第5話――「湖上の砲舟」
1519年11月初旬の朝。
テノチティトラン北東、堤のはずれに黒い塔と呼んでいる高い炉※と低い炉※が並んでいた場所は、この二十日あまりでもう別の顔をしていた。
湖から引いた運河の岸に沿って、木杭と足場が林のように立ち並び、その向こうには斜めに傾けた太い丸太が、湖面へ向かって三本、四本と伸びている。
滑り台のようなその丸太の列が、これから舟を腹から湖へ産み落とす産道になる予定であった。
黒い塔と低い炉のあたりでは、昨夜から続く火がようやく落ち着き、炉のそばに積まれた鉄の塊を、鍛冶たちが槌で叩いていた。
打撃の音が乾いた空気を震わせ、湖から吹き上げる湿った風とぶつかり合う。鉄の匂い、煤の匂い、削った木の甘さが、まだ泥と藻の臭いが勝っている湖の匂いに、じわじわと混ざり始めていた。
アルバロ・デ・モリーナは、その一帯を見下ろしていた。足もとには、すでに石で固められた広場があり、その片側に鉄を打つ長屋と倉が並び、反対側には木材置き場と、舟の骨組みを組み立てるための屋根付きの台がいくつも並んでいる。
北側の端には、黒い塔と精錬炉。
南側の端には、湖へ滑り込む滑り台と舟の骨。
間に挟まれた石畳の上を、人と荷車と家畜が絶え間なく行き来していた。
背後から、革靴の硬い音が近づいてくる。
「これで、湖の縁ひとつぶんが丸ごと鍛冶場と船大工の腹になりましたな」
四弟マルティンが、眩しそうに目を細めて言った。
「北は火、南は水、真ん中に鉄と木と人。贅沢な配置ですね」
アルバロは短く答えた。
「火と水は離しておくほうがよい。黒い石の火は、油のように土の中へ潜る。火薬庫と船腹を巻き込みたくはないからな」
彼の視線は、広場の一角にある低い土塀のほうへ向かった。そこには、屋根を厚く葺いた倉が並び、入口には「黒い粉」の印を示す簡単な記号が刻まれている。塀の外側には、水を満たした大樽がいくつも並べられていた。黒色火薬の倉は、鍛冶場から距離を取り、運河側とも少しずらしてある。
「あれなら、もし何かあっても被害はここだけで済みますな」
マルティンも頷いて塀を眺めた。
「砲丸や鉄の鎖の倉は、火薬庫から離したほうがよろしいでしょう。弩兵どもは何か落とせばすぐ火花を散らしますからな」
「だからこそ、お前をここに置くのだ」
アルバロは唇の端を吊り上げた。
「鉄と木と湖を、一つの料理として火にかける役である。焦がすなよ」
マルティンは肩をすくめ、敬礼ともため息ともつかぬ仕草をして見せた。
◇ ◇ ◇
鉄の長屋の中では、すでに一門目の砲身が組み立てられていた。
炉のそばには、タラスコから連れて来た銅職人あがりの男たちが、鋳型の土を撫でている。土と砂と馬糞を混ぜたその鋳型は、すでに一度、銅と錫を呑み込んで砲を産み落とした腹を持っていた。青黒い青銅の砲身には、まだ薄く削り跡が残っており、内側はスペイン人の鋳造職人が手にした長い刃物で根気よくさらわれている最中であった。
「銅は足りそうか」
アルバロが問うと、トラテロルコ出身の若い通詞が、横の職人に声を投げた。
「タラスコの山からの塊と、南の交易からの錫で、あと何門分あるかと陛下がお尋ねだ」
「今ある分だけなら、小砲で十数門」
職人は指の節で数を示した。
「トラテロルコの市場にはまだ銅塊が積まれている。北と西の山から運ばれてくる。錫は少ないが、使者に銀の帯を持たせれば、さらに運ばせられる」
アルバロは頷いた。
「よろしい。湖の舟には小砲でよい。砦を砕くのではなく、堤の上と櫓の上から頭を叩くための歯だ」
彼は、壁際に積まれた丸い石の山にも目をやった。砲弾用に選ばれた石である。大きさをそろえるため、一つ一つに縄を巻いて測り、規定より大きければ削り、小さければ別の山に分ける。
「石の砲丸は?」
「黒い粉と石だけでも、堤の上なら十分に騒がせられます」
マルティンが代わりに答えた。
「鉄の砲丸は、あの炉次第。今のところは、鎖と釘と馬の蹄鉄を優先しております」
「よい順番だ」
アルバロは青銅の砲身に手を触れた。冷たい金属の肌の下に、黒い粉の爆ぜる力を想像する。
「湖の上の舟には、まず軽い歯を並べる。鎖と鉄の砲丸は、湖の鎖を締めるときのために残しておけ」
◇ ◇ ◇
造船の台では、太い梁と肋骨のような骨組みが、ゆっくりと舟の形を取り始めていた。
川と湖に慣れたアステカの船大工たちは、最初は戸惑い気味であった。彼らが慣れているのは細長いカヌーであり、今ここで組んでいるのは、それらより幅広く、船腹が浅く、前後に平たい面を持つ「箱舟」である。
「こんな腹の舟では、波でひっくり返る」
年長の大工がぼやくたびに、スペイン人の船大工が肩を叩き、木炭で描いた図を指さした。
「波ではなく、湖の堤のあいだを行き来する舟だ。浅瀬に乗り上げても腹を擦るだけで済む。砲を載せるなら、こういう腹のほうがよい」
