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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第4章――「アルバロ、石の王冠をかぶる」

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第10話――「石の王冠、沈む太陽」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


 「タラスコに首まで浸かっていたとき、誰がその首を引き上げてやったと思っている」


 テノチティトランの宮殿の広間に、アルバロ・デ・モリーナの怒声が叩きつけられた。


 香炉から立ちのぼるコパルの甘い煙が、震える声に押しつぶされたように揺れる。石の床には、さきほどまでの戦いの名残として、乾きかけた血の薄い跡が筋を引いていた。開け放たれた戸口からは、湖の湿った風と、焼けた木と羽根の焦げる匂いが入り込んでくる。


 玉座に座るモクテスマ二世は、顔色を失っていた。豪奢な羽根飾りと金の耳輪は相変わらず眩しかったが、その肩はわずかに震えている。


 アルバロは玉座の階段を一段ずつ踏み上がった。靴底が石を打つ硬い音が、沈黙した家臣たちの胸の内で反響する。


 「タラスコの槍が西南から押し寄せてきたとき、お前の兵は砦で崩れかけていた」


 彼は指を一本、王の鼻先に突きつけた。革手袋越しでも、その指先には戦場の熱がまだ残っていた。


 「砦を救い、タラスコの首を砕き、オストゥマをお前の王国の首輪に変えてやったのは誰だ」


 モクテスマの喉が、ごくりと鳴った。香の煙を吸い込んだせいか、目が赤くにじんでいる。答えを待たずに、アルバロは続けた。


 「その恩人を、二番目の皇后に命じて包囲させたな」


 声が一段低くなった。


 「旧王宮を、わたしの家族ごと焼き殺そうとしたな」


 広間の空気が冷えたように感じられた。家臣たちが息を呑み、衣擦れの音さえ止む。


 「褒美の代わりに、火と槍を寄越したか」


 アルバロの瞳には笑いが消えていた。


 「いいだろう、モクテスマ。裏切りには、裏切りにふさわしい支払い方がある」


 玉座の下で立ち尽くしていた皇帝は、ようやく口を開いた。


 「……わたしは、そのような命を下したつもりは……」


 声はか細く、香の煙にかき消されそうだった。


 アルバロは鼻で笑った。


 「命を下さなかった王なら、なお悪い」


 彼は階段を一段上がり、玉座とほとんど同じ高さに身を置いた。


 「お前の名のもとに兵が動き、お前の宮殿の影で、わたしの家族が包囲された。止めなかったなら、許したのと同じだ」


 石の壁に彫られた古い神々の顔が、香煙の奥から二人を見下ろしている。


 「殺してしまってもいい」


 アルバロは平板な口調で言った。


 「ここでだ。今すぐ」


 広間の隅で、イシュタパラパの弩兵たちがわずかに身じろぎした。彼らの弦には、いつでも放てるようにボルトが乗っている。


 モクテスマは、その視線を感じ取っていた。玉座の肘掛けを握る手に、汗がじっとり滲む。


 「……何を、望むのだ」


 ようやく絞り出した声には、かつての命令口調は残っていなかった。


 アルバロの口元に、ゆっくりと笑みが戻った。


 「命が惜しいなら、支払え」


 彼は指を折っていった。


 「まず、お前の全財産だ。金も銀も翡翠も、倉に積まれたカカオ豆や綿布もトウモロコシも、すべてわたしに渡せ」


 重い言葉が一つ一つ、石床に落ちるようだった。


 「それから……第一皇后テオトラルコ〈39〉を、わたしの妻として寄越せ」


 その名が出た瞬間、広間の空気がわずかに揺れた。


 玉座の右側、香煙の向こうに控えていたテオトラルコ〈39〉は、静かに顔を上げた。深い青の布に包まれた肩が、わずかに震えたが、それは恐れではなかった。時折夜ごとアルバロの寝所を訪れていた女の目に、隠しきれない光が差した。


 アルバロは左手を軽く振った。


 「反乱を起こした二番目の皇后トラパリスキショチツィン〈36〉は、お前の妻であることをやめる。わたしの妾として引き取ろう。命を奪う代わりにな」


 広間の左手、第二皇后の一団にざわめきが走った。皇后本人は唇を噛み、顔を背けたが、肩にかかった羽根飾りが細かく震え、その震えが耳輪の金属を触れ合わせてかすかな音を立てた。


 モクテスマ二世は、目を閉じた。瞼の裏には、今朝の戦場が焼きついている。石弾に砕かれた兵の列、雷のような砲声、そして、湖の都を救ったのが自国の軍ではなく、外から来た一人の男であったという事実。


