第8話――「カカオと領地の約束」
テノチティトランの夜
アルバロ〈25〉はトイヤウア〈38〉とヤコツィン〈42〉の二人を閨に呼び、今後の方針を告げた。
「俺はお前たちが気に入り、妾にすることを決めた。どこでも好きな都市を選べ。お前たちにやろう」
トイヤウア〈38〉とヤコツィン〈42〉は、まさか自分たちが若い王妃や王女を差し置いて妾に選ばれるとは思っていなかったので、呆けるほど驚いた。また助かるとしても、どちらか一人だろうと覚悟していたから、ふたりとも助かると聞いたとき、胸の奥の固い塊がほどけ、思わず互いの顔を見合わせた。
トイヤウアは、メキシコ湾岸にあるタバスコ地方を望んだ。湿った熱気に包まれたその地方は、高級カカオの名産地として知られている。幼いころからあの黒く香る豆の匂いに慰められてきた彼女にとって、タバスコは甘い夢のような土地であった。
「タバスコ地方の領主とならせていただきとうございます」
そう願い出ると、アルバロは迷いなくうなずいた。
「よい。テスココ湖地方を平らげたら、メキシコ湾岸へ進み、お前のためにタバスコ地方を征服してやろう」
若い征服者の声には、虚勢ではない確信があった。その響きに、トイヤウアの胸は高鳴り、長く冷えていた心のどこかが、焚き火にあぶられた石のようにじんと熱を帯びた。
一方、ヤコツィン〈42〉は、テスココ湖の東岸に広がる街テスココを欲した。湖と堤防に守られた都は、古くから詩人と職人の街として栄えている。
「私はテスココを望みます」
その願いに、アルバロは即座に笑みを浮かべた。
「良い目をしている。今この時より、お前をテスココの領主と定める」
その言葉は、長い不安の夜を切り裂く一筋の光のようであった。ふたりの女は膝をついて頭を垂れ、自分たちに差し伸べられた運命の手を、まだ信じ切れない面持ちで見つめた。
やがてアルバロは、ゆったりと立ち上がり、唇の端に薄い笑みを浮かべた。
「話はここまでだ。今宵の夜伽はトイヤウアとする。ヤコツィンは下がれ」
こうして、約束と領地の分配が済むと、寝所には若い王とタバスコを望んだ女だけが残った。
広い寝所には、油を落として焚いた松明の火が揺れ、壁の彩色を赤く照らしている。祭儀の香に混じって、昼のあいだに焙じたカカオの甘い匂いが、まだ空気の底に残っていた。
ふたりきりになると、トイヤウアの胸は強く鳴り始めた。若い征服者の視線が、真正面から自分ひとりに注がれている。その重みが、肩から背中へと温かく流れ落ちていくようであった。長く宮廷の片隅に押し込められ、いつ捨てられてもおかしくない身だと思っていた女が、今は王の言葉ひとつで「妾」と呼ばれ、遠いタバスコの地までも約束されている。信じたいが、まだ信じ切れない幸福が、喉の奥でつかえていた。
近づいてきたアルバロの体温が、衣の上からでもはっきりと伝わってくる。彼の胸に額を押しつけると、心臓の鼓動が耳を打った。若い血が、太鼓のように規則正しく鳴っている。その音に包まれていると、長い年月のあいだこわばっていた体の芯が、少しずつほどけていった。
しかし、身長差のことを思い出した瞬間、トイヤウアははっと我に返った。見上げれば、彼の顔は天井近くにあるかと思うほどだった。腰骨の位置も違う。うまく抱き合えるのか、彼をがっかりさせはしないかという不安が、冷たい小石のように胸の底に落ちた。
彼女は一度、アルバロの胸から身を離し、深く息を吸い込んだ。カカオと香の甘さ、石の床に染み込んだ昼の熱気、夜風が運んでくる湖の湿った匂い。それらをまとめて肺に取り込みながら、自分に言い聞かせる。ここで怯えれば、二度とこの場所には戻れない、と。
やがてトイヤウアは、アルバロの手を取って寝台へ導き、自らがその上に進んで腰を下ろした。若者を見下ろす形になることに、一瞬ためらいを覚える。だが、恐る恐る彼の腰に脚を回し、自分の重みを預けてみると、思いのほかすんなりと形が合った。骨同士がぶつかることもなく、互いの息遣いが胸のあたりでぴたりと重なる。
彼女が上に立つように身を動かすと、アルバロの両手が自然と腰と背へ伸びた。その指先は、粗野な征服者のものとは思えないほど巧みに力加減を変え、彼女の動きを支え、導いた。トイヤウアは、自分が長い年月のあいだ忘れていた身のこなしを、体の奥から呼び覚まされるのを感じた。若い王の吐く息が腹のあたりに熱く触れるたび、背筋を細い火が駆け上がる。
時を重ねるうちに、トイヤウアの耳には寝台の軋む音と、アルバロの荒くなる呼吸だけが残った。指の間には汗が滲み、髪は首筋に張りつき、舌の上には塩とカカオの名残が絡みつく。胸の奥で何かが波打ち、力が一気に抜けた瞬間、世界が白くはじけたように感じた。
そこから先は、若さの差がはっきりと出た。アルバロの欲求はまだ尽きず、抱き寄せる腕は少しもとうとつかない。トイヤウアは何度も体勢を変えながら応じようとしたが、四十路に近づいた身には、夜の長さがじわじわと堪えてきた。ふくらはぎは震え、腰は火箸を突き立てられたようにだるく、肩に回した手から力が抜けていく。最後には、若い王の胸にもたれかかるようにして、荒い息を吐くことしかできなくなった。
どこかでアルバロの指が彼女の髪を梳き、優しく名を呼んだ気がする。だがその声も、やがて遠くなった。燃え尽きた炉の底に残る炭のように、体の芯だけがじんじんと熱いまま、意識はすうっと暗闇に沈んでいった。
次に目を覚ましたとき、寝所には薄い朝の光が差し込んでいた。布越しの光は乳色で、松明の赤とは違う冷たさを帯びている。トイヤウアは天井を見上げたまま、まばたきを繰り返した。喉はからからで、舌には昨夜飲んだカカオと酒の渋みがこびりついている。背中や太ももには心地よい筋肉痛が広がり、指を握りしめると、関節がぎしぎしと軋んだ。
横を見ると、アルバロはすでに半身を起こし、素肌に薄い布をまとっただけで、寝台の端に座っていた。若い背中の線はまっすぐで、肩越しに見える横顔には疲れの色がない。彼がこちらに視線を向けようとした瞬間、トイヤウアの心臓が跳ねた。
昨夜、自分がどれほど乱れていたかを思い出す。声も体も抑えが効かず、若い王に縋りついたこと。彼の胸に顔を埋め、何度も名を呼んだこと。記憶の断片が一つひとつ浮かび上がるたび、頬の内側から熱が込み上げてくる。彼の前で裸同然になって泣き笑いしていた自分を思い出すと、とても正面から顔を合わせる勇気が出なかった。
トイヤウアは慌てて上体を起こし、手近な布をかき寄せて肩を覆った。体を動かした拍子に、寝台の上の布がこすれ、昨夜の汗と香の匂いがふわりと立ち上る。その生々しい匂いに、自分の乱れっぷりがまた思い出され、耳の先まで赤くなる。
「……朝食の支度をいたします」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。アルバロの返事を聞く前に、彼女は寝台から足を下ろし、床の冷たさに身を震わせながら衣をかき集める。足首にまとわりつく布の感触さえ、今は恥ずかしくて仕方がない。
急いで身なりを整え、髪をざっと結い直す。鏡を見る余裕はない。寝所を出ると、廊下の石の冷気がほてった頬を刺し、夜通し燃えていたような体の熱が少しずつ引いていく。台所へ向かうあいだ、彼女の頭の中では、タバスコの湿った森と、昨夜の寝所の熱が入り混じっていた。カカオの実を割ったときの香りと、若い王の肌の匂いが、妙に似た甘さを帯びて記憶の中で重なっている。
やがて、とうもろこしを挽く石臼の音と、火を起こす薪のぱちぱちという音が、彼女の手を現実に引き戻した。粉をこねる指先に力を込め、鍋に豆と唐辛子を落とし、湯気の向こうでトルティージャが膨らんでいくのを見つめる。香ばしい匂いが立ち上るころには、胸の高鳴りも少し落ち着いていた。
それでも、盆に皿を載せ、寝所へ戻る道すがら、トイヤウアの視線は床から上がらなかった。石畳の模様ばかりを見つめ、足音を小さく整え、扉の前で一度深呼吸をする。扉の向こうには、自分を妾と呼び、タバスコの地を約束した若い王がいる。昨夜、自分のすべてを見た男が、涼しい顔で朝の食事を待っている。
扉を押し開けた瞬間、寝所に残る夜の熱と、焼き立てのトルティージャの香りが混じり合った。トイヤウアは盆を抱えたまま、ほんの一拍だけ立ちすくみ、結局、アルバロの顔を見ないようにして膝を折った。頬に落ちる髪が、恥じらいを隠す薄い幕になってくれることを、ただ祈るしかなかった。




