11話
霊山の鬼神と言えば、誰もが知る大妖怪だ。鬼と言えば、死人がこの世に残ったものだ。生前と変わらぬこともあれば、心残りを消そうと人に害をもたらすこともある。そして多くが、自身の仲間を求めて死臭を好む。妖怪の中でも特に数が多く、異質な種族だ。
その中の特異点こそが鬼神である。
鬼の男女の間に生まれた鬼神は、生まれながらに血を口にすることを好み、その暴虐で瞬く間に鬼の聖地である霊山に君臨した。今では、月陰国中に名を轟かせる大妖怪だ。
関わればただでは済まない存在である。しかし同時に、器が大きく、筋を通す存在でもあるという。
そんな大妖怪の住む霊山には、霊的な力を濃く漂わせ、冬でも僅かに濡れているかのような冷たい空気がたちこめている。
連なる山々の中で最も険しく高いその山へ、二人は杖をついて登る。連峰を越えなければ、霊山へ辿り着くことは叶わない。
ある時、椿の美しい山に行き当たった。厳しい寒さの中でも大輪の花を咲かせている。雪の中に映える赤に、莉凛香は息を吐いた。
人を拒むような霊的な力が働く山で、気が疲れていたのもあるだろう。気まぐれに、その枝を一本手折ろうとした。
「おい!そこのお前、何をしようとしている!」
鋭い声に、二人は身を強ばらせ、声のした方に向き直る。守羅の赤い結界が、空間を隔てた。
「霊山の妖怪か!俺たちは鬼神を訪ねてきた!」
姿を見せない声の主に、守羅は声を張上げた。既にここは妖怪の世界。自分たちを襲ってくる気配があれば、すぐに逃げ出す必要がある。
「霊山?ここは椿山だ」
ぼう、と遠くで鬼火が灯る。ひとつ、ふたつ、みっつ。鬼火は現世に留まりすぎて原型を保てなくなった鬼の成れの果てだ。まるで墓地だと、守羅は思う。
鬼火を引連れて現れたのは、守羅とさして年の変わらない少年だった。中性的な顔立ちに、濃い茶色の髪を肩まで伸ばしている。着物は椿のように赤い。彼は守羅を見て顔を顰めた。
「この山は男子禁制だ。母様の機嫌を損ねる前に、叩き切ってやろうか」
「それは俺たちが悪かった。霊山と間違えた。見逃して」
「そう、彼は私の護衛なの。お願い、ここを通して。鬼神に用事があるの」
「断る。この山は母様が鬼神より下賜された山。ここでは母様が法だ」
少年は上品な所作で刀を抜くと、守羅に斬り掛かる。守羅の結界がそれを防ぐ。死角から回り込んだ莉凛香が刀を振り上げる。
「この山で、俺に勝てると思うなよ……!」
少年は頭を振った。濃い茶髪の間からのぞく深緑の瞳が、陽の光を反射して光る。
ボコッ!ボコボコッ!
土煙が舞う。2人が目を細めたわずかな隙に、もう身動きは取れなくなっていた。
「なによ、これ……!木の根!?」
「地面から攻撃を……!」
守羅は舌打ちする。完全に油断していた。木の根が2人を後ろ手に縛り、完全に拘束していた。
二人は少年に引き立てられ、小さな井戸の前に連れて行かれた。少年は井戸の蓋を開け、淡々と言う。
「これは空路井。ここに落とされたヤツらは、みんな消えた。井戸のそこが繋がってるのは地獄なのか、それとも妖の巣なのか……いずれにせよ、ろくな所には辿り着かねえさ」
井戸はまるで黒い丸がぽっかりと浮かんでいるようにしか見えず、一片の光も逃さずにどこかへやってしまっているのだと分かった。本当に地獄に繋がってても変じゃない、そう思うと守羅は全身の毛を逆立てた。
「怯えてるのか、猫ちゃんよ。どうせすぐに飽きるほど怯えるっていうのにさ」
少年は嘲るような口調だったが、顔つきは真剣なままだ。
「ほら、男だろ。お前から落ちろ」
ドン、と背中に衝撃があり、守羅は真っ暗な井戸に転がり落ちた。
「うわあああああ!」
守羅の悲鳴が反響し、小さくなる前にぷつりと途切れたのに、莉凛香はぞっとした。懐にしまった御守りを撫で、気を落ち着ける。
年上の少年(に見える妖怪)はくるりと振り返った。
