第8話――「湖上包囲、雷と地下道」
1519年9月初旬の朝、テノチティトランの旧王宮の中庭には、夜のあいだ焚かれていた香の甘い煙がまだ薄く漂っていた。湖から上がる湿り気を含んだ冷気と混じり合い、石の床は露を吸ったように暗く光っている。
いつもなら、遠くの運河から水売りの掛け声やカヌーの櫂の音が届く刻限であった。だが、その朝、耳に届いたのは別の音だった。
低く腹の底を震わせる太鼓の連打と、貝殻のラッパの鋭い音が、湖面の向こうから押し寄せてくる。音の波が石の堤と宮殿の壁にぶつかり、くぐもって跳ね返るたび、胸板の内側がじんと痺れた。
アルバロ・デ・モリーナは、旧王宮の高い回廊に出て、濡れた石の欄干に手をかけた。指先に冷たい露が触れる。見下ろした先、宮殿を囲む広場と堤の上には、色とりどりの羽根と旗がいつのまにかぎっしりと並んでいた。
青と赤の羽根飾り、黒曜石の刃で縁取られた盾、顔に白と黒の塗料を塗った戦士たち。彼らが、旧王宮の四方を波打つように包囲している。
その群れの中で、ひときわ高く掲げられた標があった。赤と黒の縞の布に、エカテペクの紋章が刺繍されている。標の下には、金属板と翡翠で飾られた輿が担がれ、その上に「女王」トラパリスキショチツィン〈36〉が腰掛けていた。首元の金属飾りが打ち鳴らされるたび、甲高い金属音が朝の冷気を切り裂き、囲む戦士たちの喉から「女王」「エカテペク」を含んだ鬨の声が繰り返し噴き上がった。
「きれいに囲んだものだ」
アルバロは小さく呟いた。湖から吹き上げてくる風が、羽根飾りと旗だけではなく、戦士たちの汗と油の匂いを運んでくる。焚かれている香の甘い匂いは、その下で急速に押し潰されていった。
背後では、旧王宮を守る少数のスペイン兵と黒人奴隷兵、イシュタパラパの弩兵たちが慌ただしく動いている。鎧の留め金が打ち鳴らされ、弦を巻き上げる軋みが重なる。しかし、ここに残してきた兵は多くない。主力は西南の砦オストゥマと、湖の向こうのイシュタパラパに置いてある。
内側の廊からは、女たちの叫びと子どもの泣き声が微かに聞こえた。いまはアルバロの妻、両親、兄弟姉妹、そして側近たちが暮らす旧王宮が、丸ごと包囲の輪の中にあるのである。
「ここで意地を張れば、家族ごと灰だな」
アルバロは欄干から手を離し、振り返った。革手袋の中で指が乾いた音を立てる。
「予定より早いが、地下の道を使う。家族と核になる兵だけ連れて脱出する」
彼がスペイン語で短く告げると、そばにいたチャックニクと黒人管理人トマスが即座に動いた。両親や兄弟姉妹、ルシアをはじめとする女たち、選抜されたスペイン兵と黒人兵、イシュタパラパ弩兵の一部が、旧王宮の奥の回廊へと走る。床石の一枚が軋み、隠された取っ手が引かれると、冷気を含んだ暗闇が口を開いた。
地下へ降りる階段は、湿った土と石の匂いに満ちていた。壁に取り付けられた松明の炎が、黒い煤を天井へ貼り付けていく。革靴とサンダルが石段を擦る音が、息を潜めようとすればするほど、耳の奥で大きく響いた。
頭上からはまだ、太鼓と鬨の声がくぐもって届いてくる。ときおり、どこか近くで石が打ち付けられる鈍い音がして、天井の埃がぱらぱらと落ちた。誰かの喉が乾いて鳴る音が、暗闇の中で妙に生々しく聞こえた。
「走れ。ここで捕まれば、石の下敷きだ」
アルバロは前を行く兵たちの背中を押すように言った。口の中は香と煙で乾き、舌の上には石灰の粉を噛んだようなざらつきが残っていた。
長い通路を抜けると、急に空気が変わった。湿った土の匂いから、泥と水草と牛糞の混じった匂いへと移り変わる。板が押し開けられ、高地の光が差し込んだ。
そこはイシュタパラパの外れ、アルバロが密かに整備していた軍営の裏手だった。湖の匂いが近く、運河にはカヌーがいくつもひっくり返して並べられている。その先の台地には、簡易の柵で囲われた放牧地があり、数十頭の馬が鼻を鳴らしていた。
「やっと出てきたか」
低い声で迎えたのは、父ガルシア・デ・モリーナである。日焼けした顔と白い髭には、大西洋とカリブの風が刻んだ皺が深く刻まれていた。彼の背後には、スペインから連れてきた大柄な軍馬や牛、穀物と苗木を積んだラバが列をなし、干し草と穀物の匂いがむっと立ち上っている。
