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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第3章――「石の宮殿と皇后の賭け」

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第8話――「石の宮殿の客人」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


 1519年6月15日、午前10時。テノチティトラン、モクテスマ一世の宮殿。


 白い漆喰の壁に朝の光が貼りつき、羽飾りと金の装飾が、湖の水面のようにちらちらと瞬いていた。中庭に立つ黒曜石の柱はまだ夜の冷たさを残し、触れれば指先にひやりと張りつきそうである。


 モクテスマ二世〈53〉は、ゆっくりと石段を上ってきた。彩色されたサンダルの紐が足首に食い込み、重い羽毛のマントの下で額に汗がにじむ。背後には、鉄と革の匂いをまとった異国の男たちが続いていた。金属の鎧が小さく鳴り、そのたびに近くの侍従がびくりと肩を震わせる。


 中庭奥の広間には、テオトラルコ〈39〉が座していた。


 頸に巻いた翡翠の首飾りは朝の光を吸い、額から背へ流れる黒髪に、緑と金と赤の羽根飾りが幾筋も垂れている。鼻腔には、焚きしめたコパルの香と、磨かれた石のひんやりとした匂い。床に敷かれたマットからは、編み込まれた葦の青臭さがかすかに立ちのぼっていた。


 彼女の目は、夫モクテスマの背後に立つ男へと注がれていた。


 アルバロ・デ・モリーナ。


 日差しの中で、その顔立ちは彫刻のようにくっきりと浮かび上がっていた。黒い瞳は油を流した黒曜石の板のように暗く、しかし笑みを浮かべた口元は、宴席の道化師のように軽い。布と革の匂いに、遠い海から運んできた塩とタールの残り香が混じっていた。


 つい先ほど、この異国の男は「私こそが、羽毛ある蛇(ケツァルコアトル)の再来である」と言い切ったばかりである。テオトラルコは、その言葉を思い出しながら、唇の端でかすかな息をこぼした。信じるかどうかは別として、夫は信じている。そこが重要である。


 モクテスマ二世は、広間の中央で立ち止まり、腕を大きく広げた。


 彼の声が高い天井に反響し、壁の蛇と鷲のレリーフに跳ね返る。通訳の声がそのすぐあとを追った。


 「偉大なる客人よ。先王モクテスマ一世の宮殿は、今日からあなたの家である」


 熱に浮かされたような敬虔さで、モクテスマは言い切った。視線には迷いがない。敬愛と畏怖が、祈祷師の歌のように入り混じっている。


 「この宮殿の主として、あなたを迎える」


 そう宣言すると、彼は側に控えていたテオトラルコへ振り向いた。


 「テオトラルコ。後宮から幾人か、見目麗しき妾を選び、この方に献上せよ。それから、宝物庫を開き、帝国の金銀財宝を贈る。さらに若き生贄たちを用意せよ。偉大なる客人のために、神々へ血を捧げるのだ」


 テオトラルコの左右の侍女たちが、一瞬だけ顔を見合わせた。だがすぐに頭を垂れ、静かに散っていく。羽根飾りが擦れ、香油と汗の匂いがかすかに揺れた。


 ほどなくして、広間の奥の扉から列が現れた。


 まず黄金と銀で満たされた籠。太陽の円盤を象った飾り板、トルコ石を嵌め込んだ胸当て、翡翠と貝殻で彩られた首飾り。運び手の腕の筋肉が震え、金属同士が触れ合う澄んだ音が、広間に雨粒のように降り注いだ。金属の匂いがまとまって鼻に押し寄せ、テオトラルコは舌の付け根に、鉄にも似た苦い味を感じた。


 そのあとに続いたのは、選び抜かれた後宮の女たちである。


 柔らかな綿布の衣をまとい、髪には花と小さな羽根を編み込み、顔にはわずかに香草の香り。足音は羽毛のように軽く、歩くたびに耳飾りが小さく鳴った。緊張と好奇心の匂いが、ココア豆を煎る香りと混ざって漂う。


 自らの宮廷が誇る富と力。そのすべてを、テオトラルコは何度も見てきた。しかし今日ほど、ひとつひとつの匂いと光を、鮮烈に意識したことはなかった。


 アルバロが、一歩前に出たからである。


 彼はまず、金銀財宝の列の前で立ち止まった。


 指先で黄金の円盤に触れる。その表面は、何度も磨かれてきたため、掌の肉が吸い込まれそうなほど滑らかである。光を受けて、彼の頬と黒い瞳の縁に金の反射が走った。


 だが、彼は長く眺めなかった。


 アルバロはふいに笑みを浮かべ、ゆっくりと振り返ると、テオトラルコの方へ片手を差し伸べた。


 「この金も銀も、あなたに差し上げる」


 通訳を通した言葉は簡潔であったが、声の調子は冗談めかしているのに、瞳の奥だけが冷静である。


 「私は、宝を欲しない。あなたのように宮廷を知る方が持つべきだ」


 侍従たちがざわめいた。金の籠から、光が一度に方向を変えたように見える。テオトラルコは、胸の奥で小さく息を詰めた。


 惜しげもなく、という表現では足りないほどあっさりと、彼は帝国の富を押し戻した。


 次に、後宮の女たちの列に目を向けた。


 彼女たちの肩や首筋を、アルバロの視線が順に撫でていく。だがそこには、獣が獲物を量るような舐める視線はなかった。彼は礼儀正しい客人として、一人ひとりに軽く頭を下げただけである。


 「皇帝陛下の妻と娘たち、そしてあなたの配下の女たちに敬意を表する。私のために彼女たちを奪う必要はない」


 通訳が言葉を伝えると、女たちの肩の強張りが、目に見えてほどけていった。掌に握りしめていた花びらがぽとりと落ち、甘い香りが足元に散った。


 テオトラルコは、その瞬間、自分が少しだけ困惑しているのを自覚した。


 この男は無欲である。少なくとも、目の前の金と女については、そうとしか言いようがない態度である。男たちはいつも、光るものと柔らかな身体に目を奪われるのに、彼は違った。


 その「無欲」が、まだ別の形に変わることを、このときの彼女は知らなかった。

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