第6話――「六弟ルイスと酋長の娘(後編)」
1519年2月22日 早朝。ポトンチャン、河畔のスペイン陣。
薄い板壁の隙間から、斜めの陽光が差し込んでいた。埃が光の筋の中で浮かび、川風がかすかに土の匂いを運んでくる。
ルイスは、固い床の上で目を覚ました。頭の下には丸めたマント、身体には昨夜のままのシャツ。
隣には、布を胸まで引き上げた女が横たわっていた。
彼はゆっくりと身を起こし、女の顔を見た。
心臓が一瞬、止まったように感じた。
頬は思っていたよりも丸く、鼻は高くて大きかった。顎はしっかりしており、眉は太い。目は大きく、黒曜石のように光っているが、昨日市場で見た娘とは明らかに違っていた。
イシュタではなかった。
女は、静かにルイスを見返した。恐怖よりも、諦めと覚悟の色が強い目であった。
ルイスは喉の奥を乾いた息が通るのを感じた。
「……間違えた」
思わずスペイン語でそう呟いた。
扉の外で、誰かの足音がした。
「ルイス! 中にいるのか!」
フランシスコの声であった。扉が乱暴に叩かれる。
「開けろ。酋長が怒り狂っている。娘がひとり、いなくなったと騒いでいる」
ルイスは顔を歪めた。
◇ ◇ ◇
広場の中央に、いつもの椅子が再び並べられた。
アルバロは片肘を椅子の背にもたせ掛け、前方をじっと見据えていた。その前には、縄でゆるく手を縛られたルイスが立っている。肩には昨夜の小屋の埃がついたままであった。
その横には、色鮮やかな布で身体を包んだ若い女が座らされていた。髪には赤い紐と貝殻の飾り。鼻は大きく、顎はしっかりしている。しかし首には精巧な翡翠の首飾りが幾重にも巻かれ、耳には貝と金属の飾りが光っていた。
酋長が彼女の後ろに立ち、目を血走らせてスペイン側を睨んでいる。
通訳が、怒鳴り声を必死に言葉へ変えた。
「酋長は言っている。『お前たちは、夜のうちに我が娘をさらい、穢した。戦場で男が倒れるのは構わぬ。だが、娘に手を出したことは許せぬ』」
「娘、だと」
フランシスコが小声で呟いた。
ルイスは蒼白になった顔のまま、足元を見つめていた。
アルバロはしばらく何も言わなかった。やがて、ゆっくりと立ち上がり、弟の前まで歩を進めた。
「ルイス」
低い声であった。
「昨夜、何をした」
ルイスは唇を噛み、やっとのことで顔を上げた。
「兄上……私は……イシュタの家だと聞かされて……」
「答えになっていない」
アルバロは弟の胸を軽く拳で叩いた。
「女の家に夜中に押し入り、連れ出した。それだけで十分である。何をどう言い繕おうと、ここではひとつのことしか意味しない」
彼は酋長の娘に目を向けた。
少女はじっとアルバロを見返していた。恐れているが、震えはしていない。
アルバロは心の中で、短く計算した。
ここで血で償えば、プトゥン人の怒りは一時は静まるかもしれない。しかしルイスを殺せば、モリーナ家の中に穴が空く。森のマヤ族との橋も断たれる。
一方、娘をただ返すだけでは、彼らの掟に反する。酋長は面子を潰され、必ず恨みを残す。
ならば取るべき道はひとつであった。
「通訳」
アルバロは男を手招きした。
「酋長に伝えろ。我々の神の前でも、女の身にこうしたことが起きたとき、男は責任を取らねばならぬ。私の弟は愚かだった。だが、私の家の血を汚れたままにするつもりはない」
通訳が慌ただしく言葉を運ぶ。酋長の目の炎が揺れた。
「責任とは、どういう意味だと酋長は聞いている」
「この女をただの慰みものにはしないという意味だ。私の弟ルイス・デ・モリーナは、彼女を妻として迎える。教会の儀式は後になるが、我々の神の前でも、人々の前でもそう認めるつもりだ。酋長の娘は、我が家の娘になる」
広場にざわめきが走った。スペイン兵たちは目を見開き、プトゥン人たちは互いに顔を見合わせた。
酋長は娘の肩に手を置き、しばらく黙っていた。
「酋長は言う。『娘はまだ誰にも与えていない。森のマヤ族の若い戦士に嫁がせる話もあった。だが、お前たちの言う通り、夜に男とひとつ屋根の下にいたなら、もはや元には戻れぬ』」
酋長はゆっくりとアルバロに目を向けた。
「『お前は本当に、この娘を捨てないと約束するか』」
「約束する」
アルバロは即座に答えた。
「この娘は、今後ポトンチャンと森のマヤ族との橋になる。我々がこの港を守り、カカオを運び出すとき、彼女は我々の家と酋長の家の証になる」
通訳が伝えると、酋長は長く息を吐いた。
やがて、彼は自分の胸を拳で叩き、娘の肩を押し出した。
「酋長は言う。『よかろう。その言葉を信じる。娘の名はチャックニクだ。お前の弟の妻としてやる。代わりに、我らのカカオと塩はお前の印を通す。森の親族にもそう伝える』」
ルイスの胸の中で、何かが崩れ落ちる音がした。
アルバロは弟の方へ向き直った。
「聞いたな」
ルイスは、乾いた喉でようやく声を絞り出した。
「兄上……私は……そんなつもりでは……」
「『そんなつもりではなかった』という言葉は、女の家に入る前に言うものだ」
アルバロは冷ややかに言った。
「カトリックの男として、やるべきことはひとつである。彼女の前に膝をつき、名を名乗れ」
ルイスは目を閉じ、ゆっくりと膝をついた。
チャックニクは驚いたように彼を見下ろした。
「……私はルイス・デ・モリーナ。愚かな男だが、これからはお前の夫になる」
スペイン語は通じない。それでも、声の調子と膝をついた姿勢だけで、意味は伝わったらしい。
チャックニクはしばらく黙っていたが、やがて小さく顎を引いた。
アルバロはその様子を見て、心の中で計算をもう一度繰り返した。
プトゥン人の酋長の娘。森のマヤ族とも血の縁を持つ女。
六弟は、自分でも気づかぬうちに、黄金よりも厄介で、しかし使い方次第では黄金よりも価値のあるものをさらってきたことになる。
兄は、ほくそ笑みたい衝動を喉の奥で押し殺し、表情を変えずに椅子へ戻った。
これでポトンチャンは、単なる占領地ではなく、モリーナ家と結びついた土地になった。
森のマヤ族がどう動くか。その先の道すじは、また別の話である。




