第13話――「タラスコ王国首都攻め」
(1519年8月下旬未明、オストゥマ砦)
未明の山あいは、ひどく静かだった。
オストゥマ砦の石壁の上で、ペドロ・デ・モリーナは息を吐き、冷えた空気を肺いっぱいに吸い込んだ。湿った土と、夜露を含んだ草の匂いが鼻を刺す。
その静けさの向こうから、低いざわめきがじわじわと近づいてきた。
足音が重なったような地鳴り。遠くで打ち鳴らされる太鼓。湿った風に乗って、松脂を燃やす煙の臭いがかすかに流れ込んでくる。
「来たな」
東の稜線の向こうに、灯が浮かび始めた。最初は数えるほどだった火が、あっという間に増えていき、山あいの斜面一面が、ちらちらと揺れる橙色の点で埋まる。
タラスコ王国の軍勢、槍と弓を持つ兵、五万。
講和の印として贈られた首飾りと布が、今は敵の旗の下で揺れているのだと思うと、ペドロの歯が、自然と噛み合わさった。
「講和を破って、夜明け前に砦を突くか」
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
怒りは、まだ言葉にならなかった。ただ、喉の奥に溜まった苦い味として、はっきり残っていた。
「全軍起床。持ち場に付け。犬も馬も起こせ」
号令が砦の中に走る。
石畳を打つ足音。鎖帷子のこすれる音。矢筒がぶつかり合う乾いた響き。
兵舎の前では、大型の馬がいななき、鼻息を荒くして前脚を鳴らす。犬舎の戸が開かれると、獣の匂いと低い唸り声が一度にあふれ出た。
スペイン人弩兵百名、黒人兵二十名。
イシュタパラパの弩兵二千名、アステカ兵一万。
砦の角ごとに据えた大砲四門と、土塁に並べた小砲百門。
それが今、ペドロの手の中にあるすべてだった。
「合図したら撃て。弓の射程まで近づかせるな」
ペドロは石壁の端に立ち、暗闇の向こうを見据えた。
耳に入るのは、太鼓と角笛の音。地面がかすかに震え始める。足もとに置かれた石が、かたかたと震えた。
やがて、最前列の敵兵の顔が見える距離になった。
焼けた皮膚。額に塗られた黒と赤の塗料。槍の穂先にかすかに反射する松明の光。
「今だ。撃て!」
砦の上で火打ち石の音が一斉に鳴り、火縄が小さく爆ぜた。
次の瞬間、大砲が咆哮する。耳をつんざくような轟音が、砦の石壁を震わせ、ペドロの胸にまで響いた。
火花と白い煙が噴き出し、砦の前の斜面に土と石が吹き上がる。
続けて小砲が吠え、弩兵たちの矢が、雨のように敵陣に降り注いだ。
火薬と煙の匂いが、夜の冷たい空気を押しのけて広がる。鼻の奥が焼けるように痛む。耳には叫び声が混じった。怒号、命令、苦鳴。それらが一つに溶け合って、黒い夜の底で渦を巻く。
「前列、ひるんだぞ!」
敵の隊列が、砲声に押し返されるように波打つのが見えた。
それでも後ろから押し寄せる兵が、槍を掲げて前進を続けてくる。
「門を開け。騎兵、犬隊、準備」
ペドロは息を短く吐いた。
石壁の下で、木製の門が軋みを立てて開く。朝焼け前の薄闇の中へ、甲冑をまとった騎兵が飛び出した。大型の馬四十頭が、一気に坂道を駆け下りる。
蹄が硬い地面を叩き、鈍い衝撃が足裏から伝わってくる。兵士たちの喉から、叫びがほとばしった。
「犬を放て!」
鉄の首輪と鎖が一斉に外される。五百頭の犬が、吠え声とともに飛び出した。
獣の息は熱く、涎の匂いが立ちのぼる。毛並みをかすめる風の音。
犬たちは、たちまち敵の足もとに食らいつき、槍の列を乱した。
