9 血の魔法
俺は混乱した。
猿の頭を愛おしそうに抱きしめる老女を前にして「旦那さんは猿なんですか?」とか「あなた自身がもしかしたら猿なんですか?」というあり得ない失礼な質問が頭の中をぐるぐると回る。
俺たちが戦い、殺し、頭や耳を持ち込んだ猿たちは一般的な猿と比べて馬鹿でかく人間に近い思考能力を感じさせたが、それでも間違いなく猿で、人間じゃない。そして首を斬ってなお人間が生まれ出てこないところを見ると“動物もどき”でもない。
つまり、俺の知らない怪物であって、斬って罪悪感を感じる必要のなかったはずの存在だったのだ。それが揺らぐような光景が今目の前にあることに、俺は動揺した。相手が悪人だ、敵だと思えばこそ、命を奪うことすらできたのに・・・・・・。見ないように努めてきた犠牲者たちの背景、彼らにも家族がいて愛されていたという事実が急に浮き彫りにされ突きつけられたのだ。
もちろん、老女がただ気が狂ってしまっただけの可能性も大いにある。あるいは、飼っているペットを「息子」と呼ぶタイプの人なのか・・・・・・しかしそれでは娘の強ばった表情に説明がつかない。
「息子だ」と老女が主張した後も娘の方はただ困惑して遠巻きに母親を見守るばかりだ。行方知れずの息子を想う焦燥と“動物もどき”の変化を目の前にした衝撃で、もう息子捜しの状況にケリをつけたいという思いが老女の目を曇らし、猿の頭を息子と思い込ませているのかもしれない。
だが――実際に会場の誰もが何も言えず、動けずにいるのは、老女が狂っているわけではなく、真実と対面していると思わせる何かがあったからだ。誰もが、それはもしかしたらただの夢物語や理想なのかもしれないが、母親とはどんなに様変わりしようとも子供を見いだすものなのだと諭されるような感覚を味わっていた。
俺はあらがいようもなく自分の母親を想わずにはいられなかった。母さんなら、もしかしたら・・・・・・。
「とても人間には見えませんが、どうしてそう思うんですか?」
純粋だが時と場所を選ばない唐突な質問は、会場を支配していた静謐をものの見事に破壊した。そしてその質問は、やはり俺の隣のラルクから発せられたものだった。場違いだが必要な言葉だったのかもしれない。会場は停滞から抜け出した。
「母さん、どうかしちゃったの? いくらなんでもその猿と兄さんを見間違えるなんて」
「あのう、これ、この頭・・・・・・持ち帰ることはできませんか? お金なら多少支払うこともできますから」
「母さん!」
猿の頭を抱えたまま離そうとしないどころか買い取ろうとする母親に、娘が引きつった声をあげる。本当は無理矢理にでも手を引いて行きたいところなのだろうが、母の腕にしっかりと抱えられた猿の恨みがましい目に出会って近づけない娘に俺は同情した。
「ねえ、母さんしっかりしてよ!」
「ミナ、わからない? これニコフスよ! こんな形になっちゃってるけど、私にははっきりとわかるわ‼」
「さっき見たでしょ⁉ もし“動物もどき”になっているなら、斬られた時点で元の体が出てくるのよ! でももうこれ頭だけになってるじゃない! なんで兄さんなのよ‼ こんなのが兄さんのわけないでしょう‼」
必死だが盤石の自信を持って話す母親に対して、娘のほうがむしろ冷静さを欠いて気が狂いかけているように見えた。大人しそうな栗色の三つ編みはほつれ、素朴な柄の綿スカートにそれでも自分を律して爪を立てている。
「これは兄さんじゃないし、“動物もどき”でもない‼ きっと兄さんは森の中で動物に襲われて死んだのよ! こんなところに来たのが間違いだったわ! もううちへ帰りましょう‼」
「たしかに“動物もどき”じゃないみたいだけど、ニコフスよ! たぶん・・・・・・一部分だけかもしれないけど、ニコフスが混じっているわ‼」
「母さん! いい加減・・・・・」
「すみませんが」
時と場所を選ばない言葉を十八番にしている男は、するりと母子の言い争いに入り込んだ。
「血がつながっているかどうかを調べるだけならできるんですけど、お調べしましょうか?」
「は⁉」
会場中の人間が同じ反応を示した。
「おま・・・・・・ラルク、何言ってんだ?」
「私、大した魔法はできないんですが、血にまつわる簡単なものだったら得意でして」
「ええ⁉ おまえ、魔法できるの⁉ 魔道士なわけ?」
「えへへ、魔法剣士ですかね、かっこよく言えば」
照れて頭を掻くラルクは、ニコリと親子喧嘩中の二人の女性に笑いかける。精神の綱渡りをしていたミナと呼ばれた娘は、その場違いな美しい助け船に虚をつかれて正常さを取り戻したのか顔を赤らめた。
ラルクに促されて老女が猿の頭をテーブルに置き直す。司会者エプロンは何かを言いかけたが、ラルクは彼を丁寧に笑顔で無視して空中に魔方陣を描きはじめた。こいつ、本当に魔法を使えるんだ・・・・・・。
ラルクの描いた魔方陣は先ほどの魔道士が描いた薄緑のものと違い、オレンジ色に発光しながら空中に水平に置かれた盆のようにとどまった。ラルクは老女に小声で何か話しかけ、頷く彼女を見るや否や、優雅に、まるで舞踏会の踊りに誘うように老女の手を取った。猿の頭の上で浮いた魔方陣の上に老女の手を誘導する。と同時に反対側の手で腰の剣帯から小刀を引き抜き、彼女の指を小さく浅く傷つけた。老女の眉根が少しだけ曇る。
彼女の指からは一滴だけ血が流れ、魔方陣に落ちた――途端、光の色がぐっと暗く変化して魔方陣はまるで血が垂らされた分の重力を受けたように落ちて猿の頭にベタリと貼り付いた。
ギュオオオオオオオ
発光する魔方陣は、雄叫びのような音を出しながら猿の頭に染み渡っていく。
そして、静寂への転換の後に魔方陣は消え去った。
「・・・・・・ラルク? え?」
「すごく奇妙ですね」
あっけらかんとした声でラルクは猿の頭を様々な角度から見回した。
「いや、奇妙なのはおまえだよ。その人と猿は血のつながりがあったのかなかったのか? それとも、何だかこねくり回したがそんなのはわからなかったのか?」
会場中の人間の気持ちを代弁するかのようにトールが言った。粗い言い方だが、ラルクは気にした風もなくやはり愛想良く彼を見返した。
「無いです」
「無いのかよ!」
なんとも言えない脱力が見守る者たちの中で起こる。老女が「そんなはず・・・・・・」と言いかけると、ラルクは人差し指を誘導するように猿の頭に向けた。
「ええ、血のつながりがある時は魔方陣が残るんですよ。それが消滅したので血のつながりは無いってことなんですが・・・・・・ただ、この目の奥を見てください」
言われて、老女が猿の目を覗き込む。俺とトール、そして司会者エプロンまでがその背に周りこんで、同じようにした。
「あ!」
猿の目の奥に、小さなオレンジ色の光が点っている。
「その方の言うとおり“一部分だけ”、肉親の体が使われているようですね」
ラルクが明言した直後、
「そこまでにしましょうか」
司会者エプロンが乱暴に猿の頭を引っつかんだ。