「さあ、お嬢さん。次は貴女の番だ」
伸びてきた手が、肩を叩く。身を強ばらせた瞬間……身体を縛っていた木の根が解けた。
呆気にとられた莉凛香を見て、少年は笑った。
「別に、ガキが枝を折りそうになったくらいで怒りゃしないよ。貴女の用事はなんだ?こんな幼い身であの方に御用だなんて、よっぽどの事情だろ。聞いてやらなくもないぜ」
「守羅にあんなことしたくせに……!」
「言ったろ、この山は男子禁制だって。俺はそれを守っただけ。逆に、か弱い女は無闇に傷つけちゃならないことになってるんだよ」
「あんたも男の人……じゃない、妖怪じゃない!」
「俺はいいんだよ」少年の姿が歪んだ。
「どっちにだってなれるもの。ふふふ、驚いたかしら」
言葉が出なかった。それくらい驚いたのだ。
「ほら、母様の所に案内してやるよ」
少年に戻った妖怪は、莉凛香の手を優しく引いた。
絶対に隙を見て逃げ出してやる。
少年の冷たい手の力は強く、年端のいかない少女が切りかかれるような隙はなかった。結果、巨大な椿の木のある屋敷に連れていかれてしまった。生まれてこの方こんなに大きな家を見た事がなかった莉凛香は、しばし呆然とした。
庭で働いていた女達が、少年を恭しく出迎えた。中には、莉凛香に同情を込めた声を掛けてくる者さえいた。奇妙だったのは、女達が人間にしか見えないところだった。
呆気にとられているうちにあれよあれよと屋敷の奥に連れ込まれ、1段高い所に座した女性と向かい合った。正体は分からないが、妖怪だった。そして、年と背格好を除いた全てが莉凛香を連れてきた少年とそっくりだった。中性的で、凛々しく、髪を後ろで結んでいて、椿の花細工をあしらった髪飾りをつけている。女の、退魔師である莉凛香ですら憧れてしまいそうだった。
「おかえり、コハル。彼女が、新しく山に入ってきた人間だな」
「はい、母様」
「さあ、そこに座りなさい」
少年の視線を受けて、莉凛香は用意された座布団の上に座った。女は自信に満ちた笑みを浮かべた。
「私は椿だ。この山で祀られる霊木、椿木の化身にして鬼神の部下。主からこの山を下賜されて以来、行き場をなくした女達を受け入れている。ここに来たということは、お前も私の助けが必要なんだろ?」
「私……私、貴女の助けなんかいらないわ。守羅を返して、一緒に鬼神に会いに行くのよ!」
「守羅というのは?」
「私の護衛で……家族同然の人。さっきこいつが、守羅をどこかにやっちゃったのよ!」
「どこか、か。コハル、お前空路井を使ったのか」
「はい、母様。男をこの山に入れるわけにはいきませんから」
「なるほど。すまないな、お嬢さん。まさか君が私の衆生ではなかったとは。だが、空路井は不可逆の井戸。君の連れを見つけることは難しいし、規則は規則。それを謝りもしないぞ」
「そんな……!」
莉凛香は泣き崩れた。大好きだった姉との別れが蘇る。あの時も突然だった。最後に交した言葉はなんだったろう。思い出そうとしたが、何気なさすぎて思い出せなかった。まさか、守羅までおなじように居なくなってしまうなんて。
椿は幾分か表情を和らげた。
「すまなかったな、お嬢さん。だが、女子を悲しませるのは私の本意ではない。せめて、鬼神の所に案内しよう。……コハル、向こうに帰るのは明後日だったな」
「はい、母様」
「明日にしなさい。それから、彼女が泊まれる部屋を調えるんだ」
コハルは頷いて去って行った。椿の部下である女達がやってきて連れていかれるのに、抵抗する気力もなかった。
用意された布団に横たわって泣いているうちに、意識は闇に溶けていった。
「ほら、こっちだ嬢ちゃん」
コハルに手を引かれ、莉凛香は山を登った。本物の霊山は昼でも薄暗く、空気はぬるく湿っぽい上に、なんだか腥い匂いがした。
