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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第3章――「石の宮殿と皇后の賭け」

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第9話――「血を禁じる客人と皇后の杯」


挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


 1519年6月15日、午前10時過ぎ。モクテスマ一世の宮殿、広間。


 黄金と香の匂いがまだ重く漂う中、列の最後尾がゆっくりと姿を現した。


 若者たちである。


 上半身に朱や黒の文様が描かれ、首と腕には紙の飾り。膝をつくその体からは、若い汗と、石階段に座り込んでいた土埃の匂いが立った。目は恐怖と恍惚の間をさまよい、胸の鼓動が布越しにも見えるほど激しく上下している。


 コパルの香が強く焚かれ、祭祀の歌が低く響きはじめた。鼓の音が胸の奥に食い込み、テオトラルコは、いつもと同じ儀式の前触れを肌で感じた。


 そのとき、アルバロの表情が、はっきりと変わった。


 笑いを含んでいた口元が引き締まり、瞳に冷たい光が灯る。


 「これは何だ」


 彼は通訳を介して問い、答えを聞き終える前に、列の端にいた一人の肩を掴んだ。若者の体温が、手袋越しにも伝わる。震え、汗ばみ、命がまだこの肉にしっかりと宿っているのが分かる温度である。


 「この者たちの血を、神に捧げる」


 そう説明しようとした神官の声は、アルバロの叫びにかき消された。


 「やめろ」


 広間の空気が、一瞬で凍りついた。金属の匂いも、香の煙も、すべてが遠くへ引き潮のように退いていく。


 アルバロは、烈火のごとく怒った。


 「今後、私の目の届く場所で、このような殺しは一切許さない。人は畑であり、腕であり、未来だ。神が血を求めると言うなら、私がその神と戦う」


 通訳の声が震え、神官たちの顔から血の気が引いた。


 モクテスマ二世は、ほんの一瞬だけ目を見開いた。


 テオトラルコには、夫の喉がごくりと鳴る音が、広間の静けさの中でやけに大きく聞こえた。


 だが次の瞬間、彼は膝を折り、頭を垂れた。


 「羽毛ある蛇(ケツァルコアトル)の再来よ。あなたの怒りは、羽毛ある蛇(ケツァルコアトル)の怒りだ。あなたが禁ずるなら、我らも禁じる」


 モクテスマの声は、恐怖ではなく、確信に満ちていた。彼は本気で、目の前の男を神の再来であると信じている。


 神官たちは蒼ざめながらも頭を下げ、生贄の若者たちは、まだ何が起きたのか分からぬまま、解かれた縄を見つめていた。彼らの胸の鼓動だけが、今度は安堵の熱を帯びて震えている。


 テオトラルコは、その光景を見ながら、心の中で静かに計算をやり直していた。


 金にも女にも飛びつかない男。だが今、目の前で、人の生と死に関してだけは、容赦なく手を伸ばした。


 この男は、無欲なのではない。


 欲するものが違うのである。


 その認識が、彼女の中で、評価という名の天秤を大きく揺らした。


 ◇ ◇ ◇


 1519年6月15日、正午過ぎ。モクテスマ一世の宮殿、会食の間。


 後宮の女たちと若者たちが下がり、祭祀の道具が片づけられたあと、昼の会食の支度が整えられた。


 長い木の卓が低く据えられ、彩色された皿が並ぶ。焼いた七面鳥に唐辛子とカカオを使った濃いソースがかけられ、蒸したトルティーヤからは湯気とともにとうもろこしの甘い匂いが立ち上る。カカオ飲料の泡が厚く盛り上がった器には、バニラと花の香りが漂う。


 この席には、モクテスマは姿を見せなかった。皇帝は普段から、臣や客と同じ卓で食事を取らない。代わりに、宮殿の主として迎えられた客人と、皇后と選ばれた女たちが顔をそろえる。


