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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第1章――「サントドミンゴ篇 砂糖と疫病と未亡人」

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第2話――「兄の屋敷でキューバ利権を託されるアルバロ」

 丘を上る石畳の道が終わると、白い塀に囲まれた屋敷が現れた。


 赤い瓦屋根の上には、まだ若い椰子の木が二本、風に揺れている。塀の上には簡素な十字架が据えられ、門扉の前では槍を持った兵が二人、姿勢を正していた。


「こちらが、フアン・デ・モリーナ殿のご邸宅でございます」


 港務役の男が胸を張って言った。


 門が開くと、中庭の向こうに二階建ての母屋が見えた。回廊の影の部分はひんやりとしており、中央の井戸からは水を汲み上げる滑車のきしむ音が聞こえる。


「兄上は?」


「お待ちかねでございます。さあ、どうぞ」


 アルバロは一歩、影の中へ足を踏み入れた。さっきまで肌を刺していた太陽の熱が、背中からすっと抜けていく。


 中庭を横切ると、玄関前の階段の上に、一人の男が立っていた。


 背筋を伸ばし、黒い短い髭をきちんと整えている。肩には上質の生地の上着。腰には剣。


「アルバロ!」


 兄フアン・デ・モリーナである。


 その声は昔のままだった。


「兄上」


 アルバロは笑顔で階段を上がり、両手を広げた。二人は短く抱き合った。鎧ではなく、布と汗と香木が混ざった、植民地の役人の匂いがした。


「よく来てくれた。海は荒れなかったか?」


「退屈と吐き気ばかりで、海そのものは大人しかったよ」


「お前は子どものころからそう言っていた。こっちは毎日が嵐みたいなものだがな」


 フアンは冗談めかして笑った。


「さあ、中へ。イサベルも待っている」


 兄が名前を口にした瞬間、アルバロの胸の奥で、何かが静かに反応した。


 それを表には出さず、彼は素直な弟の顔でうなずいた。


 

 ◇ ◇ ◇


 食堂は、白い壁と濃い木の梁で構成された、こぢんまりとした広間だった。開け放たれた窓からは中庭が見え、壺に挿した花とテーブルクロスが、無理にでも「本国の家」を再現しようとしているのがわかった。


 テーブルの一端には、淡い青のドレスをまとった女が座っていた。


 イサベル・デ・サラサール。


 髪はきちんとまとめられ、額には汗ひとつ浮かんでいない。手には祈祷書ではなく、来客用の杯があった。


「アルバロ様。ようこそ、サントドミンゴへ」


 彼女は椅子から立ち上がり、静かに礼をした。声は昔と変わらず落ち着いているが、その眼差しには、見知らぬ土地で暮らしてきた年月の影が、ほんの薄く宿っているように見えた。


「お会いできて光栄です、イサベル義姉上」


 アルバロは、決して長すぎない程度の時間だけ視線を彼女に向け、丁重に頭を下げた。


「兄上から、こちらでのご活躍を何度も聞いております。先住民の子どもたちのために服を縫っておられるとか」


「たいしたことではありません。こちらに来てから、布と糸しか取り柄がなくて……」


 イサベルはわずかに微笑んだ。控えめな笑みでありながら、その瞬間、頬の線と目元の柔らかさが、アルバロの記憶にあった少女の面影と重なった。


 彼はその重なりを味わいながらも、表向きは何でもない顔で続ける。


「神は、小さな善行を見逃されません。兄上は幸運なお方だ」


「そう言ってくれるのは、弟のお前だけだ」


 フアンが割って入り、笑いながら席を勧めた。


 食卓には、塩漬けの肉と豆、とうもろこしのパン、乾いたチーズ。そしてこの土地の果物が並んでいた。


「まずは食べろ。船の飯よりはましなはずだ」


「それは疑いようもない」


 アルバロはパンをちぎり、口に運んだ。


 会話は、本国の近況から教会の噂話、サントドミンゴの気候の話へと、無難なところをゆっくりと回った。イサベルは多くを語らないが、話題の端々で必要な言葉を添え、客と夫の間を滑らかにつないでいる。


