第4話――「印のない樽と王室の印」
潮風の中に、銀貨の匂いはしなかった。
それが、アルバロには少し気に食わなかった。
新しいインヘニオは回り始めている。水車は昼も夜も止まらず、鍋の上には白い湯気が立ちのぼる。だが帳簿に向かうたび、彼の眉間には小さなしわが寄った。
(よく働く工場、よく働く人間。だが……肝心の銀貨が、まだ足りない)
王室からの貸付金、毎年の返済、兄フアンの畑の立て直しにかかる費用。
ざっと頭の中で並べると、この一つのインヘニオだけでは、返済に何年もかかることが見えていた。
「この谷だけでは、足りんか」
アルバロは、開いた帳簿を指先で叩いた。
谷の外には、同じようにサトウキビを育てている畑がある。水車ではなく、すでに別のインヘニオを持つ者もいる。
そのひとつの名が、最近よく耳に入るようになっていた。
ドン・ロドリゴ・デ・バルデス。
キューバの古くからの一族で、この島で最初にインヘニオを建てた男の息子である。今は父の跡を継ぎ、港に近い平地一帯を握る大農園主だった。
噂では、彼の工場からは、毎年山のような砂糖が積み出されているという。
(だが、王室の帳簿に並ぶ名前は、思ったほど多くない)
港の出荷記録と、本国宛ての報告書。数字を追うたびに、アルバロの中でひとつの疑問が膨らんでいった。
この島でいちばんの大富豪の名にしては、王室が受け取っている砂糖と銀貨が、やけに控えめだった。
「どこかで、数字が行き先を変えているな」
彼は静かに笑った。
銀貨と砂糖が、どこか別の樽に注ぎ込まれている。
そこに、自分の手を差し入れる余地がある。
◇ ◇ ◇
数日後、アルバロは港町から少し離れた平地の外れにいた。
前方には、背の高い煙突と、石造りの建物。
ロドリゴのインヘニオだった。
「ドン・ロドリゴは、お気に入りの客しか招かぬそうで……」
案内役のクレリゴが、少し緊張した声で言った。
「スペイン本国からの使者か、王室の役人、それと、こちらの古い家々の者だけだとか」
「光栄なことだな。兄上の名札は、やはり便利だ」
アルバロは笑って、馬を進めた。
玄関前には、赤い上着を着た門番が二人。
名乗りと紹介状を見せると、渋い顔をしながらも、最終的には扉を開いた。
中庭には花壇と噴水。回廊には彩色された柱が並び、壁には聖人の絵が掛かっている。
サン・クリストバルとは違う、余裕のある造りだった。
「おお、イスパニョーラの知事殿の代理人とお聞きしましたが」
現れたロドリゴは、太い金の鎖を首に下げた男だった。腹は出ているが、目は油断なく光っている。
「遠い谷で水車を回しているという、ドン・アルバロでしたな」
「お噂ほどの者ではないが」
アルバロは、にこやかに頭を下げた。
「キューバの砂糖作りについて、先達のお話を伺いたくてな。わざわざお時間をいただいた次第だ」
「先達などと。私はただ、父の残したものを守っているだけですよ」
ロドリゴは一見謙遜してみせたが、口元には自信がにじんでいた。
「まあ、中をご覧なさい。あれやこれやと細かい規則が増えましたが、結局は、よく搾り、よく煮詰め、よく積むことです」
二人はインヘニオの中を歩いた。
水路はない。牛と人力を組み合わせた混合型で、古いトラピチェよりはましだが、アルバロの水車ほど均一ではない。
それでも、長年の工夫で歩留まりは高いらしく、搾りカスの山は小さく、倉庫には成型された砂糖の塊がぎっしりと積み上げられていた。
「見事だな」
アルバロは素直に声を漏らした。
「これだけの量となると、王室への奉納もさぞ重いだろう」
「まあ、そこは……」
ロドリゴは目を細めた。
「我らが陛下も、すべてを一度にお望みにはなりますまい。嵐もあれば、病もある」
彼は肩をすくめ、冗談めかして続けた。
「それに、遠い本国で書類を見る役人たちに、こちらの土や汗の重さがわかりますかな? 多少の余白は、どこの帳簿にもあるものです」
