二話
今日は、守羅が帰ってくる日だ。莉凛香はいそいそと家事を片付けた。特別に、布団を綺麗に干して、ご飯の品数を増やそう。泥で汚れた手の甲で汗を拭う。
莉凛香が守羅の家に転がり込んでから、5年が過ぎた。
守羅は親切な人だった。垂れた耳とふさふさした尻尾は、感情豊かによく動く。頭頂部は淡い桃色で、毛先は白っぽい。とても物知りで、強い人。でも、莉凛香よりずっと年上なのに、時々すごく子供っぽい。
そして、よく居なくなる。用心棒の仕事をしていると、離れた村に行ったりして泊まりがけの仕事が多くなる。だからだろうか。小さな畑は荒れ放題だった。数年前、莉凛香は畑を再生させようとした。
「守羅、畑を弄ってもいい?」
「好きにしたらいい。むしろ綺麗にしてくれたら助かるけど。どうして畑?」
「兵農一体、だっけ?農業をすると強くなるらしいわ」
「へえ。俺は半妖だから、農業には向かないけど」
「それ半妖関係あるの?」
「ある。普通の人間ほど飢えや渇きに弱いわけじゃないし、時間の感覚も随分違うから。俺は半分は人間だから何とかなるが……妖怪と人間が共存できない理由がよくわかる」
確かに、5年たっても、守羅の容姿はちっとも変わっていない。10代の青年の姿を保ち続けている。青いままの柿みたいだ。莉凛香がとても沢山成長したのに。
でも、守羅を見ていると、時が止まったようで安心する。成長する事に、1人にしてしまった姉の無事が不安になるから。強い人だから、何とか切り抜けて生きていると信じているけれど。
莉凛香は、今では守羅の家事手伝いと留守番の傍ら、村人達の仕事を手伝っては小金を稼いでいた。長く暮らすうちに、1人ではどうあっても姉を探し出すことなど出来ないとわかってきた。何せ、自分がどこから来たのかも分からないのだから。この国ーー月陰国_ーーのことですら、村の中のことしか知らない。だから、1人で旅に出るという選択肢は無い。仲間が必要だ。それも、旅に耐えうるだけの毅さを持つ仲間が。そして、守羅に限らず、用心棒は金がかかる。むしろ守羅は、良心価格にしとくよ、と笑った。収入は変わらないし、元々贅沢をする訳でもないから、家のことをしてもらってむしろ得してるしな、と。
本当に親切な人だ。一緒にいたら嬉しいし、離れていたら寂しい。たった数日ぶりでも、お祝いしてしまうくらいに。
「ただいま、莉凛香」
「守羅!おかえりなさい」
守羅は笑って、振り返った。
「ほら、俺を慕ってるだろ?」
「ああ、驚きだな」
守羅の後ろには、堂々たる体躯の壮年の男がいた。
「初めましてだな、嬢ちゃん。俺は風太だ」
数日ぶりに帰ってきた守羅は、友人を連れていた。
なんと風太は、大陸の日華国まで護衛に行っていたという。壮年の屈強な男で、莉凛香とは面識がなかった。
風太は、守羅か莉凛香と暮らしていると知って、ひどく面白がって守羅を弄った。
「あの無愛想なお前がか! 死んだばあさんの遺言を守ろうにも親切にする相手がいないってんで、とうとう娘っ子を養い出すとは! 」
「風太、うるさい。別に、人間相手に親切にしろとは言われてない。現に、こいつだってそう」
守羅は、左のこめかみ辺りからひと房だけ生えた長い毛束の先にぶら下がっている、小さな蜘蛛を指さした。
「アッハッハッハッハッ、そういうところは変わらねぇな!ほら、嬢ちゃん、あれに耳を近づけてみな。」
言われるがままに耳を近付けると、糸を吐き出す、シューという音が微かに聞こえる。
「生きてる!」
「そりゃそうだろ。本当に気づいてなかったのか」
「うん」
「はは、そりゃあそうか。髪の毛に蜘蛛なんかくっつけて生活してるようなやつはコイツだけだもんな」
「好きでしてるんだ。放っといてくれ」
「だからこそだ」
「むむむ……」
守羅はむう、とむくれた。そうしていると、年相応の男の子に見える。耳が不満そうに後ろを向いた。毛量の多い尻尾が床を叩く。