肋骨の間には、北の松林から切り出した板がはめ込まれ、その板を留めるのは、これまでアステカの舟には使われたことのない鉄の釘であった。
鉄の釘は、隣の長屋で打たれている。細長い鉄片が赤く熱され、槌に打たれて頭を持ち、桶に落とされてジューッと音を立てる。桶の水には鉄と油の匂いが溶け込み、その水滴が舟大工たちの指先と木板の隙間を冷やしていた。
「鉄の釘は高いぞ」
アステカの大工が、冗談めかして言う。
「だからこそ、抜こうとする者が指を失うように打ち込め」
マルティンが笑いながら返した。
「この釘で打たれた舟と、あの鎖で繋がれた堤から逃げられる者はいない」
◇ ◇ ◇
昼を少し回ったころ、一隻目の砲舟が、滑り台の上に姿を現した。
幅広の腹を持つその舟は、前のほうに低い台を備え、その上に、小砲がひとつ据え付けられている。砲架は厚い木で組まれ、下には新しく打たれた鉄製の輪と鎖が取り付けられていた。
「砲が跳ねても、舟ごとひっくり返らぬように」
マルティンが、砲架を固定する鎖を叩きながら説明した。
「鎖の端は、船底を貫いた梁に繋いであります。砲が暴れれば、自分で自分の足を引くことになる」
舟の両側には、長い櫂を持った水夫たちが陣取っていた。イシュタパラパとテスココの水夫が混じっている。その何人かは、湖の向こうにある自分の故郷の岸を見やり、複雑な顔をしていた。
「テスココの者も乗せるのですか?」
チャックニクが、小声で尋ねた。
「湖で食っている者は、湖の主に従う」
アルバロは淡々と答えた。
「それがモクテスマではなく、別の名であろうともな」
彼は舟の舳先に手を置いた。
「堤の上で槍を構える貴族が反乱を考えたとき、自分の足の下の水が誰のものか、思い出させてやらねばならぬ」
合図の貝殻が鳴った。
滑り台の下に楔として打ち込まれていた木が抜かれ、縄がほどかれる。
掛け声とともに、舟がぎしぎしと音を立てて前へ動き出した。太い丸太の上を滑っていく振動が、甲板の上の男たちの足裏を揺らし、腹の中の砲身も小さく鳴った。
次の瞬間、舟の腹が水を掴んだ。
湖の水が、冷たい音を立てて舟を抱き、泡と飛沫が滑り台の下で白く弾ける。舟はひと呼吸ぶん沈み、それからゆっくりと持ち上がり、安定した揺れに変わった。
「よく浮く」
マルティンが、安堵まじりの声を漏らした。
水夫たちが櫂を動かし始める。舟は、運河の口を抜け、湖の開けた面へ出ていった。
岸には、鉄工と船大工と兵たちが並び、その様子を見守っている。さらに遠く、堤の上の櫓からも、見張りたちが黒い点の動きを注視していた。その先、テスココの町のほうからも、小さな人影が堤に集まり始めているのが、かすかに見えた。
湖の真ん中近くまで出たところで、舟が止まった。
小砲の前に立った黒人兵が、砲口に布で包んだ黒い粉を押し込み、その上に丸く削られた石の砲丸を送る。木の棒でそれらを奥へ突き込むと、砲の後ろから火縄を持った兵が近づいた。
湖の上の風が、一瞬弱まる。
「堤の向こうの耳に届くように」
アルバロは、岸から見つめながら呟いた。
「聞こえたなら、それでよい。あとは堤の向こうが戦を選ぶかどうかだ」
火縄が黒い粉の尾に触れた。
白い閃光とともに、砲口から炎と煙が吹き出し、腹に響くような音が湖面を叩いた。
遅れて、風に乗った衝撃が岸まで届く。胸板の内側が震え、耳の奥で水の音が一瞬消えた。
遠くの堤の上で、テスココの見張りたちが思わず身をかがめるのが見えた。砲丸は、事前に立てておいた木杭の列の一本を砕き、その後ろの浅瀬に泥と水柱を上げた。
岸辺では、鉄工たちが歓声を上げ、船大工は胸を張り、兵たちは口笛を吹いた。
アルバロは、ただ静かに湖を見つめていた。
背後では、黒い塔が細い煙を上げ続けている。その煙は東へ流れ、湖の輪郭に沿って薄い線を描いていた。
湖の上には、新しく浮かんだ砲舟が一隻。やがて二隻、三隻と増え、その列が堤と堤のあいだに鎖のように並ぶ日が来る。
石の王冠の歯は、すでに堤と砦に並んでいた。
これからは、水の上にも歯を並べる番であると、アルバロは静かに計算していた。
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【脚注】
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※黒い塔
トラテロルコでチャックニクが話していた『燃える黒い石』を大量に焼くための背の高い炉。黒い石(石炭)を蒸し焼きにして、鉄を溶かす炉で使う強い燃料を作っている。ここで作った燃料が、隣の精錬炉や鍛冶場での製鉄・砲身づくりに使われている。
※低い炉
黒い塔の隣にある鉄を溶かすための精錬炉。黒い塔で作った強い燃料を焚いて鉄鉱石や屑鉄を溶かし、塊状の鉄を取り出している。この炉から出た鉄が、砲身や砲丸、釘、鎖などを打つための材料になっており、テノチティトランの「鉄の腹」にあたる設備である。