椿の屋敷より遥かに立派な屋敷は、しかし、花がなく怖く見えた。震えながら庭に入ると、白い尻尾が目に入ってきた。
「中庭の掃き掃除は終わった。次は何をしようか」
「いやぁ、守羅は働き者だなぁ!」
「……え?」
「はぁっ?」
思わずコハルと顔を見合せた。怒りに近い感情がふつふつと湧き上がってくる。
「守羅!なんでこんな所にいるの!」
「……ああ、莉凛香。弱ってた鬼を助けたら、気づいたら招待されてたんだ」
「こんなこと、初めてだ……」
「昨日の妖怪じゃないか。よくもやってくれたな」
「あれはお前達が悪いだろ……!」
「コハル、ようやく戻ったか。椿姫の様子はどうだった?」
現れた鬼に、莉凛香はぞっとした。それほど醜かったのだ。顔は歪み、口は裂け、角が生えていた。コハルは跪いた。
「鬼神様!ええ、ご健勝であらせられました。ただ、この小娘の用を聞いてやって欲しいとの事です。おい、お前も跪けよ!」
鬼神は箒を持ったままの守羅に声をかけた。
「半妖の主人か」
「まあ、形式上」
「紹介状は受けとっている。もう少ししたら推薦状を書くから、それまでゆるりと寛いでくれ。お前達、昨日情けをかけられたからと半妖に甘えるな!しっかり働け!」
主の大声に、妖怪たちは元気よく返事をして持ち場に戻っていく。鬼神は奥に引っ込んだ。後には腥い臭いが残った。
残された二人にコハルが言った。
「親方様がああ言ってらっしゃるんだ。奥へどうぞ」
通された部屋は以外にも清潔で、莉凛香には感性の良さの程度が理解できない高級な調度品は統一感をもって格式高い雰囲気を演出していた。
「妖怪というより、公家の屋敷みたいだ」
守羅が言ったのを聞く限り、趣味は良いようだ。
「それで、アンタ……コハル?どういうことなの?守羅にはもう会えないなんて嘘、よくも吐いたわね!」
「俺だって本当にそう思ってたんだよ!空路井は落ちた奴を無差別に転送するんだ!本来なら悪食の妖魔がウジャウジャしてるような場所に飛ばすはずだったのにさ。まさかそれが、こんな近くに落ちてくるなんて初めてだったんだって!」
「悪かったな、ピンピンしてて」
「とにかく、守羅が無事でよかった……」
莉凛香は温かな尻尾にもたれかかった。全身から力が抜けていく。
「嬢ちゃん、これから親方様に会うのにそんなんで大丈夫か?」
「うっ……」
莉凛香は背筋を伸ばした。守羅に頭を撫でられた。
短い沈黙の後、奥の襖が開いた。
「親方様がお呼びです」
鬼神は非常に醜い容貌をしている。妖怪にとっては、逆にそれが威厳となるようだった。
コハルを介して受け渡された紹介状は、莉凛香には読めない文字が書かれていた。守羅は黒真珠の瞳を細めて頷いた。
「我々のような人界の者にこのような温情、ありがたく存じます」
「気にする必要はない。それより、頼みたいことがある」
合図されたコハルが差し出したのは、猫の瞳のような宝石だった。
「根付として持っておけ。私の妖気が篭っている。一定期間、私の瞳の代わりとなるものだ」
「俺たちを使って日華国の様子を偵察する、という訳ですか」
「情報に聡いに越したことは無いからな。不服か?」
「いえ、全く。俺がつけましょう」
「なら良し、安心するがいい、いつまでも効力が続くというものでもないからな。さあ、お前達の事情もなかなか興味深いが、紹介状にはなるべく早く返すようあった。配下におくらせるから、兎人の所に戻るといい」
「ありがとうございます」
守羅が深深と頭を下げたので、莉凛香も真似した。
有糸という名の少年鬼に連れられての下山は、想像以上に早かった。やはり、土地勘がある妖怪は一味違うのだろう。有糸はころころと機嫌が変わり、よく笑いよく怒る可愛くてお喋りな妖怪で、莉凛香の心も少しは和んだ。兎人の郷に着いた時、別れるのが惜しまれる程だった。
名残を吹き飛ばすように、波の音が強く響いた。




