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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第5章――「湖の鎖、石の秤」

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第4話――「黒い石の炉(後編)」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


 翌朝。


 霧が薄く流れる中、炉の土壁に残った熱は、手のひらで触れても耐えられる程度に冷めていた。


「開けろ」


 上部の覆いが外され、土を崩して中が覗かれる。昨日詰め込んだ石炭の代わりに現れたのは、黒く固まった塊であった。


 それは軽く、握るとじんわりと冷たさが残り、叩けば金属のような乾いた音がした。表面は黒光りし、ところどころに銀灰色の筋が走っている。


「木炭ではないな」


 アステカの鍛冶頭が、驚いたように指先でそれを撫でた。


「軽いのに、爪が立たない。これで炉を焚けば、どれほどの温度が出るか……」


「試してみればよい」

 アルバロは笑みを浮かべた。

「黒い石から余計なものを吐き出させたあとに残ったものだ。火を食う獣の骨だけを取り出したと思え」


 彼はその塊のひとつを掌に乗せ、ぽんと弾いた。軽さと硬さが、数字のように手に残る。これをどれだけ積み上げれば、砲を何門、鎧を何枚、鍬を何本作れるか。指で数える作業が、もう始まっていた。


 炉の隣には、もっと小さな精錬炉が用意されていた。こちらは背が低く、下部に鉄を抜き出すための口がついている。


「北の山の赤い石を」


 マルティンが合図し、袋に詰めてあった鉄鉱石が運び込まれる。粉になるまで砕かれた鉱石が、黒い燃料と交互に炉の口から入れられていく。


「風箱を動かせ」


 山出身の男たちが、山羊革で作られた風箱を踏み始める。踏むたびに、炉の下の口から「フウッ」と息が吹き込まれ、内部の火が低く唸った。


 時間が流れた。


 炉壁は赤く染まり、上部から立ちのぼる熱気が顔を刺す。汗が塩になって目に入るたび、風箱役は交代した。マルティンも、鎧を脱いでしばし風箱の列に加わる。


「まだだ」


 タラスコの職人が、炉の上から吹き出す火の色を見ながら言った。黄と赤が、ゆっくりと白に近づいていくのを待つ。


 やがて。


 炉の下部から、鈍い音がした。


「排出口を叩け」


 土で封じてあった口が槌で打たれる。ひびが入り、割れ目からどろりとしたものが溢れ出した。


 溢れ出したのは、黒ずんだ粘り気のあるスラグばかりであった。鍛冶頭が棒でそれを払いのけ、炉の奥をのぞき込んだが、銀色のものはほとんど見えなかった。


「まだ腹が据わっていないな」


 タラスコの職人が、苦い顔でつぶやいた。


「火は足りるが、熱を食う時間が短い」


「ならば、食わせてやればよい」


 アルバロは、排出口をふたたび土でふさがせた。


「黒い燃料をもうひと抱え足せ。風箱も、さっきより深く踏め」


 再び時間が流れた。炉壁の赤は、さきほどよりも白に近い光を帯びていく。


 ふたたび、炉の下部から鈍い音がした。


「今度こそ、排出口を叩け」


 土で封じてあった口が槌で打たれ、ひびが走る。割れ目から溢れ出したスラグを鍛冶頭が払いのけると、その下から、鈍い銀色の塊が姿を見せ始める。


「鉄だ」


 誰かが息を呑んだ。


 それはまだ粗く、ところどころに不純物の筋が走っていたが、冷えれば槌で叩いて延ばせるだけの金属であった。


「木を焼いて作る鉄よりも、重く、よく伸びるはずだ」


 タラスコの職人が、汗をぬぐいながら言う。


「砲身にも、鎖にも、馬の蹄鉄にも使える。黒い石が続く限り、火は途切れぬ」


 マルティンが鉄の塊を両手で持ち上げた。重さに腕が震えたが、その震えは笑いに変わる。


「これで、北の山を守る弩にも、堤を守る鎖にも困らなくなる」


「そうだ」


 アルバロは、炉と湖と空を順に見渡した。


「スペイン本国がどれほどの艦隊を送ってこようと、あの連中の火は森と畑からしか取れぬ。だが、我々は山と地の底から火を掘り出せる」


 彼は、黒く光る燃料と、まだ蒸気を立てる鉄の塊をそれぞれ片手に持った。


「湖の王冠の歯は、石と木だけでは足りない」


 掌の上の重みを感じながら、静かに言う。


「黒い石の火と鉄の歯を並べたとき、この王冠は本当に噛みつく」


 彼の視線の先には、テスココ湖の水面があった。光を返す湖の輪郭のまわりに、これからいくつもの黒い塔と炉が立ち並ぶ情景を、彼は心の中で描いていた。砲と鎖と農具と釘、湖盆地を締めつけ、支え、外敵を砕く鉄の網が、ゆっくりと形を取りつつあった。


