第8話――「チャックニクの知恵とテワンテペク地峡」
1519年3月初め ポトンチャン、モリーナ家仮屋敷。
面白くないのは、チャックニクであった。
自分の意志とは関係なく白い男の妻となり、その男が数日のうちに別の女を2番目の妻に迎えたのだ。プトゥン人の掟から見ても、決して愉快な話ではない。
チャックニクは大きな鼻をひくつかせ、何も言わないまま日々を過ごした。言葉に出せば、父の決めた縁組に逆らうことになる。それでも胸の奥では、黒く重たいものが渦を巻いていた。
ただ、彼女は頭の良い女であった。
ルイスに腹を立てるだけでは、自分の行く末は決して良くならないと分かっていた。
何よりも、夜ごとにルイスがいそいそとイシュタの小屋へ通うのを見れば見るほど、チャックニクの心は自然とアルバロの方へ傾いていった。
ルイスはまだ少年の面影を残した青年にすぎない。だが兄のアルバロは、戦の場で前に立ち、酋長とも対等に言葉を交わす男であった。川を渡り、港を押さえ、この町の行く末を決めているのはあの男である。
チャックニクは、夕食の席で事あるごとにアルバロに話しかけた。
言葉の多くはまだマヤ語である。だが日々の会話で覚えたスペイン語を混ぜ、身振りを交えながら、彼女は「耳寄りな話」を少しずつ持ち出した。
「ドン・アルバロ」
ある晩、イサベルが子どもたちを寝かしつけに席を外したとき、チャックニクは杯を置き、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「あなた、カカオ、たくさん欲しい。そうね」
「もちろんだ」
アルバロはパンをちぎりながら答えた。
「王都に持って行くにも、この先の遠征の糧にするにも、カカオはいくらあっても困らない」
「プトゥン人、カカオ、ここで集めるだけじゃない」
チャックニクは指で卓の上に線を引いた。
「海、ここ。川、ここ。森の中、マヤ村。もっと先、山の向こう、トチテペク『うさぎ山』」
彼女は自分の言葉で早口に説明し、ところどころをスペイン語で補った。ルイスが横からときどき単語を補い、意味をつなぐ。
「トチテペク、と言ったか」
アルバロは身を乗り出した。
「聞いたことのある名だな」
「トチテペク、『うさぎ山』」
チャックニクは、両手で山の形を作って見せた。
「そこ、ポテチカたちの根っこ。新しい大きな町。たくさんの商人が住む。そこからタバスコへ、ショコノチコへ、もっと遠くへ。カカオの名産地、みんなそこから行く」
「ポテチカ?」
アルバロは聞き慣れない音を繰り返した。
「それは何だ」
「ポテチカ」
チャックニクは、今度は人差し指を立てて歩かせる真似をした。
「歩く人。遠く遠く歩く。王の耳と目。荷物、いっぱい持ち、話、いっぱい持ち帰る。塩、カカオ、羽、翡翠、黒曜石。全部、彼らの手を通る」
アルバロの目が細くなった。
新大陸を股にかけた交易商人。王のために遠方を歩き、税としてカカオを集め、情報を運ぶ者たちである。
「そのポテチカたちは、今どこにいる」
「何人か、ここに来る」
チャックニクは窓の外を顎で示した。
「カカオを集めに来る。あなたたちが来た、と聞いて、しばらく様子を見る。でも、カカオ欲しいなら、彼らと話すといい。彼ら、森の中の村のことも、王都のことも、よく知っている」
ルイスが通訳するように補った。
「兄上、ポテチカというのは、テノチティトランの王に仕える商人だそうです。トチテペクを根拠地にして、メキシコ湾岸のタバスコや、太平洋側のショコノチコなどを回りながら、税としてカカオを取り立てていると」
「テノチティトランの王の財布を握る連中、というわけか」
アルバロは、ほくそ笑みたくなる衝動を押さえた。
