第7話――「|羽毛ある蛇《ケツァルコアトル》の再来」
トチテペクを発ってからの道のりは、地図の上では遠く、足で歩けばなおさらきついはずであった。だが、うさぎ山での勝利のあとでは、兵たちの足取りはやけに軽かった。砲声の余韻はまだ耳の奥に残り、黒曜石の盾を砕いた反動が、拳と肩の内側でじんわりと温もりに変わっていたからである。
山道を下ると、前方に広がるのは、水面が空を映して光るテスココ湖であった。風に揺れる水草の匂いが、湿った土の匂いと混ざり、鼻腔の奥でねっとりとまとわりつく。湖の向こうには、白い霧と青い霞の間に、石の寺院と神殿が層を成したテノチティトランの影が浮かんでいた。湖面に映ったその姿は、水の上にもうひとつの都が逆さまにぶら下がっているようでもあった。
この湖と水の上の都が、『いつか白い者が現れる場所』として神官たちに語られてきたことを、このときアルバロはまだ知らなかった。
アルバロは騎馬の背でその光景を眺め、深く息を吸い込んだ。湿り気を帯びた空気が胸の中まで入り込み、砲煙と血の匂いで荒れていた喉をゆっくりと撫でていく。縄を掛けられたまま歩かされるクイトラワクの背中が、そのすぐ前で揺れていた。汗で濡れた羽飾りが、敗者の首の後ろでしなびている。
湖を渡る堤道に足を踏み入れると、足元の感触は土から石へ変わった。水面から吹き上がる冷たい風が、兜と鎧の隙間に入り込み、戦いで火照った皮膚からじわじわと熱を奪っていく。湖に浮かぶ独特の泥の匂いと、遠くから漂う香の煙が混ざり合い、どこか祭りと葬式を同時に思わせるような空気が広がっていた。
堤道の先、都の入口には、羽と金と宝石で飾った一団が並んでいた。中央には、高い頭飾りに翡翠と金をふんだんにあしらった男が立つ。モクテスマ二世である。彼の前には、香を盛った器がいくつも置かれ、白い煙がゆっくりと立ちのぼっていた。
アルバロが馬から降りると、石畳の冷たさが靴底越しに伝わった。湖からの風の向きが変わり、香と羽飾りに塗り込められた樹脂の匂いが、まとめて鼻を打つ。モクテスマは一歩前に出て、静かにアルバロの顔を見上げた。黒く塗られた目元の奥で、その瞳だけが異様に慎重に動いている。
「白き者よ」
モクテスマの声は、太鼓の皮を指でそっと弾いたような低さであった。
「お前は、遠き海の彼方から来た神々の使いか。それとも……」
アルバロは、兜を脱いだ。汗で貼りついていた髪が肩に落ち、朝の光が鉄の胸甲と剣の柄に反射する。
「私こそが、羽毛ある蛇の再来である」
ナワトル語でそう告げると、周囲の貴族たちのざわめきが、一瞬だけ湖の風よりも強く吹き抜けた。モクテスマの喉が小さく動き、乾いた唾を飲み込む音が、近くに立つ者にははっきりと聞こえた。
その視線が、アルバロの背後に引き立てられているクイトラワクへと移る。縄で両腕を縛られ、膝元まで引きずられながらも、総督は兄王を睨み返していた。頬にこびりついた血と土が、赤黒くひび割れている。
「この男の首ひとつで足りるなら、ここで落としてもよい」
アルバロは、静かな口調のまま言った。ナワトル語の子音が、石の壁で反響して硬く響く。
「だが、私はそれよりも価値のあるものを望む。お前の湖と、そこに浮かぶ道と、市場の一角。そして、お前の子らの中の賢い者たちだ。私の言葉を学び、私の戦を学ぶためにな」
モクテスマの鼻孔には、香の甘い匂いと同時に、クイトラワクの身体から立ちのぼる汗と血の匂いが入り込んでいた。その匂いは、幼いころから幾度も戦場で嗅いできたものと同じはずなのに、今はどこか別の、冷たい意味を帯びていた。
