第6話――「谷越しの雷と銅の約定」
戦いから数日が過ぎた。バルサスの谷を渡る風は、昼と夜で匂いを変えた。朝はまだ冷たく澄んでいるが、陽が高くなると、斜面に積み重なった死体から立つ甘ったるい腐臭が混じり始める。夕方には、それが薄くのびて、西の山裾にしがみつくタラスコの村々へと流れていった。
オストゥマ砦の石壁の上で、アルバロ・デ・モリーナはその風をじっと味わっていた。鼻腔の奥にひりつく火薬の残り香と、遠くで腐りかけた血肉の匂いが、奇妙に混ざり合っている。
「そろそろ、王の鼻にも届いたころだな」
隣に立つ三弟ペドロ・デ・モリーナ(23)が、谷の向こうを眺めてうなずいた。
「昨日、偵察に出したアステカ兵が戻りました。西の山道で、タラスコの旗を見たそうです。使者でしょう」
「よろしい」
アルバロは石壁を軽く叩いた。硬い音が指先に返ってくる。
「谷のこちら側で『話を聞く』ことにする。向こうの王に、どちらが高い場所にいるか、忘れさせないためにな」
その日の昼前、バルサス川を挟んだ向こうの斜面に、色鮮やかな羽根飾りを戴いた一団が姿を現した。タラスコの高官と、その従者たちである。白い布を掲げ、防具は身につけているが、槍の穂先には布を巻いている。
オストゥマの砦からは、黒人兵とアステカ兵が弩を構えたまま、それを迎えた。谷の中ほどに設けた細い木橋の手前で一団を止め、川越しに条件を告げる。
「槍と剣、弓はすべて置いてこい。谷を渡れるのは、王の言葉を運ぶ口だけだ」
チャックニクの通訳を通してそう伝えると、タラスコの使者たちはしばしざわめいたが、やがて一人の老人と若い書記だけが前に残り、他は武器を置いて後方へ退いた。
老人の高官が木橋を渡る間、谷の風は静かだった。足元で水が白く泡立ち、湿った冷気が裾を撫でる。橋の下流には、先日の戦いで流れ落ちた槍と盾が、まだ岩に引っかかっていた。
砦の中庭に通された老人は、石畳と血の匂いを一度に吸い込んだ。浅く土をかぶせた斜面の一部からは、まだ指先や羽根飾りがのぞいている。
「よく来てくれた」
アルバロは、わざと陽の光がよく当たる場所に椅子を置き、その上に腰を下ろしていた。
「タラスコの王の舌よ。ここは風通しがいい。話も腐らずに済む」
チャックニクがタラスコ語に訳すと、老人はかすかに顔をしかめた。
「わが王は、ここでの戦いの報せを聞き、嘆き悲しんでおられる。多くの勇士が、あなたの雷に打ち倒されたと」
「嘆くのは勝手だ」
アルバロは肩をすくめた。
「だが、雷はもう一度でも、十度でも落とせる。見せてやろう」
彼は立ち上がると、老人を石壁の上へと案内した。
谷を見下ろす位置には、新たに据え付けられた小型の大砲が4門ならんでいる。砲身に触れると、朝の陽を吸った鉄の温もりが伝わってくる。砲口の前方、対岸の斜面には、乾いた倒木と岩を積み上げた目標が用意されていた。
「火を入れろ。今日は半分の力でいい」
アルバロの声に、砲兵たちが紙包みから火薬を流し込み、石弾を押し込む。湿り気を含んだ硫黄と炭の匂いが、すっと鼻を刺した。老人は思わず袖で鼻を覆う。
「目をよく開けていろ。わたしは嘘をつかない」
アルバロは、老人の肩に軽く手を置いてから、右手を上げた。
「撃て」
短い号令と同時に、4門の口から火と煙が吹き出した。
雷鳴のような音が谷を揺らし、老人の膝がわずかに震える。耳の奥が一瞬真っ白になり、そのすぐあとに、対岸から岩の砕ける轟音が返ってきた。
積み上げてあった倒木と岩が、一瞬で崩れて土煙を上げ、その下の斜面がざざっと滑り落ちる。乾いた土と粉々になった石の匂いが、遅れて風に乗ってきた。
「今のは、ほんの挨拶だ」
耳を押さえている老人の脇で、アルバロが静かに告げる。
「砲を倍にし、火薬を増やせば、この谷の向こう側の村ごと、湖の岸ごと崩せる。お前たちの王の座る町も、例外ではない」
老人は、乾いた唇を一度舐めてから、ようやく声を絞り出した。
「……それで、あなたは何を望まれる」
「わたしが望まぬことは簡単だ」
アルバロは指を1本立てた。
「まず、二度とこの砦に槍を向けないこと。オストゥマからバルサス川の谷にかけての土地は、モクテスマ王とわたしが預かる。タラスコの兵はここへ来ない」
2本目の指が立つ。
「次に、銅だ。お前たちの山の銅と、それを鍛える職人。毎年、一定の量をここへよこせ。槍や斧だけではもったいない素材だからな」
3本目。
「それから、木。砲架と台車に使えるまっすぐな木を切り出し、ここまで運ぶ男たちも必要だ」