「わかったよ、呑め。言っとくけど、酒は俺の方がずっと強いんだからな」
「ハッ、言ってろよ」
風太は威勢よく答えると、守羅の口に酒瓶を突っ込んだ。
「もがっ!もががっ!」
「なんて言ってんのかわかんねえなぁ」
守羅は風太を殴り飛ばした。耳が逆立って(といっても元から垂れているので、そこまでの迫力はない)、額が赤く輝く。
「上等だ!むしろちょうどいいハンデだ、風太!」
かくして始まった酒豪大会は、風太の勝利に終わった。作戦勝ちというやつだ。守羅は顔を真っ赤にして、ふらふらと立ち上がった。
「どこ行くんだ?もう降参か?」
「違う、便所。言っとくけど、俺がいない間に莉凛香に妙なこと教えるなよ」
キツく言い含めると、守羅はふらふらと出ていった。守羅があんなに沢山お酒を呑むのを見るのは初めてだ。
「……いつまでも俺が呑み方も知らねえガキだと思ってんじゃねえぞ、守羅。酒の上手い躱し方だって覚えらぁ」
2人きりになった途端、風太は盃を置いた。その顔には、酔いなど少しも残っていない。
「嬢ちゃん。なんでアイツなんだ?」
「どういうこと?」
「嬢ちゃんの髪や目を見れば、そりゃワケありなんだろうなと思うさ。だかよ、何もアイツの所でなくても、行く所はあったんじゃねえの?」
「それは……」
莉凛香は話した。自分の故郷は常闇の荒野で、そこで烏頭の妖怪に襲われたこと。わけも分からぬうちに姉に助けられて、気づけば裏山で倒れていたこと。そんな自分を、守羅が拾ってくれたこと。故郷を探し出して、姉を助けに行きたいこと。その為には誰かの助けが必要で、お金を貯める為に守羅の家で家事手伝いをしながら、村の仕事で小金を貯めていること。
風太はうん、とかそうか、とか相槌をうちながら聞いてくれた。
「そうか、……で、嬢ちゃんにとっちゃここは宿で、欲しい護衛に唾付けとく為の場所か?」
「違うわ!確かに、守羅を欲しいとは思ってるけど、でもこの家だって本当の家と変わらないくらい好きだし、守羅だって家族みたいに思ってる!」
「あっはっは! 取り繕わなくてもいいぞ。嬢ちゃん、護衛が欲しいんだって?俺にしておけばいい。アイツはダメだ、そりゃ腕はいい、あの能力だしなぁ。だがな、なまじや~さし~いから、行く先々で色んなやつの事情に首を突っ込んじまう。死んだばーさんの遺言なんだとよ。人に親切にしなさい、ってな」
「私は守羅がいいの」
風太の眼差しが、莉凛香を射抜いた。恐ろしく真剣な瞳だった。
「……ダメだ、アイツは」
「なんで?」
「優しすぎる。お前の依頼に付き合わせたら、アイツはそれに振り回されて、最終的にどっかで騙されて死ぬ。俺はアイツの幼馴染みだ。今じゃそう見えねえかもしれんがな。アイツがひでえ死に方するのは嫌なんだ。せめて、俺が死ぬまでは、生きていて欲しい。半妖ってのは、人間なんかよりずっと長生きな生き物だからよ」
「わかったわ」
莉凛香はにっこりと笑った。
「だったら、私が守羅を生きて帰してあげられるくらい強ければいいのよね! 」
「おいおい……」
風太は呆れたように笑った。
「こりゃ守羅のやつを言い負かしただけはある……」
「そうよ。私は守羅を言い負かして置いてもらってるの」
「やるな。守羅にはちょうどいいくらいの相手かもしれねえな。……それにしても、守羅のやつ遅くねえか?」
風太が気づいた時、家の外で轟音がした。まるで何かが崩れ落ちるような音だ。
「嬢ちゃんは家から出るな!」
負けないくらい大きな声で叫んで、風太は飛び出して行った。少し逡巡して、莉凛香は封魔刀を掴んだ。戸をほとんどぶつかるような勢いで開けて、外へまろびでる。冷たい夜風が頬を撫でた。
『キュルキュルキュルキュルルルル!! 』
妖が奇声を上げた。台所を含めても僅か二間しかない小さな小屋を押しつぶさんばかりの巨体だ。胴と後肢は馬、頭は鳥で前脚は鋭い爪の並んだ翼、尾は虎の妖だ。間近で見るのは初めてだ。その異様さ。莉凛香の足は凍りついたようになった。
