ ◇ ◇
アシャヤカは、アルバロたちが食事を終え、イサベルが宮殿の料理人たちに料理を教えている間、一言も発さずに大人しく待っていた。若い領主の視線は静かだったが、喉の奥で乾いた息を飲み込んでいる気配があった。
イサベルの蘊蓄話が終わった時、彼はアルバロに話しかけ、贈り物を差し出した。
100キロ相当の黄金の塊が入った20個の箱と、出迎えてくれた40名のうら若き美人たちだった。箱の継ぎ目から漏れる金属の匂いが鼻に触れ、重みが床板をわずかに鳴らした。美女たちの羽飾りは微風に震え、香油の甘さが一瞬だけ濃くなった。
アシャヤカは、アルバロが生け贄を禁止したことは噂で聞いて知っていたが、本気で禁止しているとは思っていなかった。
その証拠に今朝もこの都市の神殿では4人の男奴隷たちが生け贄にされ、生きながらにして心臓をえぐり取られていた。
生け贄にされた男たちの肉は、神官たちによってすでに食べられてしまっていた。火の匂いと脂の匂いが、ここが楽園の庭であることを嘲るように、どこかに残っていた。
彼は贈り物をアルバロに提供し、今後も生け贄を軍神テスカトリポカ……脚注③に捧げ続ける許可を求めた。
アルバロは彼に聞いた。
「最近では何時生け贄を軍神テスカトリポカに捧げたのか?」
「大々的に行ったのは3ヶ月前です。テスカトリポカの祭祀は、アステカ太陽暦の5番目の月である Toxcatl 「トシュカトル、乾燥」の期間に行われます。」
アルバロは間を置かず、声を低くした。
「普段はどうなっているのだ?」
「ここイシュタパラパでは毎日神官たちが4人の捕虜の男性を生け贄に捧げます。」
返答は淡々としていた。庭の水音が、いっそう冷たく聞こえた。
◇ ◇ ◇
アルバロは神官たちと、その家族をその場に集めた。香の煙がまだ薄く漂う広間に、人が密集し、肌と布の匂いが重なった。アシャヤカも呼ばれ、前へ出された。彼の肩はこわばり、指先が短く震えた。
アルバロは宣言した。テノチティトランで宣言した通り、人間を生け贄に捧げることは固く禁止している。その禁を犯した者は直ちに処刑される。
それを聞いて全員逃げようとしたが、兵士たちに拘束された。神官たちは家族の見ている前で銃殺され、直ちに火葬と埋葬が行われた。乾いた破裂音が連なり、硝煙の刺激が鼻に刺さった。床に落ちた血の温度が、石の冷たさと不釣り合いだった。火は早く、煙は黒く、空気は喉に絡んだ。
残った家族たちは命こそ奪われなかったものの、アルバロから処刑されるか、今後一切人間の生け贄を伴う神事に参加しないかの何れかを選ばされた。当然のことながら処刑されることを選ぶ者は皆無だった。
アルバロはアシャヤカの前に立ち、短く言い渡した。ここから先、イシュタパラパは人の血で神に訴えない。領主としてそれを守れという命令だ。
アシャヤカはうなずき、言葉を探すように唇を動かしたが、結局は深く頭を下げただけだった。庭の水路では、カヌーがいつも通りに水を割っていた。楽園は何事もなかったように、静かに息をしていた。
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脚注①……タマル
タマル「スペイン語: tamal」はメキシコおよび中央アメリカ、南アメリカの伝統的な食品のひとつで、トウモロコシをすりつぶし、ラードと合わせてこねた生地マサ「穀類の粉に水を加えて作る生地の総称」を、トウモロコシの殻「から、包葉」かバナナなどの葉に包んで蒸したものをいう。
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脚注②……トルティーヤ
トルティーヤは、すり潰したトウモロコシの粉や小麦粉から作るメキシコ、アメリカ合衆国の伝統的な薄焼きパンである。メキシコでは主食として食されている。
メソアメリカの先住民たちは、この文化圏で栽培化された原産のトウモロコシにニシュタマリゼーションと呼ばれるアルカリ処理を行い、メタテなどという石皿とマノというすり棒ですり潰した生地を薄く延ばしてテラコッタ製のコマルで焼いたものを、スペイン人に征服される以前から主食としていた。アステカでは、この薄焼きパンを、トラシュカリなどと呼んだ。
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脚注③……テスカトリポカ
テスカトリポカ「Tezcatlipoca」は、アステカ神話における主要な神の一つである。大熊座の神であり、夜空の神であり、アステカ民族の神殿に祀られた。
テスカトリポカはしばしば、アステカの文化英雄である神ケツァルコアトルのライバルとされる。
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