 ◇ ◇ ◇


 夜のテノチティトランは静かであった。寝殿の奥、薄く開けた窓からは、テスココ湖の黒い水面と、遠くの太鼓の音だけが忍び込んでくる。


 アルバロは横になったまま、隣にいる女の髪に指をからめた。トラパリスキショチツィンは、その指先をくすぐるように頬を寄せ、低い声で笑った。


「陛下は、あの湖のことを、どこまでご存じでいらっしゃいますか」


「水が浅くて、泥だらけで、魚より船頭のほうが多い」

 アルバロは冗談めかして答えた。

「それ以外に、何か秘密があるのか」


「ありますとも」

 トラパリスキショチツィンは、彼の胸に頬を乗せたまま、指で空に線を描いた。

「テスココ湖はひとつに見えて、じつは二つの水で出来ています。北は塩湖、南は淡水。もとは混じり合っていたのを、イスタパラパから北へ堤防を伸ばして分けたのです。中央のテノチティトランに、まっすぐきれいな水が届くように」


「なるほどな」

 アルバロは、昼間屋上から眺めた堤の姿を思い出した。

「だから南北の堤は、あの位置なのか。クローディーヌが『湖上を走る鉄板張りの小型ガレー船が通りにくい』と文句を言ってきたとき、半分壊してしまおうかと思ったが……」


 彼は小さく笑い、女の額に唇を触れさせた。


「壊さなくて正解だったようだ」


「壊されたら、私は怒りましたよ」

 トラパリスキショチツィンは肩を揺らした。

「堤がなければ、塩と淡水がまた混ざってしまいます。今でも湖の水だけではそのまま飲めませんから、西の陸地から、カヌーで泉の水を運ばせているくらいなのです」


「やはりそうか」

 アルバロは天井を見上げた。

「だから水道の工匠たちに命じた。チャプルテペックの丘に湧く泉から、直接水を引けとな。石で脚を組んで、三キロほどの水の道を湖の上にかける。『トラシュパナ水道』と呼ぶことにした」


「水の橋、ですね」

 トラパリスキショチツィンは目を細めた。

「チャプルテペックの泉は、昔から王たちが大事にしてきました。あの水がまっすぐテノチティトランに入れば、この都は渇き知らずになります」


「水道頭の老人が、図面を抱えて震えていたよ」

 アルバロは、思い出したように笑った。

「『陛下、こんな長い水路を渡したら、わしが干上がる前に水が着きますかな』と言うから、『十歳若返ったつもりで働け』と言い返しておいた」


「ふふ、その老人に、あとで酒を贈っておきましょう」

 トラパリスキショチツィンは、アルバロの胸に指で小さな輪を描いた。

「水といえば、陛下。チナンパのことは、どこまでお聞きになっていますか」


「名だけはな。湖に浮かべる畑だろう。あれは、湖じゅうに広がっているのか」


「いえ」

 彼女は首を振った。

「もとはテスココ湖の中部あたりから広まりましたが、今では南のショチミルコ……ソチミルコのあたりが中心です」


「なぜ南へ移った」


「古い話になります」

 トラパリスキショチツィンは、ゆっくりと言葉を選んだ。

「ショチミルコの地は、太古の昔からよそ者を受け入れてきました。テオティワカンが滅びたときの人々、メソアメリカ北部から南へ逃れてきたチチメカの民……大旱魃で土地を追われた者たちが、あの浅い水辺に住みついたのです」


「干ばつから逃げた者が、水の上に住む、か」


「ええ。そしてあとからショチミルコの人々がやって来て、湖の農法を教えました。もとはメキシコ中部の湖水地帯で生まれたやり方です。アシのような長い草を刈り取って積み重ね、編んだ枝で囲い、その上に湖の底から汲み上げた泥を載せる。そうやって作った浮島に、穀物や野菜を植えるのです」


 アルバロは、その光景を思い描いた。黒い水の上に、細長い緑の帯がいくつも浮かび、そのあいだをカヌーが行き交う。


「泥の養分と、周りの水の冷たさで、よく育つのだな」


「そのうえ、ショチミルコの人々は、チナンパの端に柳を植えました」

 トラパリスキショチツィンの声は、少し誇らしげであった。

「柳は早く伸びて、根を湖底まで下ろします。根が底をつかめば、その浮島はもう流されません。若いうちは場所を移すこともできますが、年を重ねれば、湖に縫いとめられた畑になるのです」


「湖の上に、動く畑と、年寄りの畑が並ぶわけか」

 アルバロは、彼女の肩を引き寄せた。

「堤で水を分け、水道で水を運び、チナンパで水の上に畑を浮かべる。お前たちは、よくもまあ、水をこれほど手懐けたものだ」


「水が嫌いでは、ここでは生きていけませんから」

 トラパリスキショチツィンは、くすりと笑った。

「陛下も、そのうち湖の夢ばかり見るようになりますよ」


「今は、お前の夢で手一杯だ」


 アルバロはそう答え、女の額に手を置いた。外では湖の波がかすかに石に触れ、遠い太鼓の音が、ゆっくりと夜を刻んでいた。二人の寝物語は、やがてその音と混じり合い、静かな眠りの中へ沈んでいった。

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