第7話――「牢庭の血、石の秤」
テノチティトランの牢は、宮殿の北側にある石造りの一角であった。厚い石壁が朝の冷気を内側に溜め込み、湿った苔の匂いと、長く閉じ込められた人間の汗と尿の臭いが重なって、息をするたび喉に貼り付く。中庭には砂が薄く敷かれており、何度も踏み固められた足跡の上に、朝露が白く浮かんでいた。
その中庭に、テスココの男たちが並ばされていた。鎖で手首をつながれ、足元には鉄の輪が嵌められている。カカマツィン、イシュトリルソチトル、テトラウェウェツキツィン、コアナコチン……肩の線や顔つきだけを見ても、同じ家の血が通っているのが分かった。
アルバロは、中庭を見下ろす石の回廊に立っていた。欄干の冷たい石に手を置くと、そこから下でうごめく人間の体温が、かすかな霧のように立ち上ってくる気がした。背後の回廊には、黒衣に身を包んだ女たちが押し込まれている。王妃トイヤウア〈38〉、マトラルテン〈28〉、シウァコアトル〈24〉、トラソチトル〈19〉、イツクィクァウア〈18〉、ヤコツィン〈42〉、トラウィスカリ〈18〉。彼女たちは、夫や息子、兄弟たちの首筋を見下ろすようにして立たされていた。
足元では、子どもたちが母親の衣の裾にしがみついていた。ネツァワルテンは唇を噛み、目だけで父を追っている。シパクトリは意味も分からぬまま、鎖の光に怯えた目を向けている。テナミクスは何度も瞬きをしながら、涙が溢れないように必死で堪えていた。シトラリは、何が起きるのか分からず、ただ母の腰に顔を押し付けている。トラウィスカリの腕には、マシュトラが眠りもせず、大きな瞳を見開いていた。
中庭の端には、弩兵が二列に並んでいた。弦には太い矢が番えられ、火縄銃の兵も後列に控えている。油と弦の脂と、火薬の匂いが、牢の湿気と混じって鼻を刺した。合図を待つあいだ、弓の木が時折わずかに軋み、その音がやけに大きく響いた。
「アルバロ、やめてくれ……頼む」
中庭から、かすれた声が上がった。誰が言ったのか、声だけでは分からない。カカマツィンか、別の王子か。鎖のきしむ音がその声を飲み込み、砂の上で膝をつく音が続いた。
回廊の上で、トイヤウアが欄干にすがりついた。指の節が白く浮き上がるほど強く石を握りしめ、声を張り上げた。
「カカマ! 顔を上げなさい! ネサワルピッリの子なら、膝で死ぬな!」
カカマツィンは、ゆっくりと顔を上げた。砲煙と牢の暗がりで痩せた頬に、まだ王だった頃の骨格が残っている。彼は母のほうを一瞬だけ見上げ、かすかに顎を引いた。それは返事にも、別れにも見えた。
マトラルテンは声を出せなかった。喉が固くなりすぎて、空気が音に変わらない。ただ唇だけが何度も開いたり閉じたりし、そのたびに「夫」という言葉が形を作りかけては消えていく。代わりに、彼女の胸の奥からは短い息だけがこぼれた。ひゅう、ひゅう、と乾いた笛のような音である。
「ネツァワルテンを見て! あの子から父を奪う気か!」
シウァコアトルが叫んだ。声は途中で裏返り、回廊の石壁にぶつかって砕けたような響きになった。彼女は両腕で子どもたちを抱き寄せながら、アルバロのほうへ顔を向けた。涙と怒りで腫れた目が、まっすぐこちらを射抜く。
「我が子を人質にするなら、せめて父の顔を最後まで見せてやれ! 背中で死なせるな!」
トラソチトルは、歌の得意な声を悲鳴に変えていた。細く高い声が続けざまに迸り、名前と、古い神々の名と、呪いの言葉とが入り交じる。
「イツクィクァウア!」
妹の名を呼んだのは誰だったのか。イツクィクァウア自身は、声のするほうを探すようにきょろきょろと首を動かし、次の瞬間には、自分の喉から出た叫びで耳を塞いだ。
「お願いだ、兄上を、兄上たちを返して!」
ヤコツィンは、若い者たちとは違う低い声で呟いていた。彼女は欄干に額を押し当て、目を閉じたまま、ほとんど聞き取れない声で古い祈りを唱えていた。その言葉は、神々に向けられているのか、息子に向けられているのか、自分にも分かっていないようだった。
アルバロは、女たちの声を一つひとつ区別しようとはしなかった。叫びも祈りも呪いも、牢の石壁に当たって混ざり合い、ひとつの濃い音の塊になって中庭に降り注いでいる。その上に、火薬の匂いだけが冷たく重なっていた。
「始めろ」
彼が小さく言うと、弩兵隊長が右手を挙げた。中庭の空気が一瞬止まる。弦が一斉に引き絞られ、木と腱がきしむ音がする。火縄銃の兵の前では、細い火縄の赤い点が小さく揺れた。
合図の手が振り下ろされる。次の瞬間、甲高い弦の音と、短い爆ぜる音が重なった。矢が空気を裂くヒュンという音が、中庭の上を何本も横切る。続いて、肉と骨に何かが深く食い込む鈍い音が連続して響いた。
カカマツィンの身体が、胸を撃ち抜かれて後ろに仰け反る。砂を薄く敷いた地面に倒れ込むとき、鎖が一度だけ高く鳴り、すぐに動かなくなった。イシュトリルソチトルは歯を食いしばったまま前に崩れ、テトラウェウェツキツィンは膝から折れて、砂の上にうずくまった姿勢のまま動かなくなった。コアナコチンの口からは、名前とも呻きともつかない音が一度だけ漏れ、それきり途絶えた。
回廊の上で、女たちの声が一斉に割れた。誰の声とも判別できない叫び、名前を繰り返す声、喉を裂くような泣き声。トイヤウアはその場に崩れ落ち、マトラルテンは欄干から身を乗り出そうとしたところを、兵に両腕を掴まれて引き戻された。シウァコアトルは子どもたちの頭を抱え、彼らの目を覆おうとしたが、指のあいだから血に濡れた中庭の光景がどうしても漏れ出てしまう。
「見ちゃいけない、テナミクス、見ないで……」
彼女はそう囁いたが、テナミクスの目はどうしても父のほうを向いてしまう。視界の端で、砂の上に広がる赤い色が広がっていくのを、子どもの目は正確に捉えていた。
トラウィスカリの腕の中で、マシュトラが声を上げて泣き始めた。子どもの涙は、何が起きたのかを理解したからではない。ただ、母の胸が激しく上下し、その鼓動が乱暴に耳に響くのに怖くなっただけだった。だが、その泣き声は、ほかの悲鳴と同じ高さで牢の石にぶつかり、同じように跳ね返って中庭に降っていった。
血の匂いが急速に濃くなった。湿った砂の上に広がる液体はすばやく暗く変色し、そこに朝の光が当たると鈍い光沢を放った。矢じりや鉛玉が通り抜けた衣の裂け目からは、布と皮膚と布の裏側に染み込んだ汗の臭いが一度に解き放たれ、牢の空気はさらに重くなった。
やがて、弩兵たちは新しい矢を番えることをやめ、火縄銃の火も消された。中庭には、倒れた男たちの静かな列だけが残った。鎖が時折かすかに揺れ、その金属音が、まだ終わっていないと錯覚させる。しかしもう、動く者はいなかった。
アルバロは、しばらくその光景を見下ろしていた。女たちの嘆きは続いているが、それもやがて嗄れ、息と涙の音だけになるだろう。後顧の憂いは、ここでひとつ減った。残りの女と子どもは、別の石壁の内側に移される。湖の秤の上で、テスココという名の皿は、完全に片方へと傾いた。
◇ ◇ ◇
夕刻、テスココ王族の女たちと子どもたちは、宮殿脇の小さな広間に集められていた。厚い石壁は昼の熱をほとんど蓄えられず、床の石板からは、地下の湿り気を含んだ冷たさがじわじわと足裏に這い上がってくる。狭い窓から差し込む光はすでに赤みを帯び、壁に掛けられた松明の火が、その赤と混ざり合って女たちの顔に揺れる影を刻んでいた。
トイヤウアは、粗い織りの黒衣の袖の下で両手の指を組んでいた。冷えた指先に、自分の脈がかすかに打つのを感じる。布越しに触れる自分の骨ばった指は、ネサワルピッリの妃として金や羽根の飾りに触れていた頃とは違う形に変わっていたが、それでもまだ、宮廷で人を黙らせるときに机を一度叩いたあの力を覚えていた。
ヤコツィンは、少し離れたところで壁にもたれて立ち、腕の中のマシュトラをあやしているトラウィスカリの横顔を見ていた。孫ではない幼子の体温が部屋の空気に小さな島のような温かさを作っている。その温かさが、つい先ほど牢庭で見た血の冷たさと、頭の中でうまく重ならない。胸の内側には、怒りと空洞が同時に張り付いていた。
マトラルテンとシウァコアトル、トラソチトル、イツクィクァウアは子どもたちを囲むように座り込み、ときおり低い声で言葉を交わしていた。言葉の中身はほとんどが実用的なものだった。誰がどの子を抱くか、夜が来たらどこで眠らせるか、泣き出したときに水をどうやって手に入れるか。泣き声を上げれば兵の気に障るかもしれない、という恐れが、若い声の端を硬くしていた。
やがて、廊下の奥から足音が近づいてきた。鎖帷子が擦れ合う乾いた音と、革靴が石を踏む鈍い音が、ひとつ、ふたつ、途切れずに重なっていく。女たちの背筋が自然と強張り、子どもたちの指が母親たちの衣の裾をぎゅっと掴んだ。
扉が内側へ押し開かれると、外の廊下の冷たい空気が一気に流れ込んできた。火の匂いと血の匂いを薄めるように、微かな潮と湖水の匂いが鼻を掠める。入り口には黒人兵が二人立ち、その間からアルバロが姿を見せた。
彼はいつもの外套ではなく、淡い色の綿織りの衣をまとっていた。戦場で浴びた血や硝煙の汚れは見えず、代わりに、香木を焚いたようなほのかな香りが彼の身体の周りに薄い膜を作っている。その香りが、牢庭の血の臭いと混じり合い、女たちの喉の奥で違和感のある苦みになって残った。
誰も膝をつかなかった。膝をつくという仕草が、さっき中庭で何を意味したのかを、全員がまだ覚えていたからである。女たちは立ち上がる者、子どもを抱き寄せたまま座ったままの者、それぞれの姿勢でアルバロを見つめた。
「湖は静かになった」
アルバロは部屋の中央まで進むと、周囲を一度だけ見回した。その目は、一人ひとりの顔を確かめるように動いたが、憐れみも怒りも浮かべてはいなかった。ただ、この部屋にいくつの駒と血筋が詰まっているかを数える商人の目に近かった。
「テスココの王は、今日で死んだ。明日から湖の東岸には、新しい名を掲げる王を立てる」
その言葉に、若い妃たちの肩が一斉にわずかに震えた。ネツァワルテンが小さく息を呑む音が、母マトラルテンの衣の影から聞こえた。ヤコツィンは歯の裏で舌を押さえ、何も言葉が飛び出さないようにした。
「誰の息子にその名を名乗らせるかは、これから決める」
アルバロは続けた。
「湖は見ている。テスココの女が、どのように子を守り、どのように新しい秩序と結びつくかを」
その言い回しが何を意味するのか、部屋にいる全員が理解した。女たちの胸の内で、それぞれ別の形を取っていた恐れと望みが、ひとつの言葉にまとめられていく。
「トイヤウア」
名を呼ばれた瞬間、トイヤウアの背筋が、思わず僅かに反った。頭の中では、別の声が同時に響いていた。ネサワルピッリが王座の階段を降りるときの足音、カカマが幼い頃、湖岸で石を投げ合って遊んだときの笑い声。そうした記憶の上に、今、征服者の声が重なった。
「ヤコツィン」
続いて呼ばれた名に、若い女たちの視線が一斉に移った。ヤコツィンは壁にもたせていた背中を離し、ゆっくりと一歩前へ出た。心臓が胸の中で不規則に打ち、胸骨の裏側を拳で叩かれているようだと彼女は思った。イシュトリルソチトルの顔が一瞬浮かび、その顔に向かって「見ていなさい」と心の中で言った。
「湖の王家の古い血を、こちらへ寄せる」
アルバロはそう言って、二人を手招きした。
トイヤウアは、軽く目を閉じてから歩き出した。足裏に感じる石の冷たさは、宮殿の石段のそれとそう変わらない、と自分に言い聞かせる。違うのは、自分がどこへ向かっているかだけだ。湖の秤の上で、すでに片方に傾いてしまった皿を、ほんの少しでもこちら側に引き戻せるなら、膝の痛みくらいどうでもよい、と考えた。
ヤコツィンも、一歩ごとに裾を整えながら前に進んだ。背後から、トラウィスカリの浅い呼吸が聞こえる。幼子を抱いたまま動けない若い妃の胸の鼓動が、空気の震えになって背中に当たる気がした。ヤコツィンは振り返らなかった。振り返れば、そこに縋りついてしまうと分かっていたからである。
アルバロのすぐ手前で二人が立ち止まると、彼はわずかに顎を上げて二人を見比べた。
「今夜、お前たちはこの宮殿の奥、わたしの寝所で眠る。テスココの妾として、王の夜伽を務めよ」
部屋の隅で、マトラルテンが唇を噛む音がした。シウァコアトルは目を伏せ、指先でネツァワルテンの髪を撫でた。トラソチトルは、喉の奥で何かを飲み込むようにして顔を上げた。
トイヤウアは、「妾」「夜伽」という音が胸の内側で何度も反響するのを感じながら、ゆっくりと息を吐いた。自分の体温が今夜どこへ置かれるかなど、もはや問題ではない。問題は、その体温の隣で、誰の名が東岸の王として囁かれるかだ。
ヤコツィンは、胸の奥で計算を始めていた。征服者の床に上がる女は今宵は二人に限られるが、そこから伸びる血の枝は何本もあり得る。自分の子と孫、まだ見ぬ子孫たち。湖のほとりに再び自分たちの家の旗が立つ可能性があるなら、そのために差し出せるものは何か。羞恥も憎しみも消えはしないが、それらは決断の邪魔にはならない、と彼女は思った。
アルバロが軽く手を振ると、黒人兵が二人の後ろに回り、扉の外へ道を開けた。廊下の向こうには、香木を焚いた煙と、洗い立ての布の匂いが微かに漂っている。
トイヤウアとヤコツィンは、並んで歩き出した。互いに視線を交わしはしなかったが、歩調は自然と揃っていた。足音が石の廊下に規則正しく響き、その音が少しずつ遠ざかるにつれて、広間に残された女たちの耳には、自分の心臓の音ばかりが大きくなっていった。
扉が静かに閉じられると、松明の火が一瞬揺れ、部屋の空気がわずかに重くなった。湖の外では、日没前の最後の光がテスココ湖の水面に薄い帯を描いているはずだった。その光の下で、古い王家の夜が、別の形へとゆっくり塗り替えられていこうとしていた。




