第6話――「湖上の砲火、沈む声」
1520年2月1日の夜明け前、テスココ湖の東の空はまだ墨を溶かしたように暗く、地平線のあたりだけが、わずかに灰色ににじんでいた。湖面は冷え切って静まり返り、カヌーも鳥もいない水の板だけが、低い雲の影を映している。その上に、黒く膨らんだ影が、規則正しく並んで浮かんでいた。砲を積んだ舟が500艘、テスココの岸を扇のように取り囲み、夜のあいだじっと息を殺していたのである。
アルバロは、旗艦の砲舟の甲板に立っていた。湿った冷気が外套の襟もとから入り込み、首筋をじわりと冷やす。掌を欄干に置けば、木肌の下から、湖のうねりがかすかな揺れとなって伝わってきた。船腹の奥では、黒色火薬の樽がぎっしりと並び、その上に丸く削った石の砲丸が積まれている。火薬と油と湿った木の匂いが狭い空間にこもり、甲板の上まで薄く這い上がってきていた。
周囲の砲舟では、黒人兵とアステカの水夫たちが無言のまま持ち場についていた。砲のそばに立つ兵は、息が白くならぬように口を固く閉じ、指先だけで火縄の感触を確かめている。水夫たちは櫂に体重を預けて舟を定位置に保ち、わずかに軋む音に耳を澄ませていた。湖面には、櫂の先から落ちた水滴が小さな輪を描くだけで、鳥の声も祈りの歌もなかった。
やがて、東の空が薄い橙色に変わり始めたころ、湖の対岸から低いざわめきが風に乗ってきた。テスココの砦の上に、まだ火を落としていない松明の赤い点が幾つも揺れ、その下の湖岸から黒い筋が水の上へ滑り出してくる。櫂の音、声の塊、木と水がぶつかる乾いた音が、暗闇の底でひとつの波になって押し寄せてきた。
テスココの反乱軍であった。カヌーが次々と岸を離れ、二万名を載せた黒い帯になって湖面を西へ伸ばしていく。前列の兵は槍と弩を握り、後列は必死に櫂を漕ぐ。まだ朝の光が弱いため、彼らの顔は影に沈んでいたが、テノチティトランの方向を向いた目のひとつひとつが、熱に浮かされたようにぎらついているのが、距離を隔てても感じ取れた。
テスココ軍がまだ武具を手にしたまま湖岸に列を作り、湖面へ漕ぎ出す刻を待っているあいだも、アルバロ軍旗艦の甲板だけは別のざわつきで満ちていた。油と煤で黒く汚れた砲身は、まだ一度も火を噴いておらず、冷えた鉄が夜明け前の空気を吸って鈍く光っている。板張りの床には火薬の煤が靴の跡と混じって黒い筋を描き、その中央で、モクテスマ二世がゆっくりと立ち上がった。
濡れた外套の裾が甲板を引きずり、金の飾りを付けた胸飾りが、まだ冷えきらぬ身体の上で微かに鳴った。湖から吹き上げてくる風が、黒髪のあいだから首筋に入り込む。皇帝だった男の顔は、もう宮殿の石壁に囲まれていた頃の艶を失っていたが、その目だけはまだ、自分が「声」で湖を動かせると思い込んでいるように澄んでいた。
アルバロは、欄干にもたれ、しばらくその横顔を眺めていた。呼びかけが効くとは思っていない。だが、ここで一度言わせておけば、湖盆地の誰もが「モクテスマの声ではもう世界は動かない」と知ることになる。それはそれで価値がある、とも考えていた。
「湖岸に向けさせろ」
命じると、水夫たちは舵と櫂を扱い、旗艦の舳先をテスココの砦に向けた。朝の光が少しずつ強くなり、石垣と見張り台がくっきりと浮かび上がる。その上に、槍と楯を手にした小さな群れが動いているのが見えた。
甲板の縁に立つと、モクテスマの足裏には、火薬と湿った木のざらつきが伝わった。鼻腔には、まだ火のついていない火縄と黒い粉の匂い、湖水の生臭さが絡み合い、喉の奥がひりつく。彼はそれでも胸を張り、肺いっぱいに冷たい空気を吸い込んだ。