「息子よ、あの湖の都は派手な朝を迎えたようだな」
ガルシアは笑みを混ぜて言ったが、その目は戦場の匂いを嗅ぎ分ける兵士の目だった。母エレナは既に女たちをまとめ、兵のためのパンと干し肉を配る準備に取りかかっている。
「派手すぎる花火だ。すぐに消してやる」
アルバロは短く答え、軍営を一望した。オストゥマに残した分を除いても、ここにはスペイン兵数百名と黒人奴隷兵、イシュタパラパの弩兵1万近くが整然と並んでいる。その足もとで、父が連れてきた新たな軍馬が鉄の蹄を石に打ちつけ、いらだたしげに地面を掻いていた。
「騎兵は100。砲は16門。残りは弩兵とアステカ兵を混ぜて前線だ」
アルバロは、軍馬の額に手を当てて熱と汗の具合を確かめた。指先に感じる鼓動は、戦場を求める獣のものそのものだった。
「ここから旧王宮までの堤を、雷と馬で埋め尽くす」
数刻後、イシュタパラパから伸びる堤の上に軍勢が展開した。湖の水は鉛のような色をしており、その上に腰の高さほどの薄い霧が漂っている。砲の車輪が石畳の継ぎ目を乗り越えるたび、鈍い音が湖面に響き、鳥の群れが驚いて一斉に飛び立った。
先頭を行くのは、胸甲と兜をまとったスペイン騎兵100名である。鉄の蹄が湿った石を叩き、火花が散る。馬の鼻先から吹き出す息が白く曇り、泡立った唾が口輪から糸を引いた。その後ろに、黒人兵が押す砲列とイシュタパラパの弩兵たちが続き、羽根飾りと鉄の光が入り混じった一本の蛇のような列を形づくっていた。
テノチティトランが近づくにつれ、太鼓と鬨の声はますます大きくなる。旧王宮のある島の周囲には、まだエカテペクの女王の軍勢が背を向けたまま取り巻いていた。その背後から砲列と騎兵が迫っていることに、最初は誰も気づかない。
「砲列、止まれ」
アルバロの合図で、砲身が一斉に都の方角へと向きを変えた。火薬を詰めるたび、湿った硫黄と炭の匂いが立ち上り、兵の喉を刺す。黒い粉が汗で湿った指の間に貼りつき、ざらざらとした感触が残った。
「女王の兵の背中を雷で叩け。旧王宮の壁は壊すな。中身をもらうつもりだからな」
スペイン語の言葉がチャックニクの口を通ってナワトル語に変わる。弩兵たちがわずかに笑い、緊張を混ぜた声が堤の上に走った。
「撃て」
火縄が火皿に触れた瞬間、世界が白い光と轟音に満たされた。砲口から噴き出した炎が霧を焼き払い、石弾がうなりを上げて飛び出す。鼓膜が裏返るような感覚とともに、足もとの石畳が跳ねたように感じられた。
広場では、エカテペクの兵の列が突然、見えない拳で殴られたように崩れた。石弾に直撃された盾と胸当てが一緒に砕け、身体ごと宙に持ち上がり、羽根飾りと血と土が混ざった塊になって地面に叩きつけられる。耳にはしばらく、声が届かない。ただ、土と石が砲弾の衝撃で吹き上がり、粉になった石の匂いが火薬と一緒に鼻腔を満たした。
二斉射、三斉射と続くにつれ、エカテペク軍の背後は削られていった。女王の標の周囲にいた戦士たちが、どこからともなく襲ってきた雷に背を向け、混乱した叫びを上げる。そこへ、アルバロは騎兵の前進を命じた。
「前へ。馬の蹄で道を開けろ」
鉄の馬蹄が石畳を叩く音が、砲声の余韻に重なる。馬と馬の肩がぶつかり、鎧と鎧が打ち合う。前方には、振り返ろうとしたエカテペクの戦士たちの背中があった。
最初の衝突は、肉と木と石が一度に砕ける音だった。馬の胸が盾の列を弾き飛ばし、倒れた兵の上を蹄が容赦なく踏みつける。黒曜石の槍が馬の腿に食い込む場面もあったが、すぐ後ろの騎兵が槍の柄を斬り落とし、血の匂いが風に混じる。
半日近く、戦いは続いた。太陽が真上を通り過ぎ、鎧は焼けた鍋のように熱を持った。兵の喉は火薬と砂と血で焼け、唾を飲み込むたびに苦味が増した。弩兵たちの指先には汗と血がこびりつき、弦を引くたび皮が裂けていく。
それでもエカテペク軍は人数で勝っていた。徐々に向きを変え、旧王宮と湖との間を挟み撃ちにしようとする。焼けた木材と布の匂いが都のあちこちから立ち上がり、香の匂いを押しつぶしていく。
やがてアルバロの視界に、微妙な変化が現れた。敵列の動きが突然弛んだのである。盾を掲げる腕が一瞬遅れ、掛け声に力がない。