「受け入れれば、この弟は『赦された総督』としてお前のもとに戻る。拒めば、この場で雷に似た刃にかけるだけだ」
アルバロは、軽く手を上げて騎兵のひとりに目配せした。剣の柄に添えられたその指が、ほんのわずか揺れる。クイトラワクの喉元で、冷たい鉄の縁が光った。
香の煙が、風向きのせいで一気にモクテスマのほうへ流れ込んだ。樹脂の甘い匂いが目にしみ、涙腺をじりじりと焼く。モクテスマはゆっくりと目を閉じた。
彼の頭の奥には、昔、神官たちから聞かされてきた話がよみがえっていた。白い肌の者が、雷と煙を従えて戻ってくる。羽毛ある蛇の道を辿り、湖の上の都へやって来る。その者を誤って拒めば、世界の順序はひっくり返る、と。
「……お前の望む通りにしよう」
モクテスマの声は、最初はかすれていたが、言葉を重ねるにつれて、かろうじて王の声の高さを取り戻した。
「トチテペクとイシュタパラパは、お前の望む形で差し出す。湖の口と堤の根を、お前の雷と煙に委ねよう。トラテロルコの市場にも、お前とお前の男たちのための場を設ける。子らも、学びの名の下に預けよう」
最後の言葉を吐き出したとき、モクテスマは自分の舌の裏に血の味を感じた。無意識に奥歯を噛み締めていたらしい。
「よろしい」
アルバロはあっさりと言い、剣から視線を外した。
「では約束どおり、クイトラワクを返そう。今日から彼は、雷と煙を見た男として、私とお前とのあいだに立つことになる」
縄が解かれたとき、クイトラワクの両腕には痺れが走り、指先の感覚が戻るまでしばらくかかった。だが、その手が兄王の前に差し出されたとき、モクテスマはそれを強く握り返すことは出来なかった。掌の間に挟まれた汗の湿り気が、妙に冷たく感じられたからである。
交渉が終わると、都は一転して饗応の支度に追われた。宮殿の中庭には、色とりどりの羽飾りと布が張り巡らされ、噴水の水には花弁が浮かべられた。石畳の上に並べられた席には、焼いた七面鳥や犬の肉、とうもろこしの餅、赤く煮込んだ豆と唐辛子の匂いが充満している。焙ったカカオの香りは、肉の匂いとは別の、甘く苦い筋となって鼻腔の奥を流れた。
第一皇后テオトラルコ〈39〉は、香油を塗った黒髪を高く結い上げ、翡翠と金の耳飾りを揺らしながら、後宮の女たちの先頭に立った。彼女の綾織りの衣は、青と緑と白の糸を複雑に組み合わせてあり、歩くたびに布地の模様が水面のように揺れ動く。素足で踏む石の冷たさが足裏から伝わり、その上を薄い布がさらりと撫でていく感覚に、彼女は自然と背筋を伸ばした。
異国の客人たちは、鉄の鎧を脱ぎ、麻のシャツと革のベルトといういでたちで並んでいた。だが、その肩幅と腕の太さ、皮膚に刻まれた傷跡と日焼けが、布ごしでも十分に伝わってくる。テオトラルコの耳には、彼女の知らぬことばが飛び交い、金属の留め具が触れ合う軽い音が混ざっていた。
(この者たちと、どう話をすればよいのか)
テオトラルコは一瞬だけ不安に眉を寄せた。彼女もまた、白い肌の者たちが神々と関わりのある存在かもしれないと耳にしていたが、実際に目の前に立つと、それは神というよりも、巨大な獣か何かに近い印象であった。
ところが、アルバロが歩み寄ってきたとき、その口から出たのは、滑らかなナワトル語であった。
「香りが素晴らしいな。ここは、花とカカオと、女王の香油の匂いが混ざっている」
低く響く声が、彼女の耳に心地よく届いた。アルバロは、礼として片膝をつき、胸に手を当てた。その仕草はスペイン風でありながらも、目線の高さを故意に下げることで、相手への敬意を示していた。
「私はアルバロ・デ・モリーナ〈25〉。湖の王の妻、テオトラルコ殿とお見受けする」