「テスココの子らよ!」
声が、湖の上を渡っていった。砦の上の人影が、何人か同時にこちらを振り向く。モクテスマは、かつて大広間でそうしてきたように、両手をゆっくりと広げた。
「武具を捨てよ。湖の上で血を流すな。三つの町の主は入れ替わる。だが湖はひとつだ。湖を裂くな。お前たちの王は……」
そこまで言ったときだった。
砦の上で、カカマツィンが身を乗り出していた。朝の光と煙の気配で汚れた外套の下から、まだ若さを残した顎が見える。彼は振り返り、石礫を詰めた革袋から丸い石を取り出している兵に向かって顎をしゃくった。
「頭だ。あの声を黙らせろ」
兵は無言で頷き、投石器の革の袋に石を載せた。足の裏で石垣の感触を確かめ、腰のひねりに合わせて腕をしならせる。湿った朝の空気を切って、石が弧を描いて飛んでいった。
湖の上では、誰もその弧を目で追えなかった。風の音と、火薬と油の匂いの中で、ただ一瞬、耳のすぐそばを小さなものが掠める気配だけがあった。
次の瞬間、鈍い音がした。熟れすぎた瓜を木槌で叩いたような、湿った衝撃の音であった。モクテスマの頭ががくりと後ろに跳ね、金飾りの冠が少しずれる。額の上で何かが割れた痕のまわりに、赤黒いものが花のようにひろがり、頬を伝って顎へと流れ落ちた。
モクテスマは言葉の残りを口にする前に、膝から崩れ落ちた。指先が空気を掴もうとするように宙をかき、甲板の板の上で虚しく滑った。倒れた身体の下で、古い血と新しい血の匂いが混じり合い、甲板に生ぬるいしみを作る。近くにいた兵が思わず一歩退き、木板の上で靴底が小さく軋んだ。
「……これで、宮殿の話は終わりだな」
アルバロは誰にともなく呟き、手をひとつ振った。黒人兵が二人進み出て、まだ温かい死体を両脇から抱え上げる。冠が床に転がり、金属が木に当たる乾いた音が甲板に響いた。湖面からは、何が起きたかを理解できずにいるざわめきだけが、遅れて届いてきた。
◇ ◇ ◇
アルバロは、湖岸と砦の位置を一度だけ目でなぞると、静かに片手を挙げた。旗艦の甲板の端に立っていた伝令が、その合図を待っていたかのように貝殻の笛を吹く。鋭い音が冷たい空気を裂き、次の瞬間には、500艘の砲舟のあちこちで火縄が一斉に持ち上がった。
火が黒い粉の尾に触れた瞬間、世界は光と音に変わった。砲口から白い閃光が噴き出し、腹の底を殴るような衝撃が甲板を通して全身に突き抜ける。耳の奥で鉄の板が砕けたような響きが鳴り続け、しばらくのあいだ水の音も人の声も消えた。鼻腔には、焼けた硝石と硫黄の刺すような匂いが入り込み、舌の上に苦い粉の味がざらりと残る。
砲声のあとから遅れて、湖面のあちこちで水柱が立ち上がった。テスココの砦をめがけた砲丸は、岸の石垣と木の柵を砕き、その上に立っていた見張り台を折り倒す。砦の上から石と土と人の影がばらばらと湖面へ落ち、冷たい水飛沫が高く弧を描いてから、黒い水に飲み込まれていく。砦の背後からは、割れた石と燃え始めた木の焦げる匂いが混じった煙が立ちのぼり、朝の淡い光をすぐに灰色に染め始めた。
湖上のテスココ軍も、一斉射の直撃を受けた。砲丸がカヌーの真ん中を抉るたび、細く長い船は木の裂ける悲鳴を上げて二つ三つに割れ、その上にいた兵がばらばらと水中に投げ出される。不意に湖の底から突き上げられたような衝撃に、何十艘ものカヌーが横転し、櫂と槍と人の腕が絡まり合ったまま黒い水に沈んでいった。水面には、割れた船板と、ひっくり返った荷籠、必死に掴むものを探す手の群れが浮かび、押し寄せる波とともに散り散りに流されていく。
