第3話――「うさぎ山の太鼓」
1519年3月30日、夜の名残がまだ川面に貼りついていた。コアツァコアルコスの野営地には、湿った土と川の泥と、昨夜のたき火の煙が薄く重なって漂っている。遠くでは、見えない猿の鳴き声と、まだ目覚めきらない森の鳥の声が、青黒い空の底からじわじわと湧き上がっていた。
川岸の高台に設けたスペイン軍の野営地では、兵たちが鎧の留め金を鳴らし、軍馬二十頭が鼻息を荒くして足を踏み鳴らしていた。革と汗の匂いに、馬の体温が混じり、まだ冷たい夜明け前の空気がそこだけ生暖かく感じられる。大砲の砲身には夜露が玉のように並び、砲手たちが布でそれを拭き取るたび、鉄と油の金属臭が立ちのぼった。黒人奴隷兵六十名は、丸盾と槍を抱えて無言で列を作り、その背後では二百匹の狩り犬たちが鎖を引き絞り、低い唸り声を続けている。
その一段高い土盛りの上に、ポテチカの一団が並んでいた。トラテロルコを本拠とする長距離交易商人たちである。彼らは色とりどりの羽飾りを頭に挿し、背中にカカオ豆の大きな袋や、翡翠や貝殻の詰まった籠を背負っていた。袋からは焙った豆の甘苦い香りがかすかに漏れ、明け方の冷気の中で、ひと筋だけ濃く鼻腔を刺した。モクテスマ二世の使者たちは、黒と白で編んだ旗と、王の印の刻まれた黄金の円盤を掲げ、まだ眠そうな目でスペイン軍の列を眺めている。
アルバロ・デ・モリーナは、川面から吹き上げてくる風を胸いっぱいに吸い込んだ。革鎧の下の肌に、うっすらと冷たさが染み込む。昨夜の酒と女の余韻が舌の奥にかすかに残っており、そこへ湿った土の匂いと焚き残りの煙が混ざって、不思議な苦みになっていた。
夜ごとに替わる女たちの肌も、まだ指先に残っていた。兄の未亡人であり今は正妻であるイサベルは、柔らかな香油の匂いをまとい、白い肩をたき火の赤で染めた。褐色のチャックニクは、森の葉と同じ匂いを肌に宿し、マヤ語とナワトル語の囁きでアルバロの耳をくすぐった。ルシア・ベニテスは、インヘニオの水車小屋で鍛えた強い腕で彼の首に巻きつき、砂糖と汗の甘い匂いを残していった。そのどれもが、今は川風の冷たさと重なり、目の奥でゆっくりと現実に溶けていく。
「出発だ」
アルバロの声が、湿った空気を切り裂いた。スペイン語で短く命じ、すぐにチャックニクに目で合図を送る。
チャックニクは赤い刺繍布を腰に巻き直し、一歩前に出てマヤ語とナワトル語で号令を張った。高地の言葉と湖の言葉が、彼女の舌の上で滑らかに入れ替わり、ポテチカとアステカの使者たちを同じ方向へ振り向かせる。川霧の向こうから応える声が返り、列はゆっくりと山側へ動き出した。
川辺の湿った土から、すぐに足場は石混じりの山道に変わった。馬たちは人に引かれ、騎兵たちは鐙から降りて歩きながら手綱を握る。踏みしめるたびに石が鳴り、靴底越しに伝わる硬さが、地形の変化を教えた。斜面には乾いた草と低木が増え、朝日が上るころには、潮の匂いよりも、松の樹脂と土埃の匂いが強くなった。
山道はところどころ、山肌に刻まれた細い切り通しになっていた。人ひとりがようやくすれ違える幅のところを、ポテチカたちは迷いなく進む。彼らの足首には、うさぎの尾のような白い毛の飾りが揺れ、荷の紐が肩に食い込む音がぎしぎしと続いている。鳥の羽飾りが朝日に光り、尾根を越えてくる風が汗ばんだ首筋を撫でた。
途中で野営を挟むときも、空気には緊張よりも笑い声の方が多く混ざっていた。ポテチカたちは、別の地方の珍しい果実を取り出しては、黒人兵やスペイン兵に味見をさせた。酸っぱい果汁が舌の側面を刺し、棘の多い皮を剥くときの匂いが、たき火の煙と絡み合う。兵たちは初めて口にする果物の名を言い当てようとしては外し、焚き火の輪に笑いが広がった。
夜になれば、軍馬の影と同じくらい大きなアルバロの天幕に、順番を決めた女たちが消えていった。イサベルの天幕からは、低い祈りの声と子どもたちの寝息が漏れ、アルバロの天幕からは、押し殺した笑い声と、布と布が擦れる音が短く響いては止んだ。外で見張りに立つ兵たちは、たき火で硬くなったパンをかじりながら、その音を聞き流し、夜の森のほうへ耳を澄ました。
やがて、山道の向こうに「うさぎ山」が姿を現した。なだらかな稜線のあちこちに白い岩が露出し、遠目には跳ねるうさぎの背中のように見える。その山腹には段々畑のように石造りの土台が重なり、その上に四角い倉庫とポテチカの宿営小屋が並んでいた。乾いた土の斜面からは、豆やとうもろこしを茹でる匂い、焙ったカカオの甘い香りが風に乗って届き、長旅で鈍った胃袋が一度に目を覚ました。