言いながら、倉庫の隅に積まれた樽の列を、ちらりと見やった。
そこには印が付いていない樽がいくつかあった。
王室への奉納品には、必ず刻印が押される。
印のない樽は、どこへ行くのか。
(いいことを言う)
アルバロは、笑顔を崩さずに心の中でうなずいた。
(余白があるなら、そこに誰の名前を書き込むか、考えればいい)
◇ ◇ ◇
数日後、サントドミンゴの港の書記室。
湿った紙と乾いたインクの匂いの中で、アルバロは一冊の帳簿をめくっていた。
「ロドリゴ・デ・バルデス殿の出荷記録は、こちらにすべてございます」
若い書記は、少し緊張した声で言った。
「もっとも、陛下のための正式な分だけですが」
「正式な分だけ、か」
アルバロは軽く笑った。
「どこも同じだな。だが、陛下にお出しする報告には、なるべく漏れがないほうがよい」
彼は、さりげなく机の上に革袋を置いた。小さな袋だが、中の銀貨は静かな重みを持っていた。
「帳簿はこちらで見させてもらう。お前は、持ち出し禁止だの何だのとうるさい役人が来たときのために、祈っていてくれ」
書記は一瞬だけ迷い、革袋をそっと掌で押さえた。
「……決して、悪用なさらぬよう」
「もちろんだとも」
アルバロは穏やかにうなずいた。
帳簿のページを繰ると、船の名、出航日、積荷の量、送り主の名が整然と並んでいる。
ロドリゴの名の列。
その周辺には、無名のスペイン人や、たまたま荷を受け取ったことになっている商人たちの名。
(このあたりの行と列を、少し並び替えてやればいい)
彼の頭の中で、数字と名前が盤面の駒のように動き始めた。
ロドリゴの名で出たとされる荷を、別の者が出したことにする。
逆に、別名義で積まれた砂糖の一部を、ロドリゴの隠し荷として描き出す。
そこに、ロドリゴが口にした「余白」の話と、印のない樽のことを添えればいい。
「王室への正式な奉納」
「印のない樽」
「帳簿に現れない出荷」
それらを一つの線で結べば、「王室を欺き、密貿易を行っている」という絵ができあがる。
(本当にやっているかどうかは、さほど重要ではない)
重要なのは、そう見える数字と証言を揃えることだ。
アルバロは、静かに筆を取った。
◇ ◇ ◇
数週間後、イスパニョーラ島の知事府の執務室。
フアン・デ・モリーナは、弟の差し出した書簡の束を重い顔つきで眺めていた。
「……ロドリゴ・デ・バルデスが、王室への奉納を抜いていると?」
「私の目からは、そう見える」
アルバロは静かに答えた。
「港の出荷記録と、本国宛ての報告書。この二つを突き合わせると、どうしても説明のつかない差が出る。印のない樽の行き先を聞いても、はぐらかされるだけだ」
フアンは、深く息を吐いた。
「ロドリゴはこの島で古くから力を持つ家だ。父の代から王室に忠誠を誓い、多くの銀貨を捧げてきた。軽々しく疑うべき相手ではない」
「だからこそ、疑う価値がある」
アルバロは、兄の目を真っ直ぐに見た。
「大きな家ほど、数字をごまかしやすい。小さな百姓が税を少し誤魔化したところで、誰も相手にしない。だが、ロドリゴほどの男が王室を欺いているなら、それはこの島全体の恥だ」
兄は眉をひそめたが、すぐには否定しなかった。
机の上には、書記の証言、港の帳簿の抜き書き、インヘニオから持ち帰られた印のない砂糖の見本。
それらは、慎重な言葉で綴られているが、向かう先はひとつだった。
「私は神と王に責任を負う立場だ。見て見ぬふりはできん」
フアンは、小さくうなずいた。
「ロドリゴの領地に監査団を送る。王室の名のもとに、インヘニオと帳簿を調べさせる。お前も同行しろ。最初に疑いを抱いた者として」
「承知した」
アルバロは静かに頭を下げた。
(最初に疑いを抱いた者。最初に証拠を並べた者)
その立場にいる者が、監査の流れをどこまで導けるか。
答えは、彼には見えていた。
◇ ◇ ◇
監査の日、ロドリゴの屋敷の空気は重かった。