砦の上から見ると、敵陣の一角が、黒い塊となって崩れていくのがはっきり分かる。
槍が倒れ、旗が落ち、灯が地面に転げて消えた。
「後ろから押さえつけろ! 引かせるな!」
弩兵たちが、砦の上から絶え間なく矢を放つ。
暗闇に浮かぶ無数の影が、砲声と犬の吠え声に飲み込まれていく。
どれほどの時間がたったのか、ペドロ自身にも分からなかった。
耳の中にはまだ砲声が鳴っているようで、喉は乾き、口の中には鉄のような味が残っていた。
やがて太鼓の音は途切れ、タラスコ兵たちは坂の下で、ずるずると後退を始めた。
槍を捨てて逃げる者、負傷者を担ごうとして押し倒される者。
夜明け前の薄い光の中で、その混乱は、濁った水が流れを失うように広がっていく。
「追撃はするか?」
側にいたスペイン人の隊長が問いかける。
ペドロは、砦の外に横たわる黒い帯のような敵の残骸を一瞥し、奥歯を噛んだ。
「追う。ここで逃がせば、山の向こうでまた集まるだけだ。首都まで叩き込む」
怒りはまだ収まっていなかった。
胸の中で燃え続ける熱が、冷える気配を見せない。講和を申し出てきた王の顔、差し出された贈り物、そのすべてが、今は嘲笑にしか見えなかった。
◇
日の出とともに、オストゥマ砦から軍勢が出た。
前には騎兵と犬隊、その後ろに弩兵と槍兵の列が続く。砲は牛車と人力で引かれ、軋む車輪の音が谷間に響いた。
山の空気は薄く、歩くたびに土埃が舞い上がる。
鼻の奥に、乾いた土と枯草の匂いが溜まっていく。
道の両側には、段々畑が広がっていた。とうもろこしの茎が乾きかけ、細い風に揺れている。ところどころ、畑の端には焼け跡があり、黒くこげた木の根がむき出しになっていた。
谷を渡ると、松の林が続いた。
樹皮からしみ出した樹脂の香りが、強い日差しで温められ、むっとするような匂いになって軍勢を包む。
枝と枝の間から見える空は青く高いが、ペドロの胸の中で広がるものはなかった。
途中の村は、ほとんどがもぬけの殻だった。
家々の戸は開け放たれ、炊事場の灰だけが冷たく残っている。
土の床には、慌てて逃げた足跡と、倒れた壺の破片。どこかで犬が吠え、子どもの泣き声がかすかに聞こえたかと思うと、すぐに沈黙に飲み込まれた。
「逃げられるだけ逃げたか」
ペドロは短くつぶやき、歩を進めた。
背中には汗が流れ、鎖帷子の下で肌に張り付いていく。その感触が鬱陶しかったが、鎧を脱ぐつもりはなかった。
昼過ぎ、山道を抜けると、タラスコ王国の首都が見える丘に出た。
丘の上からは、湖の縁に広がる大きな町が見下ろせた。石の壁が町を囲み、その内側には、木と石で組まれた高い神殿がいくつも突き出ている。
湖面は陽を受けて白く光り、その縁に並ぶ家々の屋根が、ぎっしりと並んだ鱗のように見えた。
城壁の上には、タラスコの兵がすでに並んでいた。
槍の列。張られた弓。旗の布が風にあおられ、赤と黒の模様が波打つ。
太鼓と角笛の音がふたたび響き始めた。
「砲を前に。弩兵、その後ろ。アステカ兵は両翼から回り込め」
ペドロの声は低かったが、はっきり通った。
兵たちは慣れた様子で持ち場につき、砲の口を城壁に向けて据える。火薬の袋が運ばれ、砲身の中に押し込まれる。手に付いた黒い粉が、ざらりとした感触を残した。
「一発目は門の両脇。その次は神殿の階段だ。奴らに、守るものを失わせろ」
火縄が灯される。細い炎がじわじわと進み、砲の口へと近づいていく。