4本目の指は、老人に向けられた。
「そして、耳だ。王の宮廷で何が噂になり、どの神官が何を恐れているか。ここへいるわたしの人質たちを通じて、知らせを送れ。王がくしゃみをしたら、その回数まで知りたい」
老人は、思わず後ろを振り向いた。砦の内側の一角には、先日の戦いで捕らえられたタラスコの将官たちと、その妻たちが、武装した黒人兵に囲まれて座っている。顔は洗われているが、衣の焦げ跡と縄の痕はそのままだ。
「彼らを……返していただけるのか」
「王が理をわきまえ、約定を守るかぎりはな」
アルバロはゆっくりと答えた。
「わたしは、首をへし折るのも好きだが、首輪をつけて歩かせるのはもっと好きでね」
チャックニクが淡々と訳すと、老人は目を閉じた。額には細かい汗が浮かんでいる。
「王は、銅と木と男たちを出せる。オストゥマへの攻撃もやめさせよう。だが……人質たちは、王の血筋ともつながる家の者も多い。あまりの辱めは──」
「心配するな」
アルバロは片手をひらひらと振った。
「テノチティトランへ連れて行き、モクテスマ王の宮殿の中庭で暮らさせる。衣と食い物は充分に与えよう。逃げ出そうとしないかぎりは、腕も脚も切らない」
老人は、その言葉の中に含まれた冷たい冗談を理解しながら、それでも小さくうなずくしかなかった。
「わが王に、その条件を伝える。返事は……」
「急がなくていい」
アルバロは谷の向こうの山並みを一瞥した。
「風は、しばらくここから西へ吹く。腐った匂いを嗅ぎながら考えればいい。オストゥマの斜面がああなったのだから、自分の山がどうなるかも想像できるはずだ」
交渉は、午後の陽が傾きかけるころに終わった。老人と若い書記が砦を辞すとき、アルバロはわざと中庭の別の出口を通らせた。そこからは、斜面に浅く埋められた死体の列が、はっきりと見えた。
木橋を渡り返す老人の背中は、来たときよりも明らかに小さく見えた。
夕暮れ、石壁の上に戻ったアルバロの隣で、ペドロが口を開いた。
「あの老人の王が、約定を破ったらどうします?」
「そのときは、今日の雷を、もう少し東へ伸ばすだけだ」
アルバロは、対岸に開いた新しい崖崩れの跡を眺めながら言った。
「だが、破らないさ。王と側近たちの首だけでなく、王家とつながる人質たちの首も、まとめて握られていると悟っただろうからな」
ペドロは、石壁越しに、捕虜たちの囲いをちらりと見下ろした。
「兄上がテノチティトランへ彼らを連れて行けば、タラスコにとっては、都そのものが縄になってしまいますね」
「そのとおりだ」
アルバロは満足そうにうなずいた。
「西の山には銅と木の首輪。東の湖には石の王冠。そのあいだをつなぐ道を、わたしたちの馬が行き来する。悪くない格好だ」
数日後、タラスコ王からの返答が届いた。
老人が再び谷を渡り、震えの残る声で報せる。王は条件を受け入れる。銅と木と職人を差し出し、オストゥマへの攻撃を永久に禁じる。将官と妻たちは「客人」として扱われることを望むが、その身柄を預けることも、渋々ながら承知する──。
ペドロが文言を聞き終えると、アルバロはただ短くうなずいた。
「いい返事だ。腐敗臭よりは、銅の匂いのほうがましだろう」
その日の夕刻、砦の中庭では出立の準備が始まった。テノチティトランへ戻る主力部隊の列である。
砲4門と、選りすぐったスペイン弩兵、黒人兵、イシュタパラパの弩兵。タラスコの将官と妻たちは、立派な衣の上からでも縄を見えないように括られ、荷馬の列の中央にまとめられた。馬たちは、数日間の放牧で幾分肉付きが良くなり、鼻面から白い息を吐きながら蹄を鳴らしている。
「ここから先は、お前の砦だ、ペドロ」
出立前、石門の前でアルバロが弟の肩を軽く叩いた。
「西から銅と木を受け取り、馬を太らせておけ。タラスコが震えているかぎり、この砦は生きた首輪だ」
ペドロは背筋を伸ばし、兄の目をまっすぐ見返した。
「兄上が東で王の喉を握るあいだ、この谷は決して静かにはさせません。タラスコがあなたの名前を忘れそうになったら、砲に思い出させてもらいます」
「よろしい」
アルバロは笑い、馬にまたがった。
隊列が動き始める。砦の門が軋む音、蹄の響き、車輪のきしみ。バルサス川の谷から吹き上げる風が、彼らの背中を押すように吹いた。
西を振り返ることなく、アルバロは東の高地へと向かっていく。
タラスコの山々の上には、まだ薄く砲煙の名残が漂っていた。その下で、銅を掘る音と木を伐る音が、やがて新しい首輪の鎖となって鳴り始めることを、彼らはまだ知らなかった。




