第3話――「湖の都から、石の爪へ」
1519年7月1日の朝、テノチティトランの空は晴れていた。高地の薄い青の下で、湖の面だけが金属のように鈍く光り、石の堤の上には、これから西南の砦オストゥマへ向かう軍勢が、ぎっしりと列を作っていた。西南の境を守る石の爪として、タラスコ王国と真正面から睨み合っている砦である。
先頭にはスペイン人の弩兵500名が並び、鉄の兜と胸甲が朝日を跳ね返していた。その背後には黒人奴隷兵60名が、丸盾と槍、鎖でつながれた犬を制しながら隊列を固めている。さらにその後ろに、イシュタパラパの弩兵1万名と、羽根飾りと黒曜石の剣を身につけたアステカ兵5万名が続き、色とりどりの羽根と布が波打っていた。
堤の片側には、20門の大砲が一列に並べられている。砲身には昨夜の湿気がまだ薄く残り、鉄を拭う布から油と磨き粉の匂いが立ちのぼっていた。その横では、石弾の山がどっしりと積まれ、布袋に詰めた鉄弾が、動くたびに鈍く触れ合う音を立てる。火縄銃の束は皮袋に包まれ、黒い火薬の粉っぽい匂いが、すでに朝の空気の底に薄く溜まっていた。
そして何より目を引くのは、台車に括りつけられた無数の小型カヌーであった。細長い胴を持つカヌーが、粗末な木の台車の上にひっくり返して載せられ、一本一本の綱で弩兵やアステカ兵の隊列に結ばれている。木肌には湖の水が乾いた跡がまだ白く残り、指で触れると、ざらざらとした塩の感触がわずかに爪に引っかかった。
堤の縁から吹き上げる風は涼しいが、隊列の中はもう人いきれで熱かった。汗と革と羽根飾りの匂いが混ざり合い、鉄の金属臭と火薬の残り香が、その上から薄い膜のように覆いかぶさっている。馬のいななき、鎖の鳴る音、スペイン語とナワトル語の怒鳴り声が入り交じり、湖の静かな水音をすっかり消していた。
列の中央で、アルバロ・デ・モリーナは馬上にいた。革鎧の下の背中には、すでに朝の汗がじわりとにじんでいる。馬の首筋から立ちのぼる体温と、油を塗った鞍の匂いが鼻をくすぐり、舌の奥には、さっき急いで流し込んだ塩気の強い豆煮込みの味がまだ残っていた。
「出発だ。西南の爪を折らせるな」
短くスペイン語で告げると、その言葉はすぐにチャックニクの舌を通ってナワトル語とマヤ語に変わり、長い列の端まで波のように広がっていった。
湖を離れ、軍勢は西へ向かって高地を登り始めた。石畳が途切れると、足の裏に伝わる感触は、固い石から、乾いた土と小石のざらつきに変わる。高原の草は足首をかすめ、踏みしめるたびに細かい種と粉を空気中に跳ね上げた。陽が高くなると、火山灰を含んだ土埃が陽光の中で白く舞い、鼻の中をざらざらと削っていくような感覚が残った。
松の森に入ると、空気はひんやりとしたが、行軍は楽にはならなかった。斜面は急で、カヌーを載せた台車と大砲を押し上げる者たちの肩に、木の轅が食い込む。松脂の強い匂いが斧の刃元から弾け、幹に打ち込まれるたび、湿った木屑が頬や腕に張りついた。黒人兵たちは低い歌をうたい、呼吸を合わせて砲を押し上げた。声は厚く、胸の奥を震わせるような調子であり、アステカ兵たちはその旋律の意味は分からなくとも、足並みだけは自然と揃え始めた。
馬たちもまた、山の匂いと傾斜に慣れさせながら進められていった。鞍と荷を軽くし、蹄鉄の具合を確かめたうえで、スペイン人の騎兵と黒人兵が手綱を分担して引く。鼻面に手を当てて落ち着かせながら歩かせないと、松の幹の間からのぞく深い谷の影に怯えて、耳を伏せる若い馬もいた。夕刻の野営地では、まず馬を並べ、汗と埃を拭き取り、脚を撫でて腫れや傷を確かめてから、自分たちの飯にありつく騎兵も多かった。
昼の熱と夜の冷え込みの差は激しかった。日が沈むころには山風が一気に冷たくなり、兵の吐く息が白くなる。焚き火の上で煮立つ豆ととうもろこしの匂いが夜陰に広がり、それに混じって、湿った革と濡れた木の匂いが漂った。遠くからは、名も知らぬ鳥の鋭い鳴き声と、山中に潜む獣の低い唸り声が聞こえ、見張りの兵たちは毛布の端を握り締めながら、暗闇の向こうへ耳を伸ばした。
何日も進むうちに、山並みは次第に険しさを増していった。ある日、前方の地形を見たとき、アルバロの口から小さく悪態が漏れた。道は、突然、切り立ったV字型の渓谷に落ち込んでいたのである。
足もとに近づいて覗き込むと、底の見えない暗さが広がっていた。岩肌は黒く、ほとんど垂直に切り立ち、その間を、狭い水の筋が白く泡立ちながら走っている。風が吹き上がり、湿った冷気と、遠くで砕ける水音が、頬と耳を同時に打った。
「ここを降りるしかない」
アルバロの声に、周囲の隊長たちは思わず顔をしかめた。