王室の印章を掲げた文書が読み上げられると、彼は一瞬だけ顔色を変えたが、すぐに笑みを作った。
「ご自由にお調べ下さい。私は何も隠しておりませんとも」
だが、帳簿の数字は、彼の言葉ほど潔白ではなかった。
ページの端に挟まれたメモ。
印のない砂糖樽の並び。
港の記録と比べると、わずかながら、しかし無視できない食い違いが次々と見つかった。
それらは、すべてアルバロが事前に目を付けていた箇所だった。
「ここに記された数量と、港の出荷記録の数字が合いません」
監査官が指摘するたび、ロドリゴは言い訳を重ねた。
「書記が書き間違えたのだろう」
「嵐で樽が壊れた分を、そのままにしておいたのだ」
「番頭が勝手に……」
言い訳がひとつ重なるごとに、彼の声は小さくなっていった。
最後には、彼自身が何をどこまで知っていたのか、誰にもはっきりとはわからなくなった。
だが、王室の目から見れば、ひとつだけ確かなことがあった。
――ロドリゴ・デ・バルデスのインヘニオでは、王室の定めた規則が守られていない。
◇ ◇ ◇
数日後、サントドミンゴからの決定が届いた。
ロドリゴのインヘニオと畑は、一時的に王室の管理下に置かれること。
正式な裁決が下るまで、その財産の管理と運営をイスパニョーラ知事府に委ねること。
そして、その実務を任せる人物として、モリーナ家の次男アルバロの名が記されていた。
兄フアンは、手紙を読み上げながら複雑な顔をしていた。
「ロドリゴには、いずれ弁明の機会が与えられるだろう」
「もちろんだ」
アルバロは穏やかに答えた。
「その日まで、彼の畑と工場が荒れぬよう、私が責任を持って『預かる』だけだ」
兄は、しばらく黙って弟の顔を見つめていたが、やがて小さくうなずいた。
「頼むぞ。これは王室の目が光っている仕事だ」
「承知している」
アルバロは、丁寧に頭を下げた。
◇ ◇ ◇
数週間後、彼は再びロドリゴのインヘニオの前に立っていた。
あの日と同じ煙突、同じ石造りの壁。
違うのは、門扉に掲げられた印章だった。
そこには、ロドリゴの家紋の代わりに、王室の紋章と、イスパニョーラ知事府の印が並んでいた。
「本日より、このインヘニオは王室管理下のもと、モリーナ家の代理人アルバロ・デ・モリーナ殿が取り仕切る」
役人が宣言すると、集められた監督官や書記たちは、一様に彼のほうへ視線を向けた。
アルバロは、一人ひとりの顔をゆっくりと見回した。
「今まで通り、よく働いてくれればいい」
彼は穏やかな声で言った。
「ただし、これからの砂糖と銀貨の行き先は、少し変わる。数字を間違えると、困るのはお前たちだ」
誰かが、ごくりと唾を飲んだ。
その音を聞きながら、アルバロはインヘニオの奥へと歩を進めた。
倉庫には、まだロドリゴの名が書かれた樽がいくつも積まれている。
(名前など、いつでも書き換えられる)
彼は、樽の側面に刻まれた古い印を指先でなぞった。
(数字と印章を握る者が変われば、この谷も、あの平地も、別の持ち主のものになる)
胸の奥で、自然に笑みが浮かびかけたが、彼はそれを喉の奥で押し殺した。
この場にふさわしいのは、勝者の笑いではない。
熱心な王室の下僕の顔だ。
アルバロ・デ・モリーナは、敬虔な表情を作り、ゆっくりと十字を切った。
新しい「盤面」に、またひとつ、自分の駒が増えたことを思いながら。
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•アルバロの純粋な持ち物(純資産)
→ 約 7,000ドゥカート
•アルバロが支配している資産規模(自インヘニオ+ロドリゴ分)
→ 約 55,000ドゥカート
•表向きは「まだ借金抱えた若手支配人」
•実際は「5万ドゥカート級の資産を動かせる危険人物」
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