転校 野球人生 イジメ 不登校
第三話
パニック不安障害から年商1億の道のり
少年野球チームに入った私は、学校に行く前の朝練、学校後の練習、土日は練習試合も含めほぼ土日は試合でした。
私のクラブチームでは決まり事が多く試合の日は、おにぎり、水筒のみでした。
おかずは、監督の奥さんがタッパに皆んなで食べるおかずを作って来てくれてました。
大人になって振り返ると監督は建設業をおこなっており昔ながらの職人さんたちにも弁当を作っていたのかなぁと思います。
私の母にしては、気持ち的に楽だったのかなぁと思います。
母は、一度も試合を見に来た時はありません。
私は、母が来なくても野球が好きでしたので深く考えた時もありません。
野球遊びからレギュラーになるのは私にとって簡単でした。
1人野球遊びから始まりレギュラーにしてくれたのかと思います。
夏の大会前に背番号をもらえるまでドキドキしてたのを思いだします。
私は、ピッチャーとファーストを交互に活躍しました。
宮城球場での決勝戦まで進むか地区予選がドキドキしながら楽しかった野球人生でした。
夏の大会が終わると東京に住んでいる父のワンルームアパートに泊まりに行くのが楽しみでした。
私も含めて下3人で東京に夏休み期間中はワンルームアパートで楽しい夏休みです。
父は新聞配達員でしたので朝刊を配達前に新聞屋に行き、その日の折込チラシを入れて配達しに行きます。
朝の6時ぐらいに配達が終わった父が帰って来ます。
社員寮の風呂無しアパートです。
夜になると兄弟3人と父とで銭湯に行く楽しみ、父の優しさ、でもお金はありません。
夏休みが終わると仙台で夜は兄弟3人で留守番です。
寂しい夜になるのが辛かったです。
母も必死に働いてたと今振り返ると感謝しかありません。
しかし父の優しさが頭から忘れられなく日に日に東京に引っ越して父と住みたいと思う気持ちが強くなります。
少年野球チーム最後の夏の大会です。
予選負けです。
兄弟3人で父の居る東京に行きました。
夏休みも終わります。仙台に戻りましたが、母になにで怒られたのか覚えておりませんが、父に電話し東京に引っ越したいと泣きながら電話したのがきっかけで6年生の2学期途中に野球をやめて東京に転校致しました。
転校しましたが仙台の頃のようにはいきませんでした。
言葉のなまり方言でクラス全員からの言葉のイジメです。