 「……テオトラルコを、お前の妻に」


 絞り出すように繰り返したとき、その声はほとんど掠れていた。


 玉座の横で、テオトラルコが一歩前へ出た。足元の布が石床を擦る音が、妙にはっきりと聞こえる。


 「わたくしは……」


 彼女は短く息を吸い込んだ。香の煙と、アルバロの革鎧についた火薬と馬の汗の匂いが、同時に鼻腔を満たす。


 「喜んで、アルバロ殿の妻となりましょう」


 その声には震えがなかった。目の奥には、王の座を失いかけた男の隣から離れ、新たな力の側に立とうとする女の決意が光っていた。


 第二皇后は反対側で肩を震わせた。涙が頬を伝い、首元の金属飾りにぽたりと落ちる。金属が冷たく鳴る音は、小さな鎖の切れる音のようであった。


 アルバロは、満足げにうなずいた。


 「よろしい」


 彼は玉座から半歩離れ、広間全体を見渡した。


 「だが、これだけでは足りない」


 家臣たちの背筋が、いっせいにこわばった。


 「お前は王だ、モクテスマ」


 アルバロの声は、先ほどよりも静かになっていた。


 「王として責任を取らせる」


 今度は、広間の外、テンプル・マヨールのほうを顎でしゃくった。


 「今日、今からだ。アステカの兵の前で、お前は引退を宣言しろ」


 モクテスマの顔が歪んだ。


 「……何だと」


 「自分の口で言うのだ」


 アルバロは一歩、王座へ近づいた。


 「この都の王は、今日をもってアルバロ・デ・モリーナになるとな」


 香の煙の向こうで、壁の神々の顔が薄暗く笑っているように見えた。


 「テンプル・マヨールの石段で、太陽の下で、兵たちと民の前で宣言しろ。そして神殿の頂で誓え」


 アルバロは、自らの頭を指で叩いた。指先に、汗と髪のざらつきが伝わる。


 「お前の手で、わたしの頭に石の王冠をかぶせよ」


 広間に、ざわめきが走った。


 「そんなことをすれば、この国の神々が……」


 モクテスマの声は途中で途切れた。


 テオトラルコが、今度は彼の袖をそっと掴んだからである。


 「陛下」


 彼女はかすかな声で囁いた。


 「神々は、強い者の側にこそ座されます」


 その指先は冷たかったが、そこから伝わる意志は固かった。


 「ここで拒めば、あなた様の血は石に吸われるだけです。……どうか、わたくしたちの命を残してください」


 モクテスマは、ゆっくりとテオトラルコの横顔を見た。かつて自分のために飾られていた宝石と羽根が、いまは別の男の未来を映している。胸の奥で何かが音を立てて折れた。


 彼は、視線を落としたまま、かすかにうなずいた。


 「……わかった」


 その一言を聞いた瞬間、アルバロの肩から、目に見えない重さがすっと抜けた。


 「決まりだ」


 彼は階段を降りると、家臣たちに向き直った。


 「兵を呼べ。太鼓を鳴らせ。神官には『新しい儀礼』の準備をさせろ」


 太鼓が打ち鳴らされた。低い音が石の壁に反響し、テンプル・マヨールの方角からも応えるようなドラの音が戻ってくる。


 やがて、テノチティトランの中心、大神殿の石段の下に、アステカの兵たちが集められた。羽根飾りと鏡の付いた盾が朝日の中で光を返し、鎧の金属がカチャリと触れ合う。火薬ではなく、汗と香と血とトウモロコシの匂いが渦を巻いていた。


 石段の上には、白い石灰で塗られた神殿がそびえている。その頂の祭壇の横には、重い石の王冠が据えられていた。火山岩を削り出して作られたそれは、太陽と蛇の文様が浮き彫りになっており、触れればひんやりと冷たい。


 モクテスマ二世は、その石段を裸足で登っていた。足の裏に、石のざらつきと冷たさが交互に伝わる。背後からは、アルバロの靴音と、スペイン兵の鉄の足音が続いた。


 頂にたどり着くと、湖の風が頬を撫でた。下を見下ろせば、兵と民の黒い波が揺れている。


 神官が合図を送ると、太鼓が鳴りやんだ。


 「モクテスマ!」


 誰かの叫びが、波のように広がる。


 モクテスマは喉を鳴らし、乾いた唾を飲み込んだ。舌の上には、香と恐怖の苦味がまとわりついていた。


 「……わたしは、モクテスマである」


 声が、石と空に吸い込まれていく。


 「この都の王であった」


 その言葉に、ざわめきが起こった。


 「今日より、この都の王は、アルバロ・デ・モリーナとなる」


 彼は震える手を伸ばし、横に立つアルバロを指し示した。


 兵たちの中を、どよめきが走った。


 アルバロは一歩前へ出て、石の床に膝をついた。だが、その頭は高く、背筋は伸びていた。


 「わたしは、神々の前で誓う」


 モクテスマの声は、次第にかすれていった。


 「この男に、わたしの王冠と……アステカの太陽を、渡す」


 神官の手が、石の王冠を持ち上げた。両手にずしりと重さがかかる。石の縁が指の皮を冷たく圧し、短く息が漏れた。


 その王冠が、ゆっくりとアルバロの頭上に下ろされていく。


 石が額に触れた瞬間、ひやりとした感触が皮膚を走った。王冠の重みが首筋に乗り、背骨に沿って落ちていく。


 アルバロは、目を閉じてその重さを受け止めた。


 石の環の内側には、血と香と火薬の匂いが混じり合った空気がこもっていた。遠くで鳥が鳴き、近くで兵の鎧がわずかに触れ合う音がする。舌の上には、勝利の鉄臭い味が広がっていた。


 「……これで、お前は王ではない」


 モクテスマの口から、誰にも聞き取れないほどの小さな声が漏れた。


 彼は、足元から力が抜けていくのを感じていた。かつて太陽と呼ばれた男の肩は落ち、目から光が消えていく。


 テオトラルコは、石段の途中からその光景を見上げていた。新しい夫となる男の頭上で石の王冠が輝き、古い夫の背中が沈んでいく。その胸の奥で、不安と歓喜が絡み合い、熱い鼓動となっていた。


 第二皇后は、別の段からそれを見つめていた。涙で滲んだ視界の中で、アルバロの姿は巨大に見え、モクテスマの姿は小さく遠くにかすんでいく。指先に食い込む爪の痛みだけが、かろうじて自分がまだここにいることを教えていた。


 太鼓が再び鳴り出した。今度は、敗北を告げる音ではない。新しい名を刻み込むための、重く長い響きであった。


 石の王冠をかぶったアルバロ・デ・モリーナは、ゆっくりと立ち上がった。


 湖の風が、羽根飾りとマントを揺らす。


 彼は、沈んでいく太陽を背に、首にかけられた石の重みを愉しむように、口元をわずかに歪めた。

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