縄と木材が集められ、急ごしらえの滑車と足場が岩に取り付けられた。砲身は一本一本、布で包んで縄に括りつけ、複数の兵が滑車の綱を握って、少しずつ少しずつ降ろしていく。鉄と岩が擦れる嫌な音が谷に響き、手のひらの皮が綱で焼ける匂いが立った。綱がきしんで一瞬たわんだ時には、周囲の空気が一緒にひゅっと吸い込まれたように静まり、砲が無事に次の足場に着地すると、誰もがほっと息を吐いた。
一度だけ、布で包んだ砲身のひとつが、足場の端でぐらりと傾いた。縄が悲鳴のような音を立て、砲口が下を向きかける。綱を握っていた黒人兵が歯をむき出しにして踏ん張り、近くにいたアステカ兵があわてて予備の縄を巻き付けた。砲身は岩角に鈍い音を立ててぶつかったが、ひびは入らずに済んだ。その日の夜から、兵たちは綱の結び目を確かめる回数を倍にした。
馬たちは、砲とは別の道を取った。斥候が谷の上流側に回り込み、どうにか四つ脚で降りられそうな緩い斜面を探し当てると、そこへ騎兵と黒人兵が手綱をつけて誘導した。鞍と荷を外し、鼻づらに縄を通した馬を、先導する者と後ろから押さえる者が挟むようにして、一歩ずつ滑らぬよう降ろしていく。蹄が小石を踏んで滑りかけるたびに、馬の眼が白くなり、いななきが谷に反響した。途中、腰から崩れ落ちて尻で滑った若い牝馬もいたが、尻尾と腿に擦り傷をこしらえただけで、どうにか谷底まで辿り着いた。
カヌーを載せた台車は、人の手と肩で持ち上げて降ろした。木の車輪に縄を掛け、岩面に沿って滑らせると、車輪から乾いた悲鳴のような軋みが上がる。足を滑らせた兵のサンダルが岩に爪を立て、膝を打ったときの鈍い痛みが、悲鳴と一緒に谷にこだました。
数日かけて渓谷の底に降り立ったとき、兵たちの足は土の感触を確かめるように慎重であった。そこには、とうとうバルサス川の水音が近く聞こえていた。渓谷の底の空気は重く湿り、苔と濡れた石の匂いが鼻を突いた。
やがて、川面が見えた。灰色の岩の間を、濁った水が白い泡を立ててうねりながら流れている。岸辺には細い砂利と滑りやすい泥が広がり、足を踏み入れると、じゅくりと音を立てて沈んだ。
「カヌーを水に下ろせ」
アルバロの命令で、台車からカヌーが一つずつ外されていった。木肌に手を添え、兵たちは声を掛け合いながら水際まで運ぶ。冷たい川水が足首を打ち、砂利が指の間に食い込む。カヌーの腹をそっと水に浮かべると、乾いた木が一度だけ軋み、そのあとすぐに、水と同じリズムで揺れ始めた。
馬たちはカヌーには乗せられなかった。頭絡に長い綱が結びつけられ、川岸の細い足場を、騎兵に引かれながら遡っていく。両岸が岩壁に挟まれて道が消える場所では、先に兵がカヌーで対岸へ渡り、岸から綱を引いた。水深のあるところでは、胸から首まで水に浸かった馬が、鼻先だけを水面に出して泳ぐ。白目をむいてあえぎながらも、前脚を必死にかき、濡れたたてがみを川面に撒き散らして渡り切ると、岸に上がった途端に全身を震わせて水を飛ばした。そのたびに、近くにいたアステカ兵がびしょ濡れになりながら笑い声を上げた。
小さな舟が次々と川面に並ぶと、渓谷の底の風景は一変した。暗い岩の間を、色とりどりの布を巻いた兵たちが乗ったカヌーが縫うように動き始め、鉤を付けた綱で互いをつなぎ、流れに逆らいながら上流へと進んでいく。オールが水を掻く音が規則正しく続き、日に焼けた腕に水しぶきが冷たく跳ねた。川岸では、馬の蹄が濡れた石と泥を踏みしめるぬるりとした音と、時おり岩場で滑りかけてあえぐ息遣いが、カヌーの列と並走していた。
その行軍が、ほぼ2ヶ月続いた。
川沿いの崖をよじ登っては迂回し、また舟を浮かべる。高地の冷たい夜と、谷底の蒸し暑い昼とが交互にやってきて、兵の喉は常に乾いていた。飲む水は豊富にあったが、汗と疲労で塩が抜け、指先やふくらはぎがときおり痙攣した。そんなときにはルシアが、塩を混ぜた豆煮込みと乾燥肉を鍋で煮立て、匂いだけで腹が鳴るような濃い汁を作って兵に配った。馬たちにも、乾草ととうもろこしを可能なかぎり優先して回し、ぬかるんだ岸に立ちっぱなしになった蹄を乾かすため、日なたの平らな岩場にしばらく繋いで休ませる日を挟んだ。アルバロにとって、砲と同じくらい、この数十頭の馬は、これからの戦いを形づくる道具だった。
9月の初め、川の流れがゆるみ、山々の切れ目から、別の煙が見え始めた。
最前列にいた斥候が、カヌーの上から身を乗り出し、鼻をひくつかせた。
「松ではない。砦の煙だ」
風に運ばれてくる匂いは、確かに山火事のそれとは違っていた。焦げた松脂とともに、焼けたとうもろこし、脂の焦げる匂い、人の汗と血の重い匂いが、薄く混ざり合っている。
やがて、バルサス川の曲がり角を抜けたとき、オストゥマの姿が目に飛び込んだ。