港と川を握っただけでは足りない。その先、森の中と山の向こうでカカオを動かしている者たちの喉元を押さえなければ、本当に王の力を揺さぶることはできない。
チャックニクは、さらに身を乗り出した。
「もう一つ、言う」
彼女の瞳が、焔の光を映して黒く光った。
「テワンテペク」
「テワンテペク?」
「ここから、もっと東。ポトンチャンの海から、船で東へ。海を行くと、コアツァコアルコスという川の口に着く。そこから陸を南へ行く。山を少し越えると、大きな海がある」
彼女は卓の上に二本の線を引き、その間に短い線を渡した。
「ここ海、ここ海。その間、陸。短い。ポテチカたち、そこも通る。コアツァコアルコスから陸を下り、大きな海の港、サリナ・クルスへ。そこから、もっと南へ行く船に乗る」
アルバロは、思わず息を呑んだ。
地図のない土地で、女の指が描いた線が、頭の中で一本の道として結びついていく。
テワンテペク地峡。大西洋と太平洋が最も近づく場所。そこを押さえれば、海の道と陸の道をひとつの手の中に握ることができる。
「お前は、なぜそんなことを知っている」
アルバロは問うた。
「父が、ポテチカと仲良い」
チャックニクは、少しだけ胸を張った。
「娘たちを、森のマヤ族にも、トチテペクにも嫁がせる。私の姉、トチテペクにいる。だから話を聞いた。海の話も聞いた。王の話も聞いた」
幼い頃から、マヤ族の親族やポテチカの男たちが家に出入りし、遠い土地の話をしていた。その声を、チャックニクは炉端の片隅でじっと聞いていたのである。
ルイスが、横で苦い顔をしていた。チャックニクが自分とは別の世界とつながっていることを、この場になって初めて思い知らされたからであった。
アルバロは、椅子の背にもたれた。
「プトゥン人と取引をしているポテチカたち。トチテペク『うさぎ山』。コアツァコアルコスの川口と、南のサリナ・クルス」
彼は口の中で地名を繰り返し、頭の中で見ぬ地形を並べていった。
「まずは、ポテチカだな」
やがて、彼は結論を口にした。
「テノチティトランへ行く前に、王の財布を握る連中と顔を合わせておく必要がある。彼らがこちらをどう見るか、こちらが彼らに何を見せるか。それを決める場が要る」
チャックニクが、静かにうなずいた。
「私、話す手伝い、できる」
彼女は、自分の胸を指差した。
「マヤの言葉も、ナワトルの言葉も、少しスペインの言葉も分かる。あなたの言葉、ポテチカに渡す。ポテチカの言葉、あなたに戻す」
アルバロは、その申し出を受け入れない理由を見つけられなかった。
「頼むぞ、チャックニク」
彼は真面目な声で言った。
「お前はルイスの妻であり、同時にこの港と森と王都をつなぐ橋だ。ルイスも忘れるな」
突然話を振られた六弟は、慌てて姿勢を正した。
「は、はい、兄上」
「チャックニクを正妻として立てるという約束は、今まで以上に重くなる。彼女を粗末に扱えば、プトゥン人だけでなく、ポテチカや森のマヤ族まで敵に回すことになる」
ルイスは、うなずくしかなかった。
その夜、アルバロは地図代わりの羊皮紙の端に、新しい名をいくつか書き込んだ。トチテペク、タバスコ、ショコノチコ、コアツァコアルコス、サリナ・クルス。
そして、ひときわ強い筆で「テワンテペク」と記した。
川の流れだけでなく、海と陸をつなぐ細い首を、どうやって自分の手の中に収めるか。
アルバロは興味を抑えられなかった。
まずはプトゥン人と取引をしているポテチカたちと接触してみることに決め、翌朝にはルシアとトマスを呼びつけて、港での商人の動きを洗い出すよう命じた。
ポトンチャンの川面には、相変わらずカカオを焙る甘い香りが漂っていたが、その香りの向こうで、海と森と王都を巡る新しい道の筋が、静かに形を取り始めていた。