 そのさりげない配慮が、彼女の育ちと性格を物語っていた。


 やがて食事も終わりに近づいたころ、扉の隙間から、小さな顔が二つ、ひょこりとのぞいた。


「お父さま……」


 フアンが振り向く。


「入ってきていいぞ。叔父上に挨拶を」


 中に入ってきたのは、まだ8歳と5歳ほどの兄妹だった。髪と瞳は父親譲りの黒で、肌はこの土地の太陽に少しだけ焼けている。


「叔父上に、ごきげんようは?」


「ごきげんよう、ドン・アルバロ」


 二人はぎこちない礼をした。


「よくできました」


 アルバロは笑い、懐から干しぶどうの袋を取り出した。


「船で退屈しのぎに食べていたものだ。少しだけ、分けてやろう」


 イサベルが、子どもたちを一瞬見やり、何も言わずにうなずいた。


「ありがとうございます、叔父上」


 小さな手が伸び、甘い実が指の間から消えていく。子どもたちの表情がふわりと明るくなるのを見て、アルバロは満足げに目を細めた。


 子どもはいじめない。ここでも、その決まりを守るのは難しくなかった。


 それどころか、兄の家に根を下ろしている小さな命たちの存在は、別の意味で役に立ちそうだった。


(この家を壊すときは、子どもたちの居場所を先に用意してやればいい)


 心の中で、ごく静かにそう付け足しながら、彼は杯のぶどう酒を飲み干した。


 

 ◇ ◇ ◇


 食後、イサベルと子どもたちは侍女を連れて部屋に下がり、屋敷は少し静かになった。


 フアンは「少し話がある」と言って、弟を執務室へと連れて行った。


 執務室は、簡素な木の机と本棚、それに壁にかけられたスペイン王の肖像画で構成された、実務のための部屋だった。窓は小さく、その代わりに机の上にはろうそくが二本灯っている。


 机には、紙の束と革表紙の帳簿がいくつも積み上げられていた。


「ずいぶん働いているようだな」


 アルバロは、山になった書類を眺めて言った。


「働かされている、と言ったほうが正しいかもしれん」


 フアンはため息をつき、椅子に腰を下ろした。


「ここイスパニョーラ島の畑、町の道路、井戸、教会の建設。それに本国への報告書だ。ペンを持つ手が二本では足りん」


「それで、弟を呼んだわけか」


「もちろん、それもある」


 フアンは机の端に置かれた、別の帳簿の束に手を伸ばした。


「だが、本当にお前に任せたいのは、こっちだ」


 革表紙の帳簿が、机の上にどさりと置かれた。


 表紙には、太い字で地名が記されている。


 『サン・クリストバル農園』


 その下に、小さく『キューバ島』と添え書きされていた。


「……キューバか」


 アルバロは、自然な動作で帳簿の表紙を撫でた。


「お前も知っているだろう。私はキューバ島の一部にエンコミエンダを預かっている。先住民と黒人奴隷を使ってサトウキビを育て、砂糖をこちらへ運ばせている」


「父上から聞いている。『フアンは畑まで手に入れた。お前も少しは見習え』とな」


「それは言いそうだな」


 兄弟は一瞬だけ笑い合ったが、フアンの顔はすぐ真面目に戻った。


「だがな、アルバロ。ここ数年、そのキューバの畑が、思うように回っていない」


「思うように、とは?」


「収穫は報告より少ない。病気の流行だ、嵐だ、逃亡だと、現地の監督官は言い訳ばかりだ。砂糖を積んだ船の数は減り、こちらに届く銀貨も減っている」


 フアンは指で机をとんとんと叩いた。


「私はここで知事の仕事がある。毎日、細かい訴えや土地争いに時間を取られる。キューバへ渡って、畑と人間をしばり直す余裕がない」


「そこで、弟の出番というわけか」


「そういうことだ」


 フアンは、弟を真っ直ぐに見た。


「表向き、お前は知事府の補佐だ。だが本当は――私のキューバの領地とエンコミエンダの代理人になってほしい」


 アルバロは、少しだけ眉を上げてみせた。


「代理人」


「ここサントドミンゴで帳簿を見て、現地の監督官に手紙を出してくれればいい。いずれ様子を見に渡ってもらっても構わん。聖職者の家で鍛えられたお前の目なら、ごまかしを見抜けるだろう」


