第4話――「カカオの香りと家族の団欒」
1519年2月20日 夕刻。ポトンチャン沖、旗艦の船室。
窓の外には静かになった川口が見えていた。岸辺には新しくかけられた仮橋が影を落とし、その向こうにポトンチャンの家々の輪郭が薄暗い空に沈んでいる。松明の列が水面に揺らめく火の筋を描き、遠くから焚き火のぱちぱちという音が微かに届いていた。
船室の中には柔らかな灯りがともっていた。イサベルは寝台のそばの椅子に腰掛け、膝の上に小さな男の子を抱いている。まだ2つになったばかりのディエゴである。彼は母の指を握りしめたまま、半分眠たそうな目で部屋の入口を見つめていた。
その横では、長女のマリア・エレナが窓辺の腰掛けに座り、外を行き来する小舟の灯りを数えている。白い足が床の上でぶらぶらと揺れた。
扉が静かに開いた。
「ただいま戻った」
アルバロが姿を見せると、部屋の空気がぱっと明るくなったように感じられた。鎧は既に外し、麻のシャツの袖をまくり上げている。腕や首筋には泥と血の跡が残っていたが、顔にはいつもの陽気な笑みがあった。
「お父さま!」
マリア・エレナが最初に声を上げた。腰掛けから飛び降り、走り寄る。アルバロは片膝をつき、両腕を広げて娘を抱き上げた。
「おお、我が姫君。船は揺れていなかったか」
「ちょっとだけ。でも、わたしは泣かなかったわ」
「それは偉い」
アルバロは笑い、娘の髪に顔を埋めて塩の匂いを嗅いだ。
「あなた」
イサベルが立ち上がった。目がまずアルバロの顔を確かめ、次に胸元や腕の傷へと移る。
「怪我は?」
「かすり傷程度だ」
彼は肩を軽く回して見せた。麻の袖から覗く皮膚には浅い切り傷がいくつか走っていたが、血はもう止まっている。
「矢が鎧に当たったが、ポトゥン人の腕では鉄を貫けん。心配するほどのものではない」
「心配するに決まっているでしょう」
イサベルは小さく息をつき、そっと袖口をめくった。乾きかけた血の筋を指でなぞる。
「また無茶をしたのね」
「無茶は若い連中の役目だ。私は少し前を歩いただけだ」
アルバロは軽口を叩き、マリア・エレナをもう一度抱き締めた。娘がくすぐったそうに笑う。
「ディエゴも、お父さまよ」
イサベルが膝の上の男の子を抱き直し、アルバロの方へ差し出した。ディエゴは眠そうな目をこすりながら、父の手をじっと見つめる。
「ほら、握ってみろ。これは今日、川で暴れた手だぞ」
アルバロが指を差し出すと、ディエゴは小さな指でそれをぎゅっと掴んだ。大人と子どもの指の太さがまるで違う。部屋に笑い声が広がった。
「こわくないの?」
マリア・エレナが首を傾げた。
「何がだ」
「お父さまの剣。血がついているんでしょう?」
「もう洗った」
アルバロは腰の剣に触れた。
「でもな、あれは怖がるためのものじゃない。お前たちが静かな場所で眠れるようにするための鉄だ」
イサベルがその言葉にわずかに眉を上げたが、何も言わなかった。代わりに窓の外へ目を向ける。岸辺の火が、波の上で細かく揺れている。
「町はどうなったの?」
「港と倉庫は押さえた。明日から、あの倉庫に積まれている豆や羽を全部数えさせる」
アルバロはどこか楽しそうに口元を緩めた。
「豆?」
マリア・エレナが目を輝かせた。
「甘い豆かしら?」
「そうだ。焼いて潰して温かい飲み物にすると身体がぽかぽかになる。ここの連中は、それをたいそう大事にしているらしい」
「わたしも飲める?」
「もちろんだ。港を守ろうとした戦士たちには気の毒だが、その分、お前の口に入る」
「まあ」
イサベルが苦笑した。
「あなたはすぐにそういう言い方をする」
「事実だ」
アルバロは肩をすくめた。
「だが心配するな。向こうの連中にも残しておく。全部こちらへ運び出してしまえば、豆を作る者がいなくなるからな」
そう言って、マリア・エレナの額に軽く口づけを落とした。
「明日には、ここより少し陸寄りに家を用意させる。黒人の侍女たちと一緒に移るといい。川風より木陰の方が子どもには優しい」
「ええ」
イサベルはうなずいた。瞳の奥にはまだ不安が残っていたが、表情は柔らかかった。
「あなたが帰ってきてくれるなら、どこでも構わないわ」
「帰るとも」
アルバロは当然のように言った。
「まだこの子たちに、チョコラテの本当の味を教えていない。途中で倒れるわけにはいかん」
マリア・エレナがまた笑い、ディエゴは父の指を離さないまま、小さくあくびをした。イサベルがその頭を撫でる。
