第2話――「ポトンチャン上陸作戦の軍議」
1519年2月。サントドミンゴを発って数日、船団はどこまでも青い海の上にいた。
昼は陽が甲板を焼き、白い帆が目に痛いほど眩しかった。波は穏やかだが、舷側にぶつかるたびに塩気を含んだしぶきが顔にかかる。ピッチと樫の匂いが鼻にまとわりつき、どこかで煮込みの鍋がぐつぐつと音を立てていた。
夜になると、風は少し冷たくなった。黒い海の上に月の筋が伸び、船底からは規則正しく板がきしむ音が響く。時折、大西洋のうねりが船体を持ち上げ、ゆっくりと沈めた。そのたびに、船室の寝台で眠っているイサベルと子どもたちが身じろぎをする。彼らの周りには、黒人の侍女たちが寝ずの番についていた。
その夜、アルバロは旗艦の艦長室に弟たちを集めた。部屋の中央の卓上には、羊皮紙に描かれたユカタン半島の粗い地図が広げられている。蝋燭の火が地図の縁を揺らし、海岸線の線が波打って見えた。
「全員そろったな」
アルバロが言うと、ペドロ、マルティン、フランシスコ、ルイスがそれぞれ椅子や樽に腰を下ろした。彼らの鎧は外され、上衣の袖が少し汗に濡れている。長い航海で、塩と日差しが肌に張りついていた。
その背後の戸口にも一人、女が立っていた。ルシア・ベニテスである。深く色づいた肌に、白い麻のシャツと黒い革の胴着。首には小さな十字架と、翡翠色の石がひとつ通された紐が光っていた。
「入れ、ルシア。お前の部隊の話も必要だ」
アルバロが顎で合図すると、彼女は静かに歩み寄り、卓の端に立った。弟たちの視線が一瞬だけ彼女に集まり、すぐに地図へ戻る。ルシアは何も言わず、ただアルバロの斜め後ろに控えた。その距離が、彼女と兄の近さを十分に物語っていた。
「さて」
アルバロは指で地図の西側をなぞった。メキシコ湾の湾曲した線の、ちょうど中央あたりで指が止まる。
「ここだ。グリハルバ川の河口、プトゥン人の港ポトンチャン……脚注※①」
「ユカタン半島の付け根か」
マルティンが身を乗り出す。彼は海図にはあまり慣れていない顔つきで、目を細めた。
「そうだ。半島をぐるりと回る交易路の途中にある。塩、カカオ、翡翠、黒曜石。何でも集まる港だそうだ」
アルバロは、地図の脇に書き込まれた小さな記号を示した。塩は白、カカオは茶色、翡翠は薄緑。誰かが丁寧に塗り分けた印が点々と並んでいる。
「コスメルの島ではなく、そこを最初に狙うのか」
ペドロが問う。海で鍛えられた腕を組み、真剣な顔で地図を見ていた。
「島は後だ。まずは川口の港を押さえておく。そこを拠点にすれば、半島沿いの町々から物資を吸い上げられる」
「プトゥン人は戦う民族か、逃げる民族か」
フランシスコが落ち着きなく足を揺らしながら尋ねた。
「両方だろうな」
アルバロは笑った。
「交易民は計算が早い。こちらが勝つと見ればひざまずき、勝てぬと思えば背中から槍を投げてくる」
ルイスが口を挟んだ。
「川が多い土地だ。こちらの騎兵は動きにくい。マヤの舟と弓の方が厄介かもしれない」
「だからこそ、だ」
アルバロは背後のルシアに目をやった。
「湿地と川で足を取られる場所なら、騎兵より歩き慣れた黒人どもの方が役に立つ。ルシア、お前の60人、どこまでやれる」
「水際なら、誰にも負けません」
ルシアは落ち着いた声で答えた。低く、よく通る声だった。
「インヘニオの水車の側で働いてきました。泥にも流れにも慣れています。胸まで水に浸かっても槍は握れます」
弟たちが、わずかに目を見張った。黒人の女が「槍を握る」と言い切るのを聞くのは、彼らにとっても珍しいことだった。
「白い連中が濡れるのを嫌がるのは知っています」
ルシアは続けた。
「だから私の者たちが先に川を渡り、道を作る。舟を引き、杭を打ち、橋をかける。そうすれば、ドン・アルバロの馬も渡れます」
最後の一言だけ、どこか誇らしげだった。そのとき、アルバロがさりげなく彼女の腰に手を添えた。ほんの一瞬の仕草だったが、部屋の中の男たちには十分に見えた。