テオトラルコはわずかに目を見開いた。白い男が、自分の名を正しく発音したのである。舌の上でナワトルの子音がもつれずに並ぶのを聞き、彼女は思わず隣の侍女と視線を交わした。
「そうだ。私はテオトラルコ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「貴殿の舌は、湖の言葉をよく覚えている」
「湖が美しいからだろう」
アルバロはあっさりと言い、少しだけ口元を緩めた。
「そして、湖の王の妻もまた、美しい。私はこれまでいろいろな土地を見てきたが、貴女ほど見事な髪と眼を持つ女性には出会ったことがない。モクテスマ王は、この世界でいちばん幸福な男に違いない」
あまりに臆面もない褒め言葉に、その場にいた侍女たちの肩が一斉に震えた。口元を手で押さえ、笑いを飲み込む者もいる。テオトラルコ自身の頬にも、熱がぱっと広がった。耳飾りがかすかに揺れ、その動きが自分の心臓の鼓動に合わせているように思えた。
彼女は生涯、王宮の内側で多くの男たちを見てきた。戦士、司祭、使者、商人。その誰もが、王の第一の妻に向かってここまであからさまに言葉を投げかけることはなかった。対面の作法と沈黙の重さが、そのような言葉の前に立ちはだかっていたからである。
「お前の国では、そのような言葉を妻に向かって平気で口にするのか」
テオトラルコは、半ば呆れ、半ば興味を抑えきれずに尋ねた。
「私の国では、真実を隠すより伝えたほうが、神々にも人にも喜ばれると言われている」
アルバロは、肩をすくめて見せた。
「それに、ケツァルコアトルが戻る道を守っている女たちに敬意を払うのは当然だろう?」
彼が自分のことを羽毛ある蛇の再来と名乗ったことを思い出し、テオトラルコは苦笑に似た息をこぼした。
「お前は口も雷のようだな」
そう言うと、彼女は侍女に合図して、泡立てたカカオを満たした黄金の杯を差し出させた。
「ならば、その口を潤す飲み物を与えよう。湖の王の家に来た者には、これを飲んでもらう」
アルバロが杯を受け取ると、表面の泡から香ばしい匂いと、わずかな唐辛子の刺激が立ちのぼった。舌に触れた瞬間、苦みと辛みと甘みが一度に広がり、喉を通るときには、腹の奥からじんわりと熱が立ち上がった。
「素晴らしい」
彼は素直にそう言い、杯の縁についた泡を親指で拭った。
「戦のあとには、水だけでは足りない。こういう飲み物がいる」
テオトラルコは、その言葉にわずかに安堵を覚えた。自分の用意した酒と食べ物が、あの雷と煙を従えた男の喉を満たしたのだと思うと、胸の奥の強張りが少しだけほどけたのである。
宴席の周囲では、笛と太鼓と貝殻のラッパが鳴り響き、踊り子たちの足が石畳を軽く叩いていた。羽飾りが揺れる音と、笑い声と、肉の焼ける匂い。そこにアルバロの低い笑い声と、テオトラルコの抑えきれない小さな笑い声が混ざると、宮殿の空気は、先ほどまでの不吉な重さから、奇妙な軽さを帯びていった。
テオトラルコは、杯を持つ手の中に残るカカオの温もりを感じながら、ちらりとアルバロの横顔を盗み見た。頬に刻まれた古い傷跡と、戦士の首筋の太さ。その男が、たった今この都の喉元を握る条件を飲ませた相手であることを、もちろん彼女は忘れていなかった。
だが同時に、ナワトル語で平然と女を褒め、子どものようにカカオを味わうこの大男のことを、頭ごなしに憎むことも出来なかった。
それでも、この口の軽さと厚かましさが長く都に留まれば、いずれ王宮のどこかを危うく揺らすかもしれないという小さな不安だけは、杯の温もりの下で静かに燻り続けていた。