「嬢ちゃん、出てくるなっつったろ!……ッ、守羅ァ!大丈夫かー!? 」
風太の声がして、莉凛香ははっとした。慌てて守羅を探した。
守羅は2本の足で立っていた。毛を逆立たせ、妖を睨みつけるように踏ん張っている。その額は夜闇の中で眩しいほどに赤く輝いている。
『キュルキュルキュル……』
妖が高く鳴いて、守羅の創り出した結界にぶつかった。村の中に侵入しようとしているのだ。ガッと打ち付けるような音がして、硬い結界が輝く。燃え盛るような赤だ。
「待ってろ!今助太刀する! 」
「叫ぶなバカ……。頭に響く! 」
「ならやっぱり勝負は俺の勝ちだな、守羅! 3秒で結界を解け!」
「わかった……。3、2、1!」
妖の侵入を阻んでいた壁が消失した。風太は手に持った大斧を振り下ろした。
莉凛香の腕ほども幅がある大斧が、後肢を切断する。バランスを崩した巨体が、爪を振り下ろす。
「守羅! 入れてくれ! 」
「了解」
間一髪、守羅の結界が風太を守る。爪が火花を散らした。
「よし、もう1発! 」
『キュルルルルル』
「うおっ!」
妖が奇声を上げ、翼を暴れさせた。突風が起こって、莉凛香は転びそうになった。太く鋭い爪が風太を掠める。
「風太ッ! 」
妖はその勢いのまま空へと逃げた。後肢の切断面から、血の雨が降る。
「この野郎! 」
風太は大斧を投げたが、それは妖の頭を掠め、村の外の暗闇に消えた。
「何やってるんだ、バカ! 村に入ってくるぞ! 莉凛香、用心棒のやつらを呼んできて!」
「いや! 2人を置いていけない!」
「バカ言うな、嬢ちゃん! 早く応援を呼んできてくれ! 」
「……私が何とかする。あの鳥を、何とかこっちに引き付けられないかしら」
「はぁ?どうやって……おい、莉凛香、まさか」
「何か策があるのか? なら、この風太様に任せておけ!さっきは外したが、今度はそうはいかねえぞ! 」
風太は着物の袂から木を削って作った小刀を取り出して投擲した。小刀の嵐が妖を襲う。
妖は鬱陶しそうに身体を振るった。夜空にギラリと光る金目が、風太を捉えた。
「よし、こっちに来たぞ、嬢ちゃん! 」
「わかった」
封魔刀を鞘を苦労して落とし、構えた。身体は農作業で鍛えられていたらしく、重いとは感じなかった。
「よし、行くわよ! 」
構えて、急降下してくる妖に向かって振り上げる。妖が身を捩った。
外した。
妖が風太に襲いかかろうとする、
「おい、嬢ちゃんっ! 」
「風太! 」
守羅が叫んで、風太と妖の間に薄く強固な壁が現れた。妖は勢いを殺しきれずにぶつかり、軽くふらついた。
「莉凛香! 今だ、早く!! 」
「やああああああっ!! 」
刃はまるで豆腐でも切るかのように妖の首を落とした。首が地面に落ちるより前に、妖は塵となって夜風に散った。風太は険しい顔で見ていたが、やがてほっと息を吐いた。
「片付いたみてえだな……。ったく、死ぬかと思ったぜ」
「ごめんなさい、風太」
「なあに、嬢ちゃんが気にすることはねぇよ。むしろ、よくあの妖の首を斬れたもんだ」
「それは……」
「ふざけるな!! 」
バチン!と大きな音がして、左頬に衝撃が走った。遅れて、じんじんと焼けるような痛みがした。
「あとちょっとで風太が死ぬところだったんだぞ!! 」
守羅がこんなに大声で叫ぶのは初めてだ。それだけ、守羅にとって風太は大切な友達なんだと肌で感じる。
「おい、落ち着けよ。嬢ちゃんはまだ子どもだ。それに、用心棒になる訓練を受けてるって訳でもねえのにあれだけ戦えりゃあ上等だ。だから、もう寝ろ寝ろ。寝て起きたら落ち着いてらぁ」
肩に置かれた手を、守羅は乱暴に振り払った。唇をひき結んだまま家の中に入っていってしまった。
「守羅……」
「ほら、嬢ちゃんも入れよ。寝ないとでかくなれねぇぞ。俺は久しぶりに女房んとこに帰るから、またな」
風太は手をひらひらと振って帰って行った。その後ろ姿を見て、命を失う恐怖を改めて感じた。