船室の外では、静かな波の音が続いていた。カカオを焙る甘く苦い香りが、かすかに風に乗って入り込み、暖かい灯りの中の家族を優しく包んでいた。
◇ ◇ ◇
夜が更けると、船内は一段と静かになった。子どもたちはとっくに眠り、イサベルも侍女たちに囲まれて別の船室へ下がっている。甲板には夜番の水夫の足音と、ロープがきしむ音だけが残った。
アルバロは短く祈りを口にしたあと、自分の寝室へ戻った。戦の汗と血は既に洗い流してある。それでも、指の節には泥の色がうっすら残っていた。
扉を閉めると、部屋の中の灯りが壁に揺れる。小さな机の上には、乾いたパンと塩漬け肉と、金属の杯がひとつ置かれている。杯の中には、試しに煮出させたカカオの飲み物が入っていた。
一口含む。舌の上に、苦みと脂の重さが残った。砂糖のない飲み物は、まだ「ご馳走」と呼ぶには遠い。しかし身体の芯がじわりと熱くなる。
「悪くない」
独り言のようにそう言ったとき、扉が二度、控えめに叩かれた。
「ルシアです」
低い声が聞こえる。
「入れ」
アルバロが言うと、扉が静かに開いた。ルシア・ベニテスが立っていた。昼間とは違う、薄い麻布の上着にスカート。戦場の泥はもうないが、指先にはまだ繊維にすり込まれた血の色が残っている気がした。
「呼ばれましたので」
「呼ぶまでもない。お前の部屋はここから近い」
アルバロは椅子を顎で示した。ルシアは少しだけためらい、椅子ではなく扉のそばに立ったままでいる。
「部隊の者たちは」
「交代で眠らせています。半分は岸の見張りに出しました」
「よくやった」
アルバロは杯をもう一口あおり、空になった杯を机に置いた。
「今夜は静かだ。明日から忙しくなる。港も倉庫も、全部こちらの手で回さねばならん」
「そのために、あの町を落としたのですから」
ルシアの声は、いつも通り落ち着いていた。だが灯りの陰で、細い喉がひとつ上下する。
アルバロは立ち上がり、彼女の前まで歩み寄った。
「疲れているか」
「少しだけ。しかし立てます」
「立たなくていい」
彼はその手首を軽く取った。指が黒い肌の上を滑る。ルシアは抗わなかった。ただ、一瞬だけ目を閉じる。
この男に手首を握られるのは初めてではなかった。インヘニオの暗い部屋でも、砂糖の甘い匂いがこもる倉庫でも、何度もあった。それでも、毎回、胸の奥で何かがぎゅっと縮む。
「今日は、お前のおかげで川を渡れた」
アルバロは当然のことのように言った。
「だから、お前にも分け前をやる」
ルシアはその言葉の意味を知っていた。
「私は、もともとドン・アルバロの持ち物です」
彼女は静かに答える。
「分け前など、もう充分に」
「足りん」
アルバロは唇の端をわずかに吊り上げ、彼女の顎を指で持ち上げた。
「お前はよく働く。私の女でもあり、部隊長でもある。褒美は惜しまん」
顔が近づく。カカオの苦い匂いと、戦の汗の名残が混じった吐息が頬に触れた。ルシアは一度だけ細く息を吐き、それから自分から目を閉じた。
唇が重なる。最初は命令のような口づけだったが、やがて彼女の方からも僅かに首を傾ける。抱き寄せられた身体の下で、心臓が早鐘を打ち始めた。
この男は、自分がどれほど危うい場所に立たされているかを知らない。知らないまま、求める。戦場でも、インヘニオでも、今夜のような静かな部屋でも。
ルシアはそのことを、恨みには思わなかった。
彼女に残された道は多くない。逃げれば追われ、拒めば捨てられる。ならばせめて、自分から腕を伸ばす方を選ぶ。
「ドン・アルバロ」
彼女は囁いた。
「何だ」
「今夜は、私を手放さないでください」
「手放す気はない」
短い言葉とともに、彼は彼女を寝台の方へ引き寄せた。厚い掌が背をなぞる。布が擦れる音が狭い部屋に満ち、灯りの炎がわずかに揺れた。
力の差は明らかだった。それでも、ルシアの手もまた彼の肩へ伸びる。鎧の代わりに晒された生身の筋肉に触れ、指先で確かめるように掴む。
征服者の腕の重さは、昼間、川の水を押し分けたときと同じだった。
やがて言葉は途切れ、部屋には押し殺した吐息と寝台のきしむ音だけが残った。
◇ ◇ ◇
夜が深くなるころ、甲板を渡る風は少し冷たくなった。川向こうのポトンチャンでは、焚き火のいくつかが消え、代わりに犬の遠吠えが聞こえてくる。
旗艦の船腹の中では、家族と兵と奴隷たちがそれぞれの場所で眠り、あるいは目を覚ましたまま朝を待っていた。
カカオを焙る甘く苦い香りはまだ消えず、木と布と人の体温に染み込みながら、静かな夜をゆっくりと満たしていた。




