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黒い蜃気楼

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 いやあ、今日は久しぶりに暑い日だねえ、つぶらやくん。

 昨日まで上着の裾をひっつかんで、とぼとぼ歩くのがやっとだったのに、今日は長袖さえもうっとおしさを覚えるほどの晴天。空の気分屋ぶりも、いよいよ極まってきたといえるかもしれない。

 暑い日におこるもの、というと君はどのような現象を思い浮かべる? 僕は蜃気楼かなあ、と思う。

 冷たい空気と暖かい空気の境を光が通るとき、その光が屈折することで見える虚像こそが蜃気楼の正体だと、科学的にはいわれている。

 しかし、民話や伝説にあらわれる現象はそれらの範疇におさまらないもの、しばしばだ。

 もちろん、当時の得体のしれないものに神秘要素を託した、という側面もあるだろう。けれども中には蜃気楼に見せかけた、奇怪な現象も横たわっていたのだと思うよ。

 僕が最近、祖父から聞いた話なのだけど耳に入れてみないかい?


 黒い蜃気楼を見たら、気をつけろ。

 祖父が小さいころ、自分の祖父から聞いた文句だったという。

 祖父の地元は時季によって、海の上に蜃気楼がたびたび見られることがあったみたいだ。

 それは本来そこにはないはずの船や工場たちばかりだったというが、祖父の聞いたところでは、まれに黒一色が海の向こうにたたずむことがあるらしいんだ。


 祖父は過去に一度だけ、その黒い蜃気楼を見かけ、それにまつわる体験をしたことがある。

 冬のある朝。海近くの自宅に住んでいた祖父は、朝は外で体操するようにしていたのだが、いざ外に出て海を見やると水平線のかなたがかげっていたのだとか。

 最初は煙でも湧いているのかと思った。けれども、空がすっかり明るくなるまでそこにいても、水平線は一向に晴れる気配を見せない。視界の端から端、右から左へ見える限りの海面の上およそ数センチが途切れなく汚されている。

 雲がうずくまっている……とも、感じがたかった。

 あの黒は先ほどからずっと、かげろうがそうするように、かすかな揺らめきを続けていたのだから。

 かげろうイコール蜃気楼という意味合いで、用いられることはある。厳密には異なる状態の説明なのだが、この状態は祖父に「黒い蜃気楼」を意識させるに十分な現象だったんだ。


 これが果たして、本当に黒い蜃気楼なのか。

 他人に同じほうを見てもらうことで確定させられる。高祖父に見てもらった祖父は、水平線のかなたに青空が広がっていると告げたんだ。祖父自身の目には変わらず、黒くゆらめくものが一帯にとどまり続けていたのだとか。

 それを確かめた高祖父は、すぐに風呂を沸かし始める。屋内にあるものではなく、樽風呂だった。家の押し入れにいつもしまわれていたものだったらしい。

 湯張りの準備をする高祖父の前で、祖父はすでにふんどし一丁となっている。ただ風呂待ちをしているのみならず、素肌を大いに外の風へ当てることもまた、「黒い蜃気楼」を目にした者のするべきことだったからだ。

 やがて樽風呂へ熱めの湯が張ると、祖父は促されるまま、湯船の中へ沈んでいく。


 すぐにでも飛び上がりたいほどの熱い湯のくすぐりを、祖父はぐっとまなこを閉じてこらえる。

 やがて閉じた目の端からじんわりとあふれるもの。そこからこぼれて、水面で何かが跳ねる音。まなこを開いた祖父が見たのは、目から黒々とした涙を流す自分の姿だったのだとか。

 黒い蜃気楼の正体は、知らず知らずのうちにまなこのうちへ入り込んだ、黒きもののもたらすもの。

 これらは科学的な手法においては、いまだ正体を掴めずにいるもののひとつらしい。身体を外気へさらして十分に冷やしたのち、間髪入れずに熱めの風呂へ浸かることによってのみ、身体の外へ出てくるものらしかった。


 黒い蜃気楼を放置し続けたものは、やがて体中が真っ黒になっていき、死に至るのだという。よく知られるペストとは異なる、別種の「黒死病」の名を冠するものだったとか。

 対策を講じなかった際の致命率はペストに劣らないという驚異の数値。しかし、祖父の地元を含めて全国でも数えられるほどの地域でしか見られない風土病の様相を呈していることもあり、その恐ろしさはさほど知られていないのだとか。

 祖父は風呂に浸かりながら、黒い涙をどんどんと流す。もともと入っていた水も濁り始めるが、それより前に湯を通してみる自分の両足は、つま先からひざ下にかけて、ほとんど黒く染まっていたのだという。


 祖父のまなこから黒い涙の滝が止まり、水平線を見やっても、そこにはもう黒いものは横たわってはいない。

 ただし、右足の足裏に関してはまだ土踏まずのあたりに、ほくろを思わせる黒点が残っていた。団子ほどもある大きさのそれは、以前の祖父の足には存在しないものだったんだ。

 高祖父はよく消毒した小刀でもって、その黒点をほじくり、祖父の足から完全に引きはがしにかかった。

 黒点はその身が外れても、いわば根の部分はまるで魚の小骨のように細い根が肌の中へ深く埋まっており、完全に取り除いたときには、ゆうに1メートルを超える長さとなっていたのだとか。

 祖父自身もまた、黒い蜃気楼の対処を学び、僕たちにそのようなきざしがあればすぐに取り掛かれるようにしているようだけど、幸か不幸かその機会はいまだないんだよ。

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