だが、トチテペクの石段を登りきるころ、空気の味は急に変わった。
ポテチカの一人が足を止め、うさぎ山の向こう側をじっと見つめる。次の瞬間、彼は肩の荷を地面に落とし、短い悲鳴のような言葉を吐いてチャックニクの方へ駆け寄ってきた。マヤ語とナワトル語が矢継ぎ早に飛び交い、チャックニクの顔色がさっと強張る。
「アルバロ。山の向こうで太鼓が鳴っています。イシュタパラパの軍の合図です」
耳を澄ますと、確かに風の切れ目から、遠い太鼓の低い響きと、貝殻のラッパのかすれた音が聞こえた。山裾の向こう側には、乾いた土煙がうっすらと立ち上り、朝日を受けて赤茶けた霞になっている。
トチテペクの倉庫群の向こう、開けた谷底には、既に色とりどりの羽飾りと旗が波打っていた。赤と青と黒で塗られた顔、黒曜石を嵌め込んだ棍棒、長槍の穂先が、蟻の群れのように密集している。数にして二万。テノチティトラン南部イシュタパラパの総督クイトラワクが率いる軍勢である。
兵たちの叫び声は、まだ距離があるはずなのに、耳の奥で直接響いた。地面が細かく震え、靴底に伝わる振動が、一歩ごとに強くなっていく。
「慌てるな」
アルバロは、ほんの一度だけ眉をひそめ、すぐに声を張った。
「砲兵、前へ。大砲を倉庫の前に横一列だ。弾は石と鉄片を混ぜろ。弩兵はその後ろに並べ。黒人兵は左右の倉庫の影へ下がり、迂回してくる敵を押さえろ。騎兵と犬は中央で待機だ」
命令はスペイン語で発せられ、すぐさまチャックニクの舌を通ってマヤ語とナワトル語に変換された。ポテチカたちは倉庫の陰へ物資を引き入れ、トチテペクの現地の兵はおろおろとしながらも、その流れに巻き込まれていく。
二十門の大砲が、うさぎ山の斜面に沿って半月形に据え付けられた。砲身の内側には、砕いた石と鉄片を詰め込んだ袋が押し込まれる。砲手たちは火薬を計量し、紙筒を破ると、硫黄と炭のむせる匂いが立ちこめた。舌の奥にかすかな苦みが残り、喉の粘膜がじんと熱くなる。
ルシアは黒人奴隷兵の列を左右に分け、倉庫の影に潜ませた。彼らの肌には汗が玉のように浮かび、緊張で強張った手が槍の柄を握り締める。犬たちは鼻先を震わせながら、まだ見えぬ血の匂いを嗅ぎ取ろうとしているのか、低く唸り続けた。
やがて、イシュタパラパ軍が姿を現した。
谷底の向こうから、羽飾りと槍の林がうねりながら押し寄せてくる。前列には大きな盾を持った戦士たち、後列には投槍と矢を構えた兵が続き、さらにその後ろには白と黒の羽をつけた高級戦士たちが声を張り上げている。クイトラワク自身は、羽根で飾った輿の上に立ち、黒曜石の刃を嵌め込んだ棍棒を掲げた。彼の顔には黒い顔料が塗られ、目は憎悪で血走っていた。
兜の内側で、スペイン兵の額にも汗がにじんだ。喉が渇き、乾いた唾がからからと鳴る。鼻先には、迫り来る軍勢から漂ってくる人いきれと樹脂と顔料の匂いが混ざった、重い空気がまとわりついた。
「まだだ。もっと引きつけろ」
アルバロは、砲列の前に立って敵を睨んだ。足元の土はわずかに震え、握った指揮杖の先が微かに揺れる。
イシュタパラパ軍との距離が、矢の届くぎりぎりの線に迫ったその瞬間、アルバロは右手を高く上げ、そのまま振り下ろした。
「撃て」
二十門の大砲が、ほぼ同時に咆哮した。
山間に閉じ込められた轟音が、耳の奥を焼き切るように突き刺さる。地面が跳ね上がり、足元の小石が踊った。目の前を、白い煙の塊が一気に覆い尽くし、その中で熱と圧力が肌を叩いた。火薬の匂いが鼻孔を焼き、舌の上には焦げた金属の味が広がった。
煙の幕の向こうで、石と鉄片が音もなく空を裂き、密集した戦士たちの胸と腹と顔に叩きつけられた。人の身体がちぎれる音は、耳には届かず、ただ煙の向こうから、いきなりいくつもの声が一度に途切れた。次の瞬間、砕けた骨と肉の塊が土の上にばらまかれる鈍い音と、遅れて上がる悲鳴が、波のように押し寄せた。
クイトラワクの輿の周りで、羽飾りと盾が次々と宙に舞い上がり、黒曜石の棍棒を握ったままの腕が、胴から離れて地面に転がった。鮮やかな羽根に、鮮血がべったりと貼りつき、さっきまで神々のための儀礼に使われていた色が、別の意味を帯びて谷底を染めた。
イシュタパラパの戦士たちは、その光景を信じられないものを見る目で凝視した。空が裂けたような音の後、自分たちの仲間が盾ごと吹き飛ばされ、肉と骨が一緒くたになって転がっている。彼らの鼻孔にも、初めて嗅ぐ火薬の焦げた匂いが飛び込み、喉の奥で息が引っかかった。