 テオトラルコが席につくと、アルバロはすぐに立ち上がり、慣れない宮廷の礼儀を真似て、ぎこちなくも丁寧に頭を垂れた。


 「さっきは少々、騒がしくしてしまった。その代わりに、この席ではあなたがたの料理と笑顔を、存分に味わわせてほしい」


 通訳チャックニクの声に、後宮の女たちからくすくすと笑いが漏れる。テオトラルコも、思わず口元を緩めた。緊張がわずかに解けると、香油と花の匂いがいっそう柔らかく鼻をくすぐる。


 膝のすぐ近くに、アルバロの膝が来る位置に座らされた。卓の下、布越しに、わずかな体温が伝わってくる距離である。


 皿が行き交い、女たちが料理の説明をする。


 「これは湖の魚を包んだもの」


 「このソースには、山の果実と唐辛子が入っている」


 アルバロは興味深そうに匂いを嗅ぎ、慎重に口へ運んだ。


 焦げた唐辛子の香りとカカオの苦味に、とうもろこしの甘さ。彼は目を細めて味わうと、テオトラルコを見た。


 「あなたが選んだ料理か」


 通訳を通して尋ねると、テオトラルコは軽く顎を上げた。


 「宮殿の主が変わろうとも、ここで出される料理は変わらない。帝国の味である」


 「ならば、私もその一部になったということだ」


 アルバロは、今度は通訳が不要なほど分かりやすい笑みを浮かべた。


 「宝物庫も、後宮も、私には必要ない。だが、あなたの隣の席には是非とも座りたい」


 臆面もなく投げられた言葉に、後宮の若い女たちが一斉にどよめいた。誰かが扇で口元を隠し、誰かが膝の上の指をもじもじと絡める。


 テオトラルコは、瞬間的に返答を探し、そしてあえて何も否定しない道を選んだ。


 「軽い舌で帝国の女帝を口説く客人が、かつていたかしら?」


 声には皮肉を乗せたが、その瞳は笑ってはいなかった。金と羽根の影の下で、彼女は真っ直ぐにアルバロの目を見つめ返す。


 アルバロは、まるでその視線を楽しむように、少しだけ身を寄せた。


 卓の下で、膝と膝が触れ合う。今度ははっきりと、温度がぶつかった。テオトラルコは引かなかった。


 「私は神ではない」


 彼は声を落とし、彼女だけに聞こえるような低さで続けた。


 「だが、あなたと手を組む男にはなれる。あなたが望むなら」


 そこには、甘さと同じくらいに冷静な打算が混じっていた。


 テオトラルコは、その混ざり具合をはっきりと嗅ぎ取った。


 羽飾りの陰で、彼女の唇がわずかに上がる。


 「私が望むのは、娘と人々の未来よ。神を名乗るより、それを守れる男の方がましだわ」


 アルバロの笑い声が、香と音楽の中で柔らかく弾けた。鼓の低い響きと、女たちの笑いさざめき、皿が重なる音。いくつもの音が混ざり合う中で、二人の会話だけが、奇妙に輪郭のはっきりした線を描いていく。


 食事が進むにつれ、テオトラルコは気づいていった。


 この男は、好色ではないのだろうか、と一度は思う。だがすぐに、それは違うと理解する。欲望の矛先を、誰に向けるかを選ぶことができる男なのである。そして今、その矛先の先端にいるのは、自分だ。


 甘いカカオの泡が舌の上で消えていく。杯を置いた指先に、アルバロの指がかすかに触れた。彼は謝りもせず、ただ視線だけで問いかける。


 テオトラルコは、その視線を受け止めながら、静かに杯を持ち上げた。


 「新たな宮殿の主に、そしてこの都の未来に」


 祝杯の言葉に、女たちが続いた。


 「羽毛ある蛇(ケツァルコアトル)の再来に」


「皇后さまに」



 声と香りと熱が渦を巻く中、アルバロとテオトラルコの距離は、言葉通り、著しく縮まった。

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