「兄上は、現地の者たちを信用していないと」


「完全にはな」


 フアンは苦笑した。


「私とて、彼らを無意味に痛めつけたいとは思わん。だが、義務を果たさぬ者にはそれなりの処置がいる。私は神に対しても王に対しても責任がある。その間を、うまく埋めてくれる者が必要だ」


「それを、弟に頼むと」


「お前ならできる。数字も読めるし、人の顔色も読める。子どものころからそうだった」


 兄はそう言って笑ったが、その笑みの裏に潜むものには気づいていないようだった。


 アルバロは、短く息をつき、軽く肩をすくめて見せた。


「光栄なことだ。兄上の名に泥を塗らぬよう、務めさせてもらう」


「泥どころか、きれいにしてくれればそれでいい」


 フアンは立ち上がり、窓の外を見た。


「今日は長旅で疲れただろう。帳簿はここに置いていく。明日からゆっくり目を通してくれ」


「わかった」


 兄が部屋を出ていく足音が遠ざかるのを聞き届けてから、アルバロは椅子に腰を下ろした。


 

 ◇ ◇ ◇


 執務室には、彼一人だけが残された。


 蝋燭の炎が、帳簿の革表紙を黄色く照らしている。


 アルバロは一冊を開いた。


 そこには、きちんとした筆跡と、雑な筆跡が入り混じっていた。


 畑の区画ごとの収穫量。先住民の人数。新しく買った黒人奴隷の数。病死と逃亡の記録。砂糖を積んだ船の出航日と、到着した銀貨の額。


 行と列が重なり合い、数字の網の目を形作っている。


 彼はその上を、指先でなぞるように目を走らせた。


(ここの数字が、妙に揃いすぎているな)


(こっちは、毎年同じ言い訳か)


(この船乗りの名は、さっき港で聞いたばかりだな)


 点と点が、頭の中で線になりはじめる。


 兄の言う通り、この帳簿にはごまかしが混じっていた。


 だが、アルバロが興味を引かれたのは、単にそれだけではない。


 こことサントドミンゴの港、本国の商人たち。その間で、砂糖と銀が行き来している。


 その流れの途中に、自分が立つことになる。


「役所の椅子より、遠い島の畑のほうが、よほど自由に数字を動かせそうだ」


 彼は、小さくつぶやいた。


 兄の信頼に応えれば、兄の名のもとで指示を出す権利が手に入る。


 監督官に命じるとき、彼らは手紙の署名ではなく、そこに添えられた印章と銀の行き先を見る。


 その印章と行き先を決めるのが、実質的に誰なのか。


 答えは、簡単だった。


 アルバロは帳簿を閉じ、蝋燭の火を一本吹き消した。


 

 ◇ ◇ ◇


 夜の屋敷は静かだった。


 与えられた客間の窓を開けると、外には中庭と、向かい側の回廊が見えた。


 石畳の上には、月の光が薄く溜まっている。


 視線を上げると、二階の一角に、まだ灯りの消えていない窓があった。


 薄いカーテン越しに、女の影がゆっくりと動く。


 髪をほどいているのか、それともロザリオを手に祈っているのか。


 どちらでもよかった。


 兄の妻であり、かつて書斎の片隅で祈祷書を開いていた少女。その延長線上にいる女。


 イサベル。


 アルバロは窓枠にもたれながら、先ほど兄から聞いた言葉を反芻した。


 ――お前を、私のキューバの領地とエンコミエンダの代理人にしたい。


「代理人、ね」


 彼は口の端を上げかけて、すぐに抑えた。


 兄のための代理人であるふりをしながら、自分のために数字と人間を動かす。


 屋敷の中では、敬虔な弟として振る舞いながら、兄の妻の心の行き先を、少しずつ別の方向へ導いていく。


 どちらも、一朝一夕にはいかない仕事だった。


「退屈と吐き気だけの船旅よりは、ましそうだ」


 独り言が、夜気の中で消えた。


 アルバロ・デ・モリーナは、窓を静かに閉めた。


 この屋敷とキューバの畑、そのどちらもが、やがて自分の「盤面」になる未来を思い浮かべながら、彼はベッドへと向かった。

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