第9話――「昼の寝所と静かな誓い」
ヤコツィン〈42〉は、まだ白んでいる東の空を見つめながら、寝台の上でひとり身じろぎした。昨夜、柱の陰から盗み見た若い妾トイヤウアとアルバロの姿が、瞼の裏に焼きついて離れない。声も、肌と肌が擦れ合う気配も、すべてを覚えている。胸の奥がじくりと痛んだが、その痛みは嫉妬だけではなく、自分もあの火の中に身を投げ込みたいという、遅れて目覚めた渇きでもあった。
まだ宮殿の廊下が冷えた石の匂いで満ちているうちに、ヤコツィンは湯殿へ向かった。焚き木の煙と、湯に浮かべた花弁の青い香りが混じり合い、湯気が肌にまとわりつく。黒髪をほどくと、肩から背にかけて濡れた重みが流れ落ち、白くやわらかな肌に水滴がすべり、灯火の光を細い筋に砕いた。
身長はこの国の女にしては高く、豊かな腰と胸をつなぐくびれは、歳月を重ねてもなお、なめらかな線を保っている。指先で腹と腰の境をなぞると、若いころに「実りすぎた畑」と囁かれた言葉がふとよみがえり、苦笑とともに小さく息を吐いた。
(捨てられてなるものか)
ヤコツィンは心の中でそう呟き、湯から上がると、慎重に香油を塗り込んだ。甘い花の香りと、木の樹脂の深い匂いが混じり、肌の上で薄い膜になる。鏡代わりの磨かれた銅板に映る自分の姿を見つめ、目元に煤を引き、唇にわずかに赤をさした。長いまつ毛の陰からのぞく黒い瞳に、年長の女ならではの冴えた光が宿る。
衣は一枚きりの薄物を選んだ。布は指先が透けるほど柔らかく、歩くたびに膝と腿のあいだをかすめて揺れる。胸元と腰のあたりには、彼女の線をなぞるように影が落ち、布越しに温もりがわずかに外へ滲む。足首には金と貝殻の飾りを巻き、歩くたびにかすかな金属音が鳴った。
厨房に入ると、火床ではすでに炭が赤く光り、とうもろこしの香ばしい匂いが立ちのぼっていた。ヤコツィンは自ら手を動かし、焼きたてのトルティージャを重ね、豆の煮込みに香草をちぎり入れる。焼いた肉からは脂と肉汁の濃い香りがにじみ、玉ねぎと青唐辛子の辛い匂いが鼻先を刺した。鍋の中で煮立つ音、木の匙が土器の椀に触れる軽い音が、彼女の高ぶった鼓動と重なって聞こえる。
やがてアルバロが現れる足音が、石の床を伝って近づいてきた。革靴が床を打つ低い音、付き従う者たちの気配、それが一つ一つ近づくたびに、ヤコツィンの胸の奥で何かが締めつけられる。
戸口に姿を現した王は、いつものように軽い笑みを浮かべていた。その視線が、薄物一枚をまとった彼女の姿をとらえた瞬間、笑みがわずかに止まり、目の奥の光が変わる。その変化を、ヤコツィンは逃さなかった。
「昼食のしたくができております、我が王」
彼女は膝を折り、香の混じった髪の匂いをふわりと立ちのぼらせて頭を垂れた。薄布の下で動く肩と胸の線が、息とともにゆるやかに上下する。
アルバロは卓についたが、皿にはほとんど手を伸ばさなかった。代わりに、ヤコツィンが杯を傾けるたび、陶器の縁からこぼれる水の滴や、彼女の指先の動きに目を奪われている。ふくよかな腕が彼の前を横切るたびに、肌の上に光る香油の薄い輝きが、炎の揺らぎと重なってちらりと光った。
「よく気が利く女だな、お前は」
アルバロの声には、いつものからかいの調子と、抑えきれない興味が混じっていた。
「陛下のお側に置いていただけるだけで、ありがたいことです」
ヤコツィンは視線をあげず、静かに答えた。器を差し出す指先は震えず、しかし内側では血が熱く流れているのをはっきりと感じていた。彼の視線が、肩から胸元、ゆるやかに締められた腰のくびれへと、確かめるように滑っていく。空気が、香と献立の匂いではなく、もっと重たいものを含み始めた。
しばらくのあいだ、匙の触れる音も会話も途切れがちになり、代わりに二人の呼吸のリズムだけが、広間の静けさの中でゆるやかに重なっていった。
やがて、アルバロが卓から身を離した。椅子が石畳の上で低く軋む音がして、その影がヤコツィンの上に落ちる。彼の手が、薄布越しに彼女の肩へそっと触れた。布の上からでも、若い男の掌の熱と重みがはっきりと伝わる。
「昼食は、もう十分だ」
耳元で囁く声は低く、笑いを含んでいたが、その奥には昨夜から持ち越した欲と、何かを確かめたいという固い決意が混じっているように聞こえた。
寝所に移ると、外の光は壁の隙間から細い帯になって差し込み、部屋の中を柔らかく照らした。湖からの風は遠くなり、かわりに寝具に染み込んだ香と、人の体温の匂いが空気を満たしていく。ヤコツィンは自ら寝台に身を横たえ、その上に降りてきた若い王の重さを全身で受け止めた。布と肌が擦れる小さな音、絡まる指、近くで聞こえる心臓の鼓動。すべてが、長い年月を生きてきた彼女の身体の奥深くをひとつひとつ叩き起こしていった。
長い口づけの合間に、アルバロは何度も彼女の名を呼んだ。その響きが耳の奥から胸へ、胸から腹へと沈み、やがて熱となって広がる。ヤコツィンはその呼び声に応えるように、腕を伸ばして彼の背を抱き寄せ、自分の柔らかな身体を彼の好きなように委ねた。昼の光は次第に霞み、部屋の中は、肌の塩の匂いと汗の湿り気、乱れた寝具のざらりとした感触で満たされていく。
どれほどの時間が過ぎたのか、二人がようやく息を整えたとき、寝台の周りには、落ちた髪飾りと絡まった布が散らばっていた。胸を上下させながら天井を見上げるアルバロの頬には、満ち足りた笑みが浮かんでいる。その視線が横を向き、彼の腕の中で静かに息をつくヤコツィンの横顔をとらえた。
「お前、昨日よりもずっと怖い顔をしていたぞ」
冗談めかした声に、ヤコツィンは少しだけ目を伏せ、笑った。喉の奥から漏れた笑いはかすれ、しかし甘く湿っている。
「怖かったのは、捨てられるのが怖かったからかもしれません」
「捨てる、か」
アルバロは天井を見据えたまま、短く息を吐いた。その指先が、ヤコツィンの肩から腕へ、ゆっくりと線をなぞる。汗で少し冷えた肌の上を行き来する指の温かさが、言葉より雄弁に彼の気持ちを伝えていた。
「今のお前を見て、それを考える気はなくなった」
それは約束ではなく、宣言でもなかった。だが、ヤコツィンには十分だった。彼女はそれ以上何もねだらず、ただ彼の胸元に額を寄せた。鼓動の音が耳に心地よく響き、そのたびに、深いところから安堵と幸福が湧き上がる。
「陛下のお側で、できることをいたします。それだけです」
低く囁いた言葉には、権力も地位も求めない、ただ一人の男へのまっすぐな忠義と愛情が込められていた。
アルバロはその言葉を聞き、静かに笑った。トイヤウアの燃えるような若さとは違う、年長の女ならではの重みと静けさを持つ愛情。その両方を、彼は今、己のもとに引き寄せているのだと実感する。
寝所の外では、遠くテスココ湖の水音がかすかに響いていた。波が堤にあたって砕ける低い音が、二人のゆるやかな呼吸と溶け合い、新しい一日と、新しい絆の始まりを、ひそやかに告げていた。