周囲の空気が張り詰める。兵たちの喉が、ごくりと鳴る音さえ聞こえる気がした。
轟音。
強烈な振動が丘を揺らし、ペドロの胸と足もとを一度に叩いた。
城壁の上で石が砕け、白い埃が噴き上がる。門の片側の柱が崩れ、木の扉が少し傾いたのが見えた。
「続けろ!」
砲声とともに、弩兵たちの矢が城壁の上に降り注ぐ。
タラスコ兵の矢は、手前の盾と鎧に弾かれ、地面に落ちていく。鉄製の刀と槍を握った兵士たちが、門へ向かって走り出した。
戦いは長引かなかった。
火力の差、武器の差は、城壁の高さをあっさりと乗り越えた。
崩れかけた門からなだれ込んだアステカ兵たちが、狭い通りで槍と盾を構え、タラスコ兵と組み合う。
その背後から、弩兵が矢を撃ち込み、犬が兵の間を走り抜けては倒れた敵に飛びかかった。
町の中には、焦げた木の匂いと、砕けた石の粉っぽい匂いが混ざり合っていた。
神殿の階段には、倒れた兵と折れた槍が積み重なり、その向こうにいる王族たちの姿が見える。
◇
王族の男たちは、神殿の広間に集められた。
金と翡翠の飾りを着けた者、羽根飾りをまとった者。その顔には疲労と恐怖と、まだ消えない傲慢が入り交じっていた。
「講和を結び、こちらの砦の兵を減らさせておいて、背後から襲った」
ペドロは、一人ひとりの顔を見渡した。
広間には、香の煙と、体から立つ汗の匂いがこもっている。
喉は乾いていたが、水を求める気にはならなかった。
「答えろ。これは王の意志か」
誰も答えなかった。
ただ、床にひざまずいた王の息が荒く、肩が震えているのが見えた。
「そうか。ならば、ここで終わりだ」
ペドロは剣を抜いた。鉄の刃が、薄い光を受けて光る。
広間の空気が、さらに重くなったように感じられた。
その日、王族の男たちは、その場で処刑された。
首が落ちる瞬間を、ペドロは一人残らず見届けた。
視線は冷たく、手の動きは乱れなかった。怒りは消えていないが、その形は静かで、固かった。
残された王族の女たちと、その家族の女たちは、捕虜とされた。
彼女たちは広間の隅に集められ、震える手で衣を握りしめていた。
泣き声、押し殺した叫び、祈りの言葉。
ペドロはそれらを背中で受けながら、静かに告げた。
「お前たちは、今日から私の陣に連れて行く。私の側に置き、働かせる」
その意味が、どれほど重いかを、女たちも分かっていた。
うつむいた顔から、涙がぽたぽたと土の床に落ちていく。
広間には、香の残り香と、恐怖の匂いだけが漂っていた。
◇
日が傾き始めるころ、タラスコ王国の首都は、静まり返っていた。
遠くで犬が吠え、破壊された門のところで、風が板切れを揺らす音だけがする。
ペドロは神殿の階段に立ち、町と湖を見下ろした。
煙がいくつも立ち昇り、焼けた木と土の匂いが風に乗って流れてくる。舌の上には、まだ火薬の粉の味が残っていた。
「これで終わったわけではないな」
自分に言い聞かせるように、低くつぶやく。
タラスコの王は倒れた。だが、その背後にはまだ山と谷があり、村と町がある。
それでも、今日ここで流れを変えたことは確かだった。
講和を裏切った者たちへの報いを、この首都そのものに刻みつけたのだ。
ペドロは深く息を吸った。煙と血と香の混じった空気が肺に入り、胸の奥を焼く。
怒りはまだ消えていなかったが、その向こうに、冷たい計算が静かに顔を出し始めていた。