ペドロは何も言わずに目を逸らし、マルティンは眉をひそめかけて、すぐに表情を戻した。フランシスコは口元に薄い笑みを浮かべかけたが、ルイスに肘で小突かれて黙った。
「よろしい」
アルバロは手を離し、再び地図に視線を落とした。
「プトゥン人はカカオを握っている。アステカ王国の祭礼でも、あの豆がなければ話にならんそうだ。カカオを押さえれば、王の喉元を握ることになる」
「カカオの産地はここか」
ルイスが、別の地図の墨色の斑点を指差した。タバスコ、ショコノチコ、ニカラグアといった地名が並んでいる。
「そうだ。だが最初から全部を欲張る必要はない。まずポトンチャンだ。港を落とし、倉庫を押さえ、商人どもの舌を引っこ抜く。それから先を考える」
蝋燭の炎が揺れ、アルバロの横顔に影を作った。海の上で焼けた肌に、汗の筋がうっすらと光っている。
「敵の数はわかりません」
ルシアが言った。
「ですが、港を守る戦士は多くても数百。彼らは鉄を知りません。こちらの剣が生きます」
「お前の部隊はどう動かす」
「上陸の最初に川岸を押さえさせてください。白人の兵が浜に並ぶころには、背後の運河も確保します」
「よし」
アルバロは満足げにうなずいた。
「ペドロは騎兵をまとめろ。マルティンは弓と銃を。フランシスコとルイスは歩兵だ。ルシアの部隊と一緒に、最初の波に乗ってもらう」
「黒人と肩を並べて戦うのか」
フランシスコが、わざとらしく肩をすくめた。
「文句があるのか」
アルバロの声が少しだけ低くなった。部屋の空気が冷えたように感じられた。
「ないさ、兄上。ただ、あいつらが俺の首を踏み台にしないように気をつけるだけだ」
「お前の首など踏んでも価値はない」
ルイスがぼそりと言って、フランシスコに小突かれる。卓の上で、蝋燭の火が揺れ、地図の海岸線が震えた。
船が大きく軋み、どこかで波が船腹を叩く音がした。外では、ロープが風に鳴り、夜番の水夫がスペイン語で短い掛け声を交わしている。
「時間だ」
アルバロは卓の上の地図を巻き取り、革紐で括った。
「ポトンチャンに着くまで、あと二日はかかる。明日は船首からあの土地を眺めることになるだろう。今のうちによく眠れ」
弟たちは順番に立ち上がった。ペドロは黙って敬礼し、マルティンは地図を一度だけ名残惜しそうに見た。フランシスコはルシアに軽く会釈し、ルイスは何も言わずに戸口へ向かった。
最後に部屋に残ったのは、アルバロとルシアだけだった。外から吹き込む風が、彼女の髪をわずかに揺らした。汗と塩と、微かな香油の匂いが混じり合っている。
「怖くはないか」
アルバロが尋ねた。
「怖いのは、負けることだけです」
ルシアはまっすぐ彼を見上げて答えた。
「勝てば、私たちはもっといい場所で働けます。負ければ、川の底に沈む。それだけです」
「なら勝とう」
アルバロは笑い、彼女の顎を指で軽く持ち上げた。
「プトゥン人の港も、カカオの畑も、全部こちらのものにする。お前の部隊にも、たっぷり働いてもらうぞ」
「命令のままに」
ルシアは目を閉じてうなずいた。
外では、カリブ海の風が甲板をなでていた。塩の匂いと波の音が、絶え間なく船体を包み込んでいる。その向こう、闇の果てにはまだ見ぬ川口と港町が待っていた。
―――――――――――――――――
脚注※①
―――――――――――――――――
ポトンチャン(Potonchán)は、タバスコ川(スペイン側呼称ではグリハルバ川)の左岸にあったチョンタル・マヤの町で、海の河口そのものではなく、河口に近い川沿いに位置した港町だ。
ウィキペディア
チャンポトン(Champotón)はカンペチェ州のユカタン半島西岸にある別の港町で、古い呼び名としてチャカン・プトゥン(Chakán Putum)などでも知られる。1517年、スペイン遠征隊がここで大きな損害を受け、『マラ・ペレア(悪い戦い)』の名で語られる戦いが起きた場所だ。
―――――――――――――――――




