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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第4章――「アルバロ、石の王冠をかぶる」

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第9話――「石の首輪、皇帝の喉に」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


「何だ」


 眉をひそめたとき、側面の丘から駆け下りてくる一騎の斥候が目に入った。馬の脇腹は汗と泥でまだらになり、息は荒い。


「報せです、殿」


 ナワトル語で叫ぶ声が、チャックニクの口を通ってアルバロに伝わる。


「クイトラワクが死にました。天然痘で、昨夜のうちに」


 斥候の息には、病の村に漂うような酸っぱい汗と薬草と腐った血の匂いが混じっていた。


「女王の背中から支えが抜けた、というわけか」


 アルバロは口元だけで笑った。口の中の乾きが、急に軽くなったように感じられた。


「全軍に伝えろ。敵は首を失った。あとは首輪を締めるだけだとな」


 再び砲が火を噴いた。今度は逃げ腰になりかけた列の側面を狙い、石弾が走る。疲労で重くなった身体に鞭を入れ、騎兵たちは馬の腹を踵で強く蹴った。イシュタパラパの弩兵たちは、敵が背を向けた瞬間に黒い雨のようなボルトを降らせた。


 混乱の渦の中で、エカテペクの女王の輿が揺れた。近衛の戦士たちが必死に盾を重ね、彼女を守ろうとする。そこへアルバロは、わざとその一角に向けて騎兵を突撃させた。


「標を倒すな。中身を取れ」


 声に応え、黒人兵たちが馬から飛び降り、輿の担ぎ棒に縄をかける。黒曜石の槍が一本、黒人兵の肩をかすめて血が飛んだが、彼は歯をむき出しにして笑い返し、槍を奪って投げ返した。輿はぐらりと傾き、トラパリスキショチツィンの身体が金属飾りを打ち鳴らしながらつんのめる。


 彼女の目は怯えていなかった。頬に汗と埃の筋を刻み、噛みしめた唇から血をにじませながらも、落馬した騎兵の死体を踏み越えて近づいてくるアルバロを、まっすぐに見上げていた。


「エカテペクの女王よ」


 アルバロはナワトル語で静かに言った。


「その冠は、今日からわたしの首輪の飾りだ」


 手を上げると、黒人兵たちが素早く女王の腕と腰に縄をかけた。翡翠と金属の飾りが打ち鳴らされ、香の匂いが血と汗の匂いに薄く混ざる。


 日が傾くころには、旧王宮の周囲の戦いは終わっていた。エカテペクの兵たちは武器を捨て、両手を膝の上に置いて座り込んでいる。湖からの風がようやく冷たさを取り戻し、火薬と血の匂いを少しずつ押し流し始めていた。


 アルバロは、自分の居城である旧王宮の前に立った。石段には血と泥の跡が残り、柱に彫られた古い神々の顔には煤が薄く張りついている。中庭の奥、家族たちのいる一角からは、安堵と疲労が入り混じったざわめきがかすかに聞こえた。


「ここは取り戻した」


 彼は短く言い、スペイン兵と黒人兵の一部を旧王宮の守備に残すよう指示した。両親と妻たちにはその旨を伝え、夜の間は外へ出ないよう言い含める。


「次は、皇帝だ」


 アルバロは踵を返し、モクテスマ二世の宮殿の方角へ視線を向けた。


 旧王宮から少し離れた場所に、モクテスマ二世の宮殿はあった。庭園と運河を挟んで連なる石造りの建物群は、香と花と鳥籠の匂いに満ちている。さきほどまでの戦の喧噪は直接届かず、その代わりに、不安と祈りのざわめきが壁の内側に溜まっていた。


 宮殿の前庭にアルバロの一隊が到着すると、侍従たちは蒼ざめた顔で列を割った。門番の兵たちは槍を握りしめたまま動けず、その脇をスペイン兵とイシュタパラパ弩兵が無言で通り抜けていく。


 広間の空気は、いつものように色鮮やかな布と羽根で飾られていたが、重く張りつめていた。玉座に腰掛けているモクテスマ二世の顔は蒼白で、香の煙の奥でわずかに震えている。その両脇には皇后テオトラルコ〈39〉と娘イサベルが控えていた。テオトラルコの指先は袖の下で固く組まれていたが、目だけは静かに状況を測っていた。


 広間の入口の傍らには、縄をかけられたままのトラパリスキショチツィンも立たされている。戦場の汚れをざっと拭われただけの顔に、女王としての誇りと怒りがまだ残っていた。その存在が、この宮殿がもはや一つの都だけでなく、周辺の王国ごと握られていることを、無言のまま示している。


「モクテスマ」


 アルバロは玉座へ歩み寄り、声を低くした。


「今日は、お前の都が二度包囲された日だ。最初はお前の家臣が。次はわたしが」


 通訳を介した言葉が、香の煙の中に落ちた。誰かの喉が震える音が、やけに大きく響く。


「お前はそのあいだ、どちらの側にも剣を抜かなかった。だから罰を受ける」


 アルバロは玉座の手前で立ち止まった。


「今日から、お前はこの宮殿から出ない。妻も妾も子も、全員だ。外に出る門には、わたしの兵と砲を置く。湖のどの運河も、わたしが許すまでは舟を出させない」


 モクテスマの顔から血の気が引いていく。唇が何かを言おうとして震えたが、声にはならない。代わりにテオトラルコが一歩前へ出て、皇帝の袖をそっと握った。その指先は冷たく、しかし目の奥には、夜ごとアルバロの寝所を訪れる女としての欲望と、今この瞬間の恐怖が、同じ火で静かに燃えていた。


 外では、モクテスマ宮殿の門が重い音を立てて閉じられた。鉄と木が擦れ合う高い音が、広間の奥まで届く。スペイン兵とイシュタパラパ弩兵が門前に列をつくり、黒人兵が砲の車輪に楔を打ち込んで動かないように固定した。


 石の床の上に、やがて重い鍵束の音が響く。扉に新たな横木が渡され、釘を打つ乾いた音が続いた。宮殿の中にいる者たちは、初めて本当の静けさに気づいた。太鼓も鬨の声も遠ざかり、香の燃える細かな音と、誰かの荒い呼吸だけが聞こえる。


 アルバロは玉座と二人の皇后、縄をかけられた女王を見渡した。


 西南のオストゥマとイシュタパラパという石の爪。旧王宮に暮らす自分の家族。そして、今こうして宮殿ごと封じ込められたモクテスマの一族と、捕らえたエカテペクの女王。


 石で形づくった首輪は、確かに閉じたと、彼は胸の内で確かめた。

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