二斉、三斉と砲声が重なるたび、湖面は音そのもののように震えた。テスココの砦から上がる叫びと、湖上の兵たちの怒号と悲鳴が入り交じり、遠くから聞けばひとつのうなり声にしか聞こえない。アルバロの立つ甲板にも、砲弾の跳ねる音と、砲を抑える鎖の軋みと、水夫の短い号令が途切れなく押し寄せてきた。甲板を踏む足の裏には、砲が吐き出す力の余韻が、いつまでもくすぶるように残っていた。
砦の壁がところどころ崩れ落ち、見張り櫓の何本かが根元から折れるころには、テスココのカヌーの列はもはや列を成していなかった。湖上には、向きの揃わぬ小舟がばらばらに浮かび、あるものは岸へ戻ろうとし、あるものはまだテノチティトランの方向に頭を向けていた。前後左右の区別もつかず、櫂を握った手が空を切るばかりで舟はほとんど進まない。恐怖と硝煙と冷水で喉が焼け、声を張り上げる者の声もかすれていた。
その散り散りの群れの外側を、別の波が静かに取り巻き始めた。弩兵を載せたカヌーである。夜明け前から湖の外側に薄く広がっていた二万艘のうち、一万艘がすでに輪の形を作り、砲舟とカヌーのあいだの水面を埋めていた。低く構えた弩の弦には矢が番えられ、どの船も同じ方向に頭を向けたまま、櫂の動きをぴたりと止めていた。漕ぐ音が消えたため、弦の軋む細い音と、兵たちの荒い息づかいだけが、湖の上に直接響いている。
包囲されていることに気づいたテスココの兵たちは、ようやく動きを止めた。逃げようと舳先を向けた先には必ず弩兵のカヌーがあり、その先には砲舟が浮かんでいた。湖面のあちこちで、櫂が水から抜き上げられて舟底に置かれる音が続き、その音だけがやけに大きく耳に残る。槍や弩を握っていた手が、次々と水の中にそれらを投げ込んでいく。黒い水の上に、木と鉄の影が沈んで消えるたび、残った者たちの肩が小さく震えた。
やがて、砦のほうからも白い布が掲げられた。砲撃で欠けた城壁の上に、煤で汚れた布がひとつ、風に翻る。砦から湖へ続く石段には、武具を捨てた兵たちがひざまずき、顔を伏せているのが遠目にも見えた。湖上のカヌーの上でも、男たちが片膝をついて頭を垂れ、女たちが子どもを抱き寄せながら、冷たい水滴のしみ込んだ衣の裾を握りしめていた。火薬と血と泥の匂いが混じった重い空気の中で、反乱軍の声は、もはや怒号ではなく、ひそひそと漏れる嘆きに変わっていた。
アルバロの合図ひとつで、弩兵たちは弦を緩め、カヌー同士を縄でつなぎ始めた。捕虜となったテスココの男女は、ひとりずつ縄でしばられ、船べりに並ばせられていく。泣き叫ぶ子どもの声、ふるえる手で額に手を当てる老人の仕草、縄が皮膚に食い込む感触が、冷えた朝の空気に生々しく刻まれた。湖面には、さっきまで誰かの命を支えていた木片と、砕けた櫂と、赤く濁った水が薄い帯を作り、その上を小さな波が静かに洗っていく。
テスココの岸辺では、砦の門が破られ、残っていた兵や役人たちも次々と引き立てられていた。砦の内側からは焼けた木の焦げる匂いと、潰れた倉からこぼれた穀物の粉っぽい匂いが混じり合って流れてくる。かつて市場へ向かう荷を待っていた桟橋は、人の列を縛る縄に変わり、テスココはその朝をもって、湖の王の前に膝を折ったのである。
捕らえられた男たちは、鎖と縄でつながれたままカヌーの列に押し込まれ、女たちと子どもも別の舟に乗せられて、テノチティトランへ向かう長い列が作られた。湖面を渡る冷たい風は、まだ火薬の匂いを薄く運び続けている。遠ざかるテスココの岸の上には、砲弾で削られた城壁と、煙の帯だけが残り、その朝の光の中で、かつて反乱軍が漕ぎ出した時と同じように、静かに湖面を見